祈りは、神に意識を向けることといつも言っています。
(私にとり)神は、最愛のものとも...
ということは、もう単純に祈りは神を愛することと言ってもいいのです。
ユダヤ、キリスト教、イスラムなどの聖書の宗教、浄土系仏教、インドのバクティでも、このことと関連して伝えられているのです。
神という惹かれてやまないものがあるから、こちらがそうしようとしなくても、おのずと意識が向けられざるを得なくなる...
これは神との相愛関係と言えるでしょう。自分の思いを超えて、何か一つにさせよう、なろうとするものがある。そうなるともう、それにゆだねるしかありません。
こういう水いらずのような在り方で、そうなるためのやり方、方法、テクニックなどを持ち出すのは、興ざめでしかありません。
又、分別知で神とは何か、どういう存在か、一神か、多神か、汎神かとか考えたりする...何か分かってから祈るというのでしょうか?...それは頭だけで祈っているだけ、祈っているつもりなだけでしょう。最初から愛には意識が向けられていません。
何か分からないものに意識を向けるのは不安なのでしょうか?
それは、おのずとそこに平安がもたらされる、ということが分からないということなのです。理屈を超えて導かれるものがある。
とにかく、何らの努力無しに(努力のようなものがあったとしても、そう感じない)、自力修行などで中々そうならない、思いを超えた世界に導かれるのです。
だから私は、悟るとか、究極の境地とやらに到達するかどうかはさておき、神と一つになることは神を求め、愛することそのものではないか、と感じずにおれないのです。
しかし、神を愛することに対して、“神を愛さなければならない!“、なんて義務とか義理みたいなことを言うのは、実におかしいことですよね。
まあ、旧約聖書の神とかは、そういう掟みたいなこと、そうしないと懲らしめられるみたいな、恐ろしいことを告げるようなのですが...それに限らず宗教には多かれ少なかれ、そういう“恐ろしい神“を想起させてしまうところがあります。
それが、そういう思いが我々の意識に刷り込まれていることが、中々その神との相愛関係に導かれるのを妨げる要因になっているのではないでしょうか?
その気の無い人は別として、そのように神の掟のように、自分以外の者から外側から律しようとする思いでなく、自分の中から自発的に感じられる、思いを超えて惹かれるものに意識を向けることが必要でしょう。...なんてこういう言い方も他人行儀なんですが!
ああ、こう書いているだけで、意識が向けられるだけで、そくそくと神の臨在が!...
そうさせてやまないものがある!...これはもう愛としか言いようがありません。
分かる人には何の説明も要らない。分からない人には何を言っても...せいぜい、人が言っている、信じている神でなく、あなたの神に尋ねよ!、というようなことしか言えません。
愛というものはそういうものなのでしょう?
しかし、愛を感じない人など居ないはずでしょう?
いや、誰でも神から愛されなければ、存在すら出来ないのではありませんか?
だから、神を求め、愛さずにおれないのです!...
(私にとり)神は、最愛のものとも...
ということは、もう単純に祈りは神を愛することと言ってもいいのです。
ユダヤ、キリスト教、イスラムなどの聖書の宗教、浄土系仏教、インドのバクティでも、このことと関連して伝えられているのです。
神という惹かれてやまないものがあるから、こちらがそうしようとしなくても、おのずと意識が向けられざるを得なくなる...
これは神との相愛関係と言えるでしょう。自分の思いを超えて、何か一つにさせよう、なろうとするものがある。そうなるともう、それにゆだねるしかありません。
こういう水いらずのような在り方で、そうなるためのやり方、方法、テクニックなどを持ち出すのは、興ざめでしかありません。
又、分別知で神とは何か、どういう存在か、一神か、多神か、汎神かとか考えたりする...何か分かってから祈るというのでしょうか?...それは頭だけで祈っているだけ、祈っているつもりなだけでしょう。最初から愛には意識が向けられていません。
何か分からないものに意識を向けるのは不安なのでしょうか?
それは、おのずとそこに平安がもたらされる、ということが分からないということなのです。理屈を超えて導かれるものがある。
とにかく、何らの努力無しに(努力のようなものがあったとしても、そう感じない)、自力修行などで中々そうならない、思いを超えた世界に導かれるのです。
だから私は、悟るとか、究極の境地とやらに到達するかどうかはさておき、神と一つになることは神を求め、愛することそのものではないか、と感じずにおれないのです。
しかし、神を愛することに対して、“神を愛さなければならない!“、なんて義務とか義理みたいなことを言うのは、実におかしいことですよね。
まあ、旧約聖書の神とかは、そういう掟みたいなこと、そうしないと懲らしめられるみたいな、恐ろしいことを告げるようなのですが...それに限らず宗教には多かれ少なかれ、そういう“恐ろしい神“を想起させてしまうところがあります。
それが、そういう思いが我々の意識に刷り込まれていることが、中々その神との相愛関係に導かれるのを妨げる要因になっているのではないでしょうか?
その気の無い人は別として、そのように神の掟のように、自分以外の者から外側から律しようとする思いでなく、自分の中から自発的に感じられる、思いを超えて惹かれるものに意識を向けることが必要でしょう。...なんてこういう言い方も他人行儀なんですが!
ああ、こう書いているだけで、意識が向けられるだけで、そくそくと神の臨在が!...
そうさせてやまないものがある!...これはもう愛としか言いようがありません。
分かる人には何の説明も要らない。分からない人には何を言っても...せいぜい、人が言っている、信じている神でなく、あなたの神に尋ねよ!、というようなことしか言えません。
愛というものはそういうものなのでしょう?
しかし、愛を感じない人など居ないはずでしょう?
いや、誰でも神から愛されなければ、存在すら出来ないのではありませんか?
だから、神を求め、愛さずにおれないのです!...