人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

本心開発と宗教の終焉

2024-06-18 09:35:02 | 宗教
“あの先生の教えを信じ、従って来たが、一向に悟りの道が開かれてこない...“

宗教、スピに関わることで、このような感想を持つ人も多いことでしょう。
何度か触れているように、これは信じる方にも教える方にもその心的態度に問題があるのです。
その教師は、自分が研鑚して得られた境地を教えやメソッドとして表し、説いているのでしょうが、信者には当然向き、不向きがあり十把一絡げに適応される訳ではありません。
しかし、“これが無上の真理、メソッドなんだ!“、なんてことを言うもんだから、その圧に屈したりしてしまうのでしょう。
信者は教師に依存しているのは勿論ですが、教師もより多くの信者に依存したいからそのように誘導しているのです。その集団は共依存の関係でなっているのです。
これは集客、利益の獲得につながる訳ですが、それだけじゃなく、そういう教師は、間違いなくそのように認めてもらいたい欲求が強い、エゴが肥大した人間なのです。
そうでなくても、その集団の取り巻きにそのような精神が支配しているのです。
信者の依存心理は改めて言うまでもないですが、思いは集団的思念に支配され、教師の方にばかり向けられ、自分自身に向き合うことが出来ません。
自己の内奥に向き合わずして、悟り、目覚めの道が開かれる訳が無いではありませんか?
だから、これらのことを自分の本心に聞いてみたらいいんです。
ン十年も教えを教えられた通りに信じ、修行してきたが、ちっとも愛や安らぎ、幸福に与ることは無かった...この教えでないと叶わないので、本当は気が向かないけど続けるしかない!...
気が向かない、意識が自ずと向かないことが、如何に自分の本心を偽っていることが分かりませんか?
もう分からなくなってしまったほど、それは曇らされ、フタをされてしまっているのですか?
だったらあなたの神に祈るしかないでしょう?...自分で自分自身のことが分からなければ自分を超えたものにゆだねるしかありません。これは、信者の依存感情とは違います。本心を表すということなのです。
間違っても、あの先生が、集団が説いている神ではありませんよ!
本心を覆い隠したままで、悟り...いや、それは本心開発なのでしょ!、あり得るはずが無いではありませんか!

今までもそういう言葉は知っていたけど、ここ最近突然私の意識に登り始めた、この悟り~本心開発という言葉...
本来の宗教とはどういうものだったのか?...本心に照らせば...こんな自明なことは無いではないか?!
もう、宗教世界に蔓延している他に教え、広げ、支配し、信じ、従い、依存する...デキアイ、ナレアイ関係は、一人一人の本心が顕わになり、それに照らされることにより終焉を迎えることになることを強烈に感じてなりません。









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宗教の本筋に帰る

2024-03-15 09:53:23 | 宗教
今の時代は、例えば、“権威ある、エライ先生がこう言っている、経典にこう書かれているから”、というだけで鵜呑みにして、追従してしまうような心的在り方は、もう古いものになって、通用しなくなってしまったように思います。
宗教の世界などでは、今だにこの旧時代の在り方から離れられないようですが、これは、そこに支配している集団的思念の世界から離れて、我々一人一人に直接的に、宗教的真理に目覚められる土壌が育って来た、そういう精神が養われるようになってきたという傾向の現れということなのでしょう。
それが本来の宗教的、精神的な道なのです。
“この現実世界とは別に霊界というものがある、前世がある...“、こういう自分自身で確かめることの出来ない予断、予見を信じる在り方はもう時代遅れ、智恵遅れ(!)なのです!
だから、人間は、神から分かれた霊なんだ、だから本来神と一つなんだ!、なんて話はどうだっていい!...なんて...まるっきりそうだとは私は思っていません!
こういう教えは、神道で主に説かれていて、五井先生もよく説かれておりましたが、神の分霊云々というのは、我々凡人には確認の出来ない(ということは、否定も出来ない)説明的表現に過ぎません。
しかし、こういう“神の子観“的な教えで、五井先生などは、どういうことを伝えようとしていたのでしょうか?
それは、このここに生きている私は、一個の、ポツンとあるものでなくて、もっと大きな、深いもの、則ち神的なもの(名称はどうあれ)とつながって生きている、生かされている、ということなのではないでしょうか?(先の説明的表現も、その言葉自体に囚われることなく、このことを指し示す、ある一つの“メタファー~表徴“的な表現として捉えるのなら有効でしょう)
又、このことを実感出来るようになるには、祈りが必要なのである、と。
そうして祈っていると、いつの間にか本当にそうなるではないか!...そうなっている時、思いから離れることも出来るのです。
本当に大事なこととは、これからズレるようなあの世的な理屈を知ることでなく、これを意識に留めておくことでなくて何であろうか!
こうならないと、我々一人一人の実存世界に生きたものとはならないのです。
これが、あらゆる宗教、スピリチュアルの道の本筋であるはずです。ここからズレて、あの世的な、オカルト教説などにハマることなど本末転倒も甚だしいと言わねばなりません!
本筋というものは、自ずと帰る、帰らされるもの...何故ならば、そこにはあの世的な理屈からは与ることの出来ない、愛、平安、リアリティがあるから!
けだし、それが我々が本来から神と一つである在り方ということなのでしょう。
今や宗教は、その本来性、本筋に立ち帰る時を迎えているのではないか!...
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第一義のもの

2024-01-07 09:52:06 | 宗教
私のこれまでの読書傾向として、キリスト教関係のものが多かったように思います。
それらの信仰書とか直接の関係は無くとも、西欧の文学、哲学などはそれを背景に持ったものが多く、それを含めるとかなりの量にもなりましょう。
そして、それに多く共感を受けてきたのも事実です。
いくつかの集会にも出入りしたこともあります。
でも、私は一度もキリスト者を自認したことは無かったのです。
勿論私は聖書を片時も離さないような人間でも、時たまでも読んでる人間でもありません。
又、当たり前のことですが、キリスト教だからと言って、どんな本でも読んで共感を受ける訳ではありません。中には抽象的な観念ごとや、独善的な護教論に終始してたり、到底読むに堪えないものだってあるのです。
キリスト者を自認する人の多くは、その聖書、教会、教義などに賛同しているのでしょう。
そして、他宗教の本などには、深く追求したり、傾倒するということも無いのでしょう。
しかし、たまたまある契機に、他宗教のある教えに触れて、自分の心の奥に深く響くのが感じられたらどうするのでしょうか?...護教精神を脅かすものだからと、深追いしないように、避けてしまいますか?
これが肝心なことなのです。私にとっては、如何に自分の心奥に突き刺さるものがあるか、
魂を揺さぶり、自己実存を目覚ませるものがあるか...それに尽きるのです。
他に何があるだろうか!...それには、宗派の相異など問うところではありません。
何故、自分の魂、実存に関わることを宗教の諸々の決まりごとなどで覆い、壁を造らなければならないのですか!
例えば、何が原始のイエスの福音なのか、ブッダの原始の教えなのかを追究することも、こと自分の内奥を開くことに関して重要な意味を持つことでしょう。
だけど、それはあくまでそのことあってのものであるはずです。一体、何が取り換えの効かないくらい第一義のものなのか?
そこからズレてしまうことが無ければ、何が正統で、異端だろうと、どっちでもいいではありませんか?
大体そういうものは、どっかのエラそうな物言いが勝手に決めているものに過ぎないのですから!...(ただ、一つキリスト教関連で言えることは、その実存に迫る思想~実存主義の台頭には、かなりその影響が大きかったのも事実で、この部分が多く私の共感を呼んだのでしょう)

と、まあ、こういうのが私の精神的な歩みであったのです。
だから、“あなたは何教か?“、なんて訊かれても分からないですよ。
“本格的に“、こういうイイカゲンな道が始まったのは、そう、あの無名の、見えざる御方が私に臨んで来てからだ、とは言えるでしょう。
これからズレたことは一度もありません!...


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神と仏

2023-11-26 09:31:09 | 宗教
まったく常識的なことですが、日本人は昔から神と仏を信仰している、それが日本人の宗教なんだ、と言って大抵の人には頷いてもらえるでしょう。
そのように一般には認知されているのです。(いや、そうしてみると一宗派の一つに過ぎない仏教の影響力の大きさというものを改めて感じてきます)
で、“神と仏とはどう違うのか?“、なんてことも昔から取り沙汰されたりしています。
そんなもん、どっちも自分、思いを超えているということでは同じだし、そんな理屈ごとなんかで神仏につながることなど出来まへんやろ!、と私は言いたくなる訳ですが...
理屈を言ったら神にも一神教やら多神教やらあるし、仏でも、ブッダその人を差したり、そういう悟った人のことでもあるし、内なる仏性のことみたいだし、大乗になると、それは仏教に非ずということも言われているが、大日如来とか阿弥陀、観音様とか神と同じように礼拝されたりしているのも沢山あったりで、もう、きり無いわ!...訳が分からないから大雑把に“神仏“でいいんでしょう?
私はしかし、どうしてもそこに意識が向かわざるを得なくなるのです。
意識されると、先のように区別など出来なくなるのですが、それでも幾分その“向き“に異なるものも感じます。
神という言葉からの、又それを超えた響きには、いつも言うように自分、思いを超えた、超越的なものが感じられます。そこにも自己と切り離されないものがあるのは言うまでもありませんが...
一方仏というのは、大日如来などのすべてに超越した宇宙神のような性格を持ったものでも、自己に内在する仏、仏性のようなもの、言うなれば真我的なものと切り離されないものが感じられます。
いや、当のブッダはそうした実体ある真我を否定し、無我を説いたんだ、という意見もあるでしょう。
いやいや、それは我があろうと無かろうと、凡我を超えた“梵我“のことを問題にしているのに変わりは無いんだ、なんて声もここから聞こえるぞ?!...要するに真我的なものの響きが伝わってくるのです。
だから...“日本人は昔から神仏を信仰して来たんだ“、と当たり前のように馴染んで来た思いに改めて意識が向けられると...そうだ、我々は超越的にして内在的な、普遍的な宗教精神を、そうと知らずに育んで来たのだなあ、と感じてきて、何とも言えない驚きと感謝の思いでいっぱいになります。
何か自ずからす~っと、その一にして二、二にして一なる、ひいては全一なる“神仏“に吸い込まれるようになるのです。
いいかげんにして、大雑把な日本人の神仏観には、このような普遍性に開けた、“大和“なる精神が内包されているのです。
日本人の内なる神仏のこころが呼び覚まされるのを願わずにおれません!...

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この普遍世界に向けて!

2023-11-19 09:28:44 | 宗教
普遍性へと開かれたものとして降ろされた、五井先生が提唱された「世界平和の祈り」もその祈り言に囚われたためか、一宗一派の祈りになってしまった感のあるのは実に残念なことです。
その点、出口王仁三郎師が「世界の宗教の統一とは、世界中を大本の教えにすることではない。名称は神だろうが、仏だろうが、キリストだろうが何でもよい。すべての宗教団体なり思想界が、宇宙根源の神の意志どおりになったら、それで世界の平和は実現するのだ」と述べていたことに私は普遍世界に開かれた精神を感じざるを得ません。
その宗派の信者たちが、その置かれた立場でその奉ずる神仏なりに、本当に意識を向け続けたらいいのです。それはやはり祈りを通して(勿論、形は慣れ親しんだものに則ったもので構わない)ということになるでしょう。
ところが、各宗派の人たちはそうして祈りをしているかというと、多分してないだろうと思いますよ。していても因習、形式に堕してしまっていることでしょう?
それよりも、教会や寺社の維持とか、諸々の行事などで忙しくて、なおざりになっているんじゃないですか?
とにかく宗教団体というのは、どこでも老朽化しているのが現状なのでしょう。
だから、意識的になって祈りをすることが必要なのです。意識的に祈るとは、観念ごとじゃなく、その宗教の原始に立ち返って、神的なものに帰一することに他なりません。
もっとも、それは、各自の思いを超えるばかりか、その宗派の枠も超えてしまうことにもつながるかもしれないのですが...それが普遍性に目覚めるということなんだ!
又、日本人は無宗教だ、なんて言われていますが、特定の宗派に属さないことが無宗教を意味するなど、とんでもない認識不足と言わねばならないでしょう。
これは、その実日本という国は、無教会、無宗派信者の天国ということの裏返しではありませんか?
無教会、無宗派とは、因習やセクト性から自由であるということ...自由であるとは精神的にいつも若いということです。
こういう人たちこそは、自由な精神で、祈りや瞑想を通し、神的なものにつながることが出来るでしょう。
日本人は生まれた時からこういう特権に恵まれていると言えるのです。
一度、宗派に属している人も属さない人も、皆にその内に眠っている火種に火が付くなら、それはもう大変な世界平和実現に向けての、大きな“うねり“をもたらすことになるであろうことは、私には手に取るように感じられることなのです。

私はこういうあまりに不相応な、大それたことを声高らかに叫ぶつもりなど毛頭ありません。
一自由人の、言い換えれば一無生産者の戯言と思って頂いて結構です。
ただ、これを読んで頂いた縁ある人たちに、私の思い、祈りが伝わらんことを願って記しただけなのです。
心ある方の意識にとどめられんことを!...
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