人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

失われた世代

2020-01-29 12:07:59 | 雑記
私の生活の中で音楽との関わりは欠かせないものがあります。
昔から聴くことが中心なのですが、それが高じて近年、カラオケなどで歌うことも好きになってしまいました。
何百とあるそのレパートリーのほとんど、9割以上はこれが洋楽なのです。
それも、そのジャンルが又、ぎんぎんのハードロック系からバラード系、スタンダード系、ラテン、カンツオーネ...と、"普遍性"に目覚めているのか(i?)幅広いのが特色です。
大概は誰にも気兼ねしないで歌える"ワンカラ"が多いのですが、仕事仲間らと歌う時も、当然そっからチョイスすることを厭わないので、最初は"何であんなショボい、目立たないヤツがi"、と驚きの表情を見せたり(こういう裏側のベールが顕わになる瞬間がタマラナイんです。フフフ...)するんですが、中には、"アイツ、キザでイヤなヤツだなあi"、と思ってたりするはずです。...でも何度か重ねてるうち、"巻き舌のシタちゃんi"、って顔がお馴染みになってしまうようです。
"好きなものは好きなんだから仕方がないi"
人生では、どこまでも好きなことに徹し、貫き通すこと、言い換えれば、"居直ること"が大切なことなんですi(でないと、中々裏側の扉は開かれない?)
ところで、音楽のことになると、大概、青春時代それに馴染んだのはどの時代がど真ん中だったか? "あなたはいつの世代だったか?"、ということが話題になるものです。
私だったらさしずめ、「キャンディーズ」とか「ピンクレディ」とかの世代になるのでしょうが、しかし、私はその70年代を中心とした時期、これが前記したことと関わっていて、ずーっと洋楽に馴染んでいたのです。
しかし又、その年代には同時代を生きてきたという思い入れがあるのも確かなのですが、カラオケのその洋楽レパートリーで圧倒的に多いのは60年代のもので、その大半はリアルタイムで接していないのです。
しかし又々、その70年代に聴いていたのは、専らラジオで流れていた英米を中心にしたロックやポップスであり、もっと意識的に、つまり自分のお金をはたいてレコードなどを求めて聴いていたのは、戦前のアメリカン.ジャズ(1920年代が多かった)などだったのです。
要するに、ことに音楽から想起される私の世代というのは、なんだか分からないのですi
というか、最近つくづくそういう記憶を基にした世代感覚というものは、有って無いようなものだ、と感じてなりません。
音楽に限らず映画でも書物でも、観返し、読み返ししているうち、新たな感慨が生まれることは誰にでも経験があることでしょう?
例えば、最近レパートリーに加えるつもりで覚えた、「ザ.プラターズ」の「煙が目にしみる」("Haaa!")などを繰り返して聴いていたら、私にとって当世の流行曲のようになってしまうのです。
これは今の、ここに居ながらして、あらゆる時代、あらゆるジャンルのものにアクセス出来る、という時代相というものが、よりいっそうそのように喚起させるのでしょう。
しかし、そうなると、その時代その音楽によって彩られた懐かしさというものは、きっと"目の中に煙が立ち込めるように"、薄れて行ってしまうことになるでしょう。
悲しいようだけど...今が楽しけりゃ多分いいのでしょう...。

コメント (4)
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人間ー分かっていて分からないもの

2020-01-28 09:59:07 | 独語
人間は人間のことが分かっているのだろうか?
"そりゃあ、人間だから..."って言うのか?
あなたは本当の自分なのか?
世の中では毎日のように、凶悪な、酷い犯罪が起きている...
人々はこう呟く
"人間にあるまじき行為だi"
この人たちには人間らしい有り様、生き方が分かっているらしい...
寝て、起きて、食べて、出しての繰り返しに思えることでもそうなのだろうか?
それとも内心では、ちっとも人間らしさなど感じてなくて、仕方なしにそういう生き方に甘んじながらも、どっかでその"らしさ"を求めているのだろうか?
本当の人間の営みには本当の愛、幸せ、平和がもたらされるのだろうか?
"寝て、起きて..."の繰り返しの生活、否応なしに飛び込んでくる、人間でないような有り様の数々...この中のどこかにそういうものが求められるのだろうか?
現実には無くとも、どっかでは感じられるのだろうか?
それともただの理想、夢なのだろうか?
"夢"...夢でもいいよなあ...本当にそう感じられるのならi
目覚めてもなお感じられるのなら...二度寝はしてはいけないi

人間は人間のままでは人間のことは分からないのではあるまいか?
人間のことが分かっているらしい人間の行く末は、人間でなくなるのではあるまいか?
人間は現状の人間でない、人間を超えた何かが分かるらしい、本当の愛、幸福...少なくとも感じられるらしい...
それが本当に分かった時、我々はやはり人間でなくなるのだろうか?
しかし...そういうものが分かるということが、人間のあるべき姿のようにも思える
どこにもありそうで、どこにも見当たらない、どっから出てくるのか、人間なるものの標準...

ああ..人間というものは分からないものだ...
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恩寵と苦しみ

2020-01-26 10:26:30 | 求道、探究
少し前の大御所スピ教師Aさんの「かんながら」というブログのコメント欄で、"一瞥、至福の体験がある前には、地獄の苦しみがある..."とまるで誰にでも当てはまるかのように、決めつけたことを言っている人がおりました。
地獄の苦しみi...ハテ私にはそんなんは無かったですけどねえ...
そうですね、そうなる直前まで地獄とは行かないまでも苦しかったのは確かですよ。
それはしかし、発熱、頭痛によるもので、ほとんど身体的なもので、このコメント主さんのように、精神的苦しみまでを伺わせるようなものではなかったのです。
むしろ、"じわじわ、じんじん"と神の手がかかりはじめるにつれ、その苦しみから解放されるようになったのです。
これは何度も触れているように、思考、身体機能が後退してゆくプロセスのことを言っていて、何か回りのすべてが暗闇に包まれて地獄の様相も感じられましたが、苦しみなどありません。
ことにそれにより思いを超えた世界が開かれる、ということが人生でホントーに大きいことなんです。
そして、これはホントに神の恩寵のなせる業なのです。これはホントに思われたままのことしか知らない人の与り知れない、知ろうともしないことなんです。ホントにもうーi
これがもし、神の手の中で行われないとすれば、おそらくは...地獄の苦しみを経なければならないかもしれません。
そうでなくても、自力で思いを超えることにトライすること自体、相当な苦しみを経験しなければならないでしょう。
私は"自分の力で..."何てことはやろうとしたことも、思ったこともないので分からないのですが...
いずれにせよ、"至福に与るには思考を超えなければならないi"...これは誰にとってもホントのことでしょうi
しかし、それには苦しみを受ければならないということではないでしょう。(苦しみというのなら各々の人生でこれでもか、というほど経験しているではないか?)
確かに、これまでの宗教的、精神的道では、多くこの思いを超えることと苦難を受けることが結びつけられて来たようです。そして、人間が背いた罰として神がその苦しみを与えた、とか何とか...
"ホントにあなたの神はそう言ったのか?...あなたはいつまで怒れる神を向こうに見て、恐れ、遠ざけるつもりなのかi 何故愛なる神を受け入れようとしないのかi"
コメント主さんは、先のことを踏まえて一瞥体験には、死ぬような覚悟が必要だと言ってましたが、これはある面でその通りだと思います。
思いを超えるという関門を通る、ということは"思い描いている"ようなことじゃないのだから...ある意味で命懸け、命を懸けるというのは確かなことです。
でも、それも神の手の中で覚悟(これは神の愛に落ちることへの同意のようなもの)が決まり、通らされることなのです。
大変なことだけど、ラクなことだとしか言いようがありません。
コメント (2)
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神の愛

2020-01-24 11:54:14 | 
幼少時代に複雑な家庭で育ったり、親の愛に接することが出来なかったりすると、冷酷な人間になったり、犯罪に手を染めてしまったり、問題を抱えた人間になってしまうようなことを言われます。一種の運命論みたいに。
そうですね。問題だらけのようだ、この人生はi
物心ついて母親に甘えたい頃、その母は入院して居ませんでしたし...。
運命論みたいなものに囚われると、そういう自分になってしまったことを環境や親のせいにする傾向もあるようですね。
しかし、私は人並みの愛情を受けて育っていないのかもしれませんが、ことさらそういう風に思いを向けることはありませんでした。
なにしろ、意識はあまりしてませんでしたが、おそらくは心の底では愛に飢えていたのでしょう...だからなのかもしれません...この世の誰にも教わったことも、伝えられたこともないような愛に与ることが出来たのですから...
神的な愛、神の愛。"神は愛なり"...神にはどんな形容も当てはめられるものではありませんが、私はどうしてもこう言わずにおれないものを感じているのですi
それはこの世のどんなものとも代えがたい、とてつもなく...それが形容しがたいものなのですi
精神的な目覚めの体験に与ったこともありましたが、この愛無くしてそういうことにはなり得ない...否、それ自体が神の愛の一撃を受けたことに他ならないのです!
然るに、何とスピ界隈は、頭でっかちな、主知的な方向に走りすぎていることでしょうi
どうやったら覚醒出来るか...悟りにはレベルがあって、より高きレベルを目指すには...何てマインドがマインドの中でさ迷い続けていても、そういう思いが超えられなければどこにも導かれないでしょう。
これが神的な愛の一撃無しには開かれないことなのです。
もし、これによらない精神的目覚めがあったとしても、愛、平安に与れるという保証は無いのではないでしょうか? 誰がそんな究極の悟りの境地など望むのでしょうか?
これに従えば、神の愛の臨まない、神の望まない目覚め、一瞥体験というものもあるのかもしれません。
逆に言えば、もし愛、平安にあれば、神の愛を感じないのはどうかしてるとしか思えません。
神の愛は誰にでも開かれているものでしょう。少なくとも誰にでも感じられるものだと思います。
その一撃を食らった時、神的な愛というものは、誰から教わらずとも、元々自分の中にあるものだと気づかされたからです。

私はある意味での運命論は信じていません。
しかし、私の神の愛に目覚めさせられた運命を疑うことが出来ません。
それは母が残したこの言葉によって辿らされたことなのです。
"お前は神に守られているのよi"
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愛ー近くて遠いもの

2020-01-22 09:57:13 | 
人を愛するって何て難しいのだろう...
これがネコだったら簡単なのに...
ネコはメスでもオスでも可愛い
子ネコでも老ネコでも可愛い
すりすり、もふもふ、ぷにゅぷにゅ...
生まれ赤子にも分かることなのに...
策略、裏切り、憎しみ、恥ずかしい、エロい、汚い、醜い...
人間の愛って何でこんなにややこしいんだろう...
ああ、ネコの国に行きたいi
だけど...
ネコは"愛してる"と言ってはくれない...

生まれ赤子...
何でこんなに大きくなってしまったのかi
何でこんなに遠くまで来てしまったのかi
愛するがために嫌われるのか?
嫌われるがために愛するのか?
ああ、ややこしi
赤子の心、赤き心、真っ直ぐな心...
どこに隠してしまったのだろう...
手を伸ばせばすぐ触れられるのに...
すぐに言葉に出来るのに...
誰もが皆子供だった...

可愛いねえ、いい子だねえ...
さあ、こう言ってごらんi
"あ.い.し.て.る"...
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