人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

イシヤが映す人類の未来

2018-06-27 00:09:09 | スピリチュアル?
私は数十年前、"人生の裏側"に入り込み、普遍世界というものを垣間見たのでした。
この普遍性というのは、毎度の事ながら言葉に言い表せないものなのですが、一個の自分がそれだけで成っているのでなく、どこまでも普ねく、遮るものなく、生き通っているような感じのことを伝えているのです。
それは、あたかもここでこちらが発信したことが、あちらに直ちに、光通信のように伝わってしまうようなことです。
何故、こういうこの世の在り方でないような事が可能なのか? そうですね...おそらく元々彼此を隔てるものが無く、つながり合っているからでしょうね。
しかし、これはあくまである種の変性意識状態の中で示された訳で、現実世界に置き換えられた場でのことで無かったのは言うまでもありません。
ただ、私はそこである強い直観を受けていたのは確かなことです。"この私の内なる世界で実感されたことは、現実世界に移って来るのではあるまいか?" 何の確証も無いことだったのですが...

もう、お分かり頂けただろうか?
今日の世界で我々が目にしているのは、私がその時垣間見せられた世界のある、"見える形"での側面に一歩一歩近づいて来ているプロセスではあるまいか?ということなのです。
おそらくこのネット社会を猛烈に促進しているかもしれない闇の力?は、彼の世界のある部分を映し出しているように思えてならないのです。
とはいえ、どうしても私にはあの世界が完全に見える形で実現してしまうようには感じられません。
それが出来上がったとしても、あの信じ難いリアリティに比べたらハリボテ以上のものにはならないだろう...と。
そして...我々が待ち望んだ普遍世界の実現とは?...
驚異のサイレント映画「メトロポリス」や最近の(でもないが)名画「ブレードランナー」で描かれたようなロボットやアンドロイドが支配する、天国とは似ても似付かない、おぞましい超管理社会なのかもしれない...
私が上述したように感じてしまうのには、じっつに大きな理由があるのですi
この見える形での"天国移写計画"には、ある決定的なもの、それ無くして成り立たないあるものが"見えてこない"のですi
それは...神的なあるもののことです。
それを欠いたら、内実を欠いたヴァーチャルなもの、映画のセットみたいなものでしかないではないか?
おおよそこには生き生きとした愛も平安も感じられません。どこまでも無機質な機械的肌触りしか伝わってこないのです。
それでも、このプロセスは実現へ向けて促進し続けられる...着々とその舞台は整えられる...
それはこの世の王の支配する地上王国建設の野望なのか?、それともそれは我々人類の総意なのか?
闇の政府のようなものは、多分実在しているでしょう。彼らはしかし、ある意味で我々の意志を代行しているだけなのかもしれないし、あるいは我々の意志が彼らに反映されているのかもしれません。(我々の夢のある部分を実現させているのは確かなことです)
どっち道我々の未来は、我々一人一人の意志に懸かっているとは言えないでしょうか?
神的なものが有るか、無いかは安易な陰謀論やオカルト思考、依存的信仰などからは見えてきません(こうしたものにこそ陰謀の何たるかが見えてくるではないかi)。
明晰な主体的意識の在り方、自己信頼から開かれてくるでしょう。
我々の未来に目の当たりにするのは、普遍世界なのか、それともおぞましき"アリ塚"なのか?
日月神示にあるイシヤの役目とは、見える世界と見えない世界に横たわる、善と悪、真偽の二道を映し出すことにあったのかもしれません。

"信じる、信じないはあなた次第ですi"
コメント (9)
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陰謀論と神の仕組み

2018-06-25 17:40:12 | スピリチュアル?
「イシヤの仕組みにかかりてまだ目覚めん臣民ばかり。日本精神と申して卍の精神や十の精神ばかりぞ。この度は神があるかないかを、はっきりと神力見せて、イシヤも改心さすのぞ」(日月神示)

日月神示は一部のスピ関連の間で、重要な陰謀論ネタと目されています。
"イシヤ"、"悪"の仕組みとして出てくるのがそれで、その辺りをネットで検索してみたら、ずらっと"イシヤ=フリーメーソン"と、決めつけた言辞が並んでいます。
ところが、日月神示にはどこにも、"イシヤはメーソン!"とは明示されていないのですi
こういったネタに限らず、如何にこの文献が、短絡的なオカルト的興味の対象にされているかが伺われてきます。
(蛇足ごとであり、逆説的ですが、凝り固まったオカルト脳に陥らないためには、又あれこれの流言に惑わされないためには、丹念に、まっさらな心持ちでこの神示を読まれることをお勧めします)
とはいえ、どうしてもそう理解されてしまうのには理由があって、近代フリーメーソンは、ヨーロッパ中世の石工組合が母体となって成立したという史実があるのです。
しかし、神示に書かれている内容はとても中世、近代史以降のことにとどまるものでなく、どうも神代の昔からの因縁とつながっているらしいのです。
イシヤとはもしかしてメーソンのことを差しているのかもしれない...しかし、それを含めた特定することの出来ない、人類の歴史と深く結び付いた、その裏側で暗躍し続けている、"見える"あるいは"見えない"(それは複数かもしれないし、一体のものかもしれないし、同一異体かもしれない...ヤマタノオロチのように)何らかの集合体と見ることも出来るのではないでしょうか?
こういう事は、何も神様のこととか、異次元の話を持ち出さなくとも、誰でもその得体の知れない、霧に包まれたどこまでも深く、広がった魔的複合体といったものの妖気を感取出来るのではないでしょうか? あなたは毎日毎日ウンザリするほど見てるハズですi 政界、財界、学界などに...自分が関わっている会社、学校(そうだ、日大だi)などに...私はその魔物の巣窟のことを"機構"という言葉一つで言い表してみたいです。
しかしこの魔物というのは、この得体の知れない集合体のある側面について、そう表現しているまでで、別の面では毎日毎日その"暗躍"ぶりに対して、感謝しなければバチが当たるかも知れないほどのものを感じているのです。
それ無くしてこうしてブログを書くことも出来ないのですからね。(その涙ぐましい貢献は、OA機器の爆発的進歩、ネット社会の飛躍的普及などに表れているようです)
このように良くも悪くも、我々がいつも目の当たりにしているこのものとは...多言を要しない、"物質世界"のことですi
相対的な物質世界では、"便利"、"有り難い"事と引き換えに"悪しきこと"や"ひずみ"が生まれてくるのは必定なのです。
世界史的に、この物質文明が飛躍的に進展したのは近代以降でしょう。
フリーメーソンは各国にネットを張り巡らし、この近代化に貢献(暗躍)したのです。それは私利私欲、権力を独占するためでしょうか?(私だったら、ただで社会貢献など御免です。だから"このくらい"は許されて当然だと思いますが)結果的にこうして恩恵に与っているのは確かなことです。
これは"物質は悪i"と決めつける、偏った偽善者たちには、到底気が付かないことなのでしょう。
メーソンを含めたこの得体の知れない集合体は、有史以来物質世界を切り開くことを担っていたようです。
担っていたとは、許されていた、やらされていたというフシが伺えます。
その辺りの消息は日月神示に"悪の御用"として示されています。元の神というか、大神の仕組みの一端として御用をしていたらしいのです。
しかし、それも未来のある節で"ぐれん"となるらしいです。そしてこれは、示しにある、"悪は無くすのでなく、改心させ、抱き参らすこと"と関係があるのでしょうか?
例によって有ること無いこと幻説が飛び交っていますが、それがどういう事かは明示されてません。
大神のご意志は果たして那辺にあるのかは、計り知れないものがあります。(信じない人、興味ない人、アレルギーの人には全く関係無い事であるのは、言うまでもありません)
しかし、そういうものを知ろうとする前に、"あなたはどうなのか?"ということが肝心なことでしょう。
物質世界...それはこの見たままの世界...この世というもの、ここで生きていることに各々向き合うことで、それぞれの未来というものも見えてくるかも分かりません。




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公平なる陰謀論

2018-06-24 11:59:25 | スピリチュアル?
このブログをずっと読んで下さっている方なら、ここで書かれていることに、共感出来るものには共感し、そうでなければスルーする、という書く方も、読む方にも言わば"スキズキ"の精神みたいなものを感じ取って頂いていると思います。
私は自分が好きで書いていることを、他に信じてもらおうとか、受け入れてもらおうという邪心?は持っていないつもりなのです。最初から取捨の選択は、あなた自身にゆだねられているのです。

どっかのブログで"フリーメーソンはチャクラを開く秘伝を有していて、命と引き換えに多くの人を誘導しようとしている..."とかナントカ、ただ他人の言説を鵜呑みにしたことを、これ又他にハメこもうというような意図で書かれてありました。
勿論、知性と教養ある人ならこんな与太話などに付き合えるわけがありません。
こういうことを平気で流している人は、フリーメーソンに対するごく基本的情報を持っていないらしいです。要するに教養が無いっていうことです。
その話を真に受けたら、まるでメーソン結社は、時折凶悪事件を引き起こし、社会問題となる洗脳カルト宗教みたいです。
私はそうした団体に自分もしつこく勧誘を受けたことも、高額な印鑑を"買って差し上げた"(騙されたのではないi)こともあるし、人からも随分、怪しげなセミナーに行かされたとか聞いたこともありますが、メーソンについては皆無です。
カルト宗教との明白な違いの一つは、入会しようとする者がその意志を明らかにしなければ入会出来ないという点です。無理矢理って線は無いのです。
又、"誰でもいいから引っ張ってこい"なんて、誰でも入会出来るってもんでも無さそうで、会員になるには一定の教養、社会的信用が求められ、既会員の承認が必要であるなど、カルトには見られないハードルがあるのです。
このように書いたからと言って私は別にメーソンを擁護してる訳じゃないですよ。
ただその周辺には常にこのような歪んだ思念が取り巻いていて、その実体を見えなくしているのではないか? 蒙は啓かれねばならないのですi その実体を知ることは実に我々の歴史、未来に関わるある極めて重要な秘密を開示することにつながるのではないか?
それにはあらゆる歪んだ固定観念を排して、公平なる目で、感性でその実体に迫る必要があるのですi
しかーし...これも又きっとその周辺に数多ある妄言の一つを提供することに過ぎないでしょう。
"フリーメーソンの実体"...あのねえ...それらは決して実体を見せないようになっているからこそ、秘密結社と言われている所以があるのですよi
つまりその周辺の話というのは、教養ある人も無い人も、どこにも真実性の求められない、ただのそれこそお話に振り回され、踊らされているだけなのではないですか? ホントにホントに人間てものは、有ること無いこと真しやかに語って、分かったフリをしたがり、自分自身のことには実に昏いものです。
"世界支配を画策する闇の結社"、あるいは"近代社会、国際社会の道を切り開いた啓蒙団体"...その実体は善か悪かi...そこには如何なる断定的見解というものにも導かれないハズなのです。私という人間がそうであるように?
こういうことに気付くことがそもそも公平なる見方、感じ方とは言えないでしょうか?

私は簡単に誰でもフリーメーソンになれる方法を知っています。
上記のような情報をさも見てきたように話してみるのです。
明日にもなれば、周囲の目がこう言っているだろう...
"あなたはフリーメーソンi"
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ある二重人格者のたわごと②

2018-06-23 11:31:23 | 独語
僕は二重人格者...
僕の中にはいつも光と闇、善と悪とがせめぎあっている
とても光一元、真、善、美ばかりを描いている訳には行かない
その対極に有るものを浮き彫りにせずにはおれない
思いを超えた、愛、平安、調和をもたらすものが顕現してくる...
しかし、今この世界に否応無しに見させられている現実はどうなのか
現実にハッキリ表れているのは、対極の、別のものではないのかi
"お前はどうなんだ...一切の誤魔化しを排して、お前自身の中に渦巻いているものを直視してみよi"
ネットに目をやる...おバカな、ズレた記事を目にすると批判精神がもたげてきてウズウズしてくる...
しかし、あからさまな批判は、どんな因縁、業をひっかぶることになるかしれない...
僕には「エンライトさん」や「さくらさん」のような覚悟が無い
だから...遠回しに隠れたところで呟くに限るんだ...(卑怯だろう?)

"この教えが唯一無二のもの...他の教えはアブナイ"
"ほとんどの宗教はフリーメーソンの手にゆだねられており、OO先生の道だけがそれから免れている..."
フハハハハ...完全にカルト脳に陥っているではないか、もう手の施しようがないi
何々、この御仁たかだか4、50ページばかし、書物のような装いの記事をブログにUPしただけなのに、一冊本を書いたつもりになってやがる...僕は100P以上ある本しか読んだことないが...勿論、公の、第三者の厳粛なる批評を通している訳(通る訳無いが)じゃない...なんというノボセ頭だろう...精々、隔離病棟で好き勝手に宣っていたらいいだろう...
よおし、ここいらで思いっきり差をつけてやろうか...
この御仁と僕は40年くらい前、ともにOO先生との縁で宗教的な道に導かれた
僕は(たったの)一年ぐらいで盲信、妄信の愚かさに気付かされ、そして宗教を超えた見えざる領域に導かれたのだ
ところがこの御仁ときたらどうだろう...あれが40年もの学び、信仰、修行の成果だというのか...いや、未だにどこに導かれるとも知れない道に、ズレまくりながら邁進し続けているのだi
何と哀れな、コッケイなことかi 無知蒙昧、無教養、短絡思考...
要するに...子どもじみてる、救いようが無いくらい幼稚だってことだ...

しかし...僕は知っている...
子どもみたいな人間がもっとも天国に近い人間だということが...
余計な思惑が離れたら、直ちにそういう人間が天国の住人になるだろう...
そして、天国の門が開くのに遅いとか早いとかは無い
僕にはもう、余計な知恵、狡猾さが身に錆び付いちまって離れそうにない...
気付きだとか、覚醒体験がどーたら、こーたらだとi
それは地獄行き必定の人間に救いの手が及んだ...ただそれだけのことだ
何かを目指して到達したとか、何かを得たというものは何も無い
自分が何かをやった、自分の何かがそれをもたらした、という思いが抜けない限り天国の門は開かれないのだ...
ホントに無知蒙昧なのは僕なのだ...

空はどんより...今日も悲しい雨になるのだろうか...
朝のファミレスのモーニング
ああ...自分の中の相反する二つのもののせめぎあいでどうにかなりそう...
ふと...オルゴール音楽に自ずと耳が吸い込まれる...

世界中にオルゴール音楽が流れれば、きっと世界中から戦争が無くなるだろう...
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そのものへの誘い

2018-06-21 17:19:06 | 意識、照明
このブログ記事のカテゴリーは、便宜的なものに過ぎないのですが、ただでさえ捉えにくい、この場を少しでも捉えやすくしようと、「現臨、ハタラキ」と「意識、照明」というカテを設けてみました。
そのワードの意味するところはテキトーであるのは言うまでもありません。
それでもそれらは、もうジッツにこの場では、エッセンシャル、基幹的なものだと勝手に思っています。
私自身が、こうして書いているうちに気付かされ、そして又こうして表されてきたものなのです。
もっとも、ずっと昔からそう言い表しているものを身に覚えていたのですが、表現してこなかった、出来なかった大きな理由は、言葉に表すことが困難だった、ということに尽きます。
ずっと読まれている方ならお分かりかと思いますが、例えば"現臨"、"ハタラキ"というものは、それだけを切り取って言い表し、理解されてしまうものでは全くあり得ません。その"意識"、"照明"というものと切り離されてあるものでは無いのです。
("照明"というのは、通常"観照"と言い慣わされているものですが、無為的に臨むものであり、自分で自分自身を観照するという人為的な在り方と区別してそう言っているのです)
そしてそれは神的なものであり、見えざる導きであり、自己そのものでもあるのです。
このようにつながり合っているものを、異なる表現で表しているのは、感じ方にある違いがあるだけです。
しかしそのいずれかのものとして限定してしまったら、生きた、リアルなその名状し難いものは伝わらなくなってしまうでしょう。
要するに、それはスピリチュアルそのものなのです。だから捉えにくく、訳がワカランものなのです。

改めてこの名状し難いものに"意識的になってみる"...
この世には数多の教えなり、メソッドなりがあります。
しかし、そのすべてはそっから先では持ち越すことが出来ません。
そのものに意識的になるとは、教えたり、教わったり、何かをやったりする一切が消えて、そのものになってしまうことなのだから...
"信じなければならないこと"や"こうしなければならないこと"があるのだと言う...
信じなくっても、それを目の当たりにしている...こうしなくてもそうなっている...
諸々の教えやメソッドが一つあっても、いくつあってもいいけど、すべてはそのものを指し示す方便...
そのものと共にあることとは、自己と別にある、何かのツールを携えるとかいうものがありません。
その自己と別にあるものに、自分を依存させてしまうということもありません。
"この教えが、メソッドが唯一無二のもの"
この自ら呪縛させている思いを手放さない限り、そのものが開かれることはありません。
そしてその呪縛を解くにも、そのものの道が開かれるにも方便など特に必要ありません。
自分にとって、ホンモノである、そのものに出会いたいという、その気さえあれば...
食堂に行って、いくらその食べ物について、食べ方について教わっても、食べようという気が無ければ、いつになってもその食べ物にありつくことが出来ません。ジッツに至極当たり前のことです。
食べようとする気が無ければ、どんなに目の前にご馳走が並べられてようと、模造サンプルと同じではないかi
その気になるということは、自ずと意識が向けられるということです。
それは、自分が愛して、惹かれてやまないものに出会ったら、全く説明など要らないことです。それはあまりにも自分に近すぎていて、多くの人には気が付かないものかもしれません...

意識的になることは、そのものへの誘い、導入口でもあり、そのものと共にあることでもあるのでしょう。
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