人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

「あなた自身を知りなさい」

2024-12-06 10:19:29 | 人生の裏側の図書室
「あなたの性質は神の性質で、あなたの本質は神の本質なのだ。あなたが神になるのでも、神があなたになるのでもまったくない。外的にも内的にも、“彼の顔以外のすべては消滅する“。これが意味するのは、神以外は存在しないということである」
(イブン.アラビー/バルヤニ「あなた自身を知りなさい」.ナチュラルスピリット刊)

霊性の道の伝統において、イスラーム神秘主義(スーフィー)の存在は無視出来ないでしょう。しかし、その文献は、わが国ではほとんど紹介されて来なかったのが実状なのです。
ここに最近、おそらくわずかに邦訳もある、神秘主義的な詩人ルーミーに次ぐくらいに知られているであろう、12、3世紀のイラン(ペルシア)の神秘家イブン.アラビーの邦訳が出されたのです。
しかし、それもどうもその神秘家の著述でなく、彼に影響を受けた、同時代の神秘家バルヤニが本当の著者らしいと言うのだからちょっと心もとないですし、それが又わずか100ページにも満たない小著なんだから心もとない...。
だから、この本にはまとまったイスラーム神秘主義、イブン.アラビーのその神秘思想について知ることは期待出来ません。
そうなんです。それでいいのです。神秘思想にそういうものを求めるのは、学者か好事家でしょう。
わずか数行の言葉に“捉えられ“、魂が揺さぶられるような経験こそが、真に“神秘思想に触れた“、ということなのですよ。
この本の主題は、「ハディース」と呼ばれる、イスラームではコーランに次ぐ聖典とされる書き物にある、預言者マホメットの言葉「自己を知る者は主を知る者である」についての解明にあります。
このブログを読まれている物好き?な方々、こういう表現を何回目にしたことであろう。
「神的なものと自己は切り離されない」「超越的なものは実存する」「私のすべての主なるもの」...
これは、私の独創的な思想を裏付けるものでなくて何であろうか?...いいや、そうでは無い!
そんなこと本気で思っているヤツは、主の前に立てる訳が、主の臨在などある訳が無いのです!...従って、そんな思っているだけの私は消え去るのみ!...
古今東西のいかなる宗教、霊性の道、神秘思想でこうしたことを指し示し、触れないものなど無いのではありませんか?
解説にもあるように、イブン.アラビー(バルヤニ)の神秘思想を特色づけるものは、この普遍性を開示するところにあるのでしょう。
それを“存在一性論“とかコ難しく哲学的に解釈もされるのでしょうが、要するに“神、真我しか存在しない“、ということでしょう。
この本では、そのことをコンパクトに、マスターが弟子に語るように、直接的に書かれているのです。。
一つ重要なことで指摘したいことは、スーフィーの伝統では、苦行などを通じて、自己を消滅させようとする試みに対し、この神秘家は否定していることです。
つまり、個人として、肉体存在としてで無しに、ただ“私は在る“という意識は、消滅させる必要もなく、出来ないということなのです。それを彼は“神の顔“と呼んでいるようです。
根底から在るものは消滅出来ない...即ち“神、真我しか存在しない“
この本は、吹けば飛ぶような私の根底にあるものを裏付けるものであるのは、確なことに違いありません。
揺さぶられずにおれないのだから!...



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自分の本心にはウソはつけない

2024-12-04 09:48:49 | 求道、探究
私のことをよく知っている人は、前回のように、“あることに共鳴したかと思ったら、節を変えて別のものに共鳴したりして、心を分裂させて何してんのか分からないではないか!“、などと言っていることに対して、“コイツ、どの口からそう言えるのか“、と思うかもしれません。
そうです、求道の初期の頃は、ある先生に共鳴したかと思ったら、次から次へと別の先生に共鳴したりすることを繰り返して来たのです。
例えば、白光会で、信者が五井先生の教義の言葉に囚われている有り様を見て、“あんなコチコチになんかなりたかないな!“、と感じているところに、手島郁郎先生のことを知り、その書き物で「教義なんかで人が救われるものか!、神、キリストの生命に触れて救われるのだ!」と言っているのを読んで、“あっ、これは本当だなあ!“、と思えるのです。ホントにそう思える、感じるんだから仕方ありません。
その後も小池辰雄先生を知り、又書き物を通して「キリストの霊性にあって、私は何ものでもありません。主義も信仰も捨てました!」と叫ぶように記されているのに触れ、“あっ、これこそはホンモノだなあ“、と魂が震えるような感動を覚えるのでした。ホントですよ!
何でホントと言えるのか?...今でもそう感じているからです。来ては去ってゆくような、その時々の感情の表れでは無いのです。
五井先生にしても、私はその、「神は愛なのです。神を本当に信愛しているものを神がほっておく訳が無いのです」という言葉に深く共感、共鳴したのです。
ずっと、このブログを読まれている方ならお分かりのように、こういうことは、ある先生から別の先生へと次々に節を変えて、乗り換えてゆく、浮気性のようなことを言っているのでは無いのです。あれもホント、これもホント、ホントなんだから仕方無い!
自分の本心にはウソはつけない!
アカの他人の出る幕は無い!
そこを例えば、“あの先生が言っていることは素晴らしいけど、私にはこの先生に義理があるから...“、なんていうのは、もう心が分裂しているのですよ。ホントにそう感じたのならそれを受け入れるっきゃない、というのが分裂の無い在り方なのです。
これは私の場合、それ以前に一度もそこで共感、共鳴することの無かった、教条主義的な宗教団体でその信者生活をしていることに苦しみを感じ、それが崩壊して消えてしまったという経緯かあるから言えることなので、誰にも当てはまるものでないのは言うまでもありません。
ただ、どの場合でも自分の心の底から感じたものは受け入れるっきゃないない、本心に誤魔化は通用しないですよ!...ギリだとか、メンツだとかホント、おつかれさんだわ!
一度そういうことがあると、何か私の内奥に共鳴盤のようなものが形成されるらしく、それにビシッと張り付いたようなものは、消えてゆかないのでしょう。
又、前回の話じゃないけど、昔私も五井先生には、霊界情報だとか、予言のこととかのことがあまり説かれていないのを物足りないと思ったこともあるのです。
でも、そこで知り得た知的好奇心を満足させるだけの知識など何にも残って無いですよ。これは、その共鳴盤からは浮いているものなので、どっかへ行ってしまったということなのです。
それと、決定的だったことは、何度も書いているように、その興味本位の求道によって、カルト団体に接近してしまい精神的に実に恐ろしい目に遭わされたことが免疫のようになったのです。
それが又、あの天来の一撃によって、神の臨在というものを覚えることになったのでしたが、本格的に、“これはホントだ!“、というものに出会うようになったのはそれからのことなのでした。
それは、どの“見える“導師からと言うより、見えざる導師の導きなのでしょう。
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何やってんだ!

2024-12-03 10:14:51 | 求道、探究
私がいつもキツイ言葉を浴びせている、反面教師のTという画伯とは、同じ頃(40数年前)共に五井先生と縁が出来、10年くらい前には、彼が主宰していた五井先生関係の小さな集まりにも参加していたことなど、ちょっとした因縁があるのです。
そうでない人には、そんな“因縁つける“ことなど無闇に言う訳ないですよ。
そのブログなどをチョイチョイ読むにつけ、これがもう本当に、“ああ、こうなっちまったら人生オシマイだなあ、こうならないようにしないと!“と襟を引き締める思いにさせられる...な~んて言ってて、人生先はもう長くない!...それもそうだが、これは後進のためにも、という気持ちから書かされているようなのです。
彼は当然のことながら、私と同様、何かしら五井先生に共鳴するものを感じて、信奉するようになったのでしょう。
しかし、いつからか、五井先生の教えに物足りないものを感じてか(自力門、他力門という言い方をすれば)、他力の道を説いていた、その教えとは相容れない不食の実践とか自力作善、雑行をやり出すようなのです。
この物足りなさというものが、具体的にどういうものかは分からないですが、彼は、その祈りのこと、神にゆだねることに対し、本当に得心するまで求めなかった、ということなんでしょうか?
その素晴らしさを知らないまま、雑行をやり出したというのか?
だとしたら、何とも生半可、中途半端という他ありません。それじゃ何をやってんのか分からないですよ。(五井先生なら絶対に“中途半端ならやめなさい!“、と言いますよ!)
私は自分自身の経験から、自分の思い、力からは霊性の道は開かれない、と思っていますが、だからと言って、その道を通して自力の限界を知ることもあるのだし、自力の道を頭から否定するつもりは無いのです。
それはしかし、最初から自力修行に縁のある者に当てはまることで、要はそれに徹したらいいということなのであり、この他力、自力どっちつかずの状態は、二心に分裂するだけで、何にもならない、という他ありません。“あ~、いやだ、いやだ、思うだけで分裂しそう!、それで全託の道など開かれる訳無いだろう!“
それとも、その物足りなさの意味するものは、五井先生の教えには、例えば霊界の種々相のこととか、人類の普通の歴史では知り得ない、アカシックな超歴史とかのことがあまり語られないということなのでしょうか?
だから、五井先生の影響のありそうな宇宙全○の教えにハマり出すのでしょうか?
そんな表層的な、ホントかどうかも分からない、頭だけの知識など知って何になるのか?!
私は、消えてゆく姿の教えのことを得心して理解したことは無いけど、そんなものは、消えてゆく姿だ、ということくらいは分かります。
五井先生の教えの主眼は、“囚われない“ということにあったのではないか?
にも拘わらずこの御仁、近未来の予言、霊界の段階的種々相、陰謀論などに次々と囚われ続けているのです。一体何が消えてゆく姿なのでしょうか?
近未来、人類は三分の一か二かに減るのだと信じているらしい?
一体、何のための“世界平和の祈り“なんでしょうか?
つまり、一事が万事のように、分裂していて何やってんだか分からないのです。何のための統一行だか分からないではないか!
ここに感じられるものは、表層に次々に落ち着きなく、馳せてゆく、現れては消えてゆく思いばかり...どうも、この御仁、じっと一つのことを深く、得心するまで内省してゆくような心性に欠けているようです。
いやいや、最初には何かに共鳴するものがあったのでは無かったのか?
素晴らしい何かを感じたのでは...それをもっと、深めてゆきたいという気持ちは無かったのか?
それとも、それは?...何が消えてゆく姿で、何が“ここに在る“のだろうか?
人生はもう長くない!...気付くのはもう遅いのだろうか?
いや、遅すぎるということは無いだろう...“ここに在る“のだから!
いつも何だか他人事でないようなものを感じて、要らんこと書かされているようです...

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全託と消えてゆく姿

2024-12-01 09:18:31 | 求道、探究
先日、ネットで全託について調べていたら、五井先生の教えを継承していて、“全託道場“を謳っている集会(現在はもう活動してないと思われます)で、こんな質問がその代表のMさんに寄せられていたのを目にしました。
それは、“全託をしたら、それまで長年打ち込んでいた善行は消えてゆくのでしょうか?“、というような内容でしたが、質問者は善行を後生大事なものと思っているから、こう尋ねているのでしょう。
それに対してMさんは、“その善行が五井先生の平和運動につながるのなら、消えてゆくことは無い“、とか色々言っているんですが、私はそれが全託というのなら、それまで積み上げて来た善行など消えてしまってもいいではないか、と思ったのでした。(エラそうなこと言うようですが、“全託道場“なんて、それほどのものかいな、と思いますよ!)
これは、信仰でも修行でも同じことでしょう。そもそも一体何のための善行、信仰、修行なのでしょうか?
本当に全託したら、それまで後生大事にしていたものは、消えてゆく姿となるはずです。
...といっても全託というのは、自分でやろうとして出来るものでもないし、“全託しよう!“と決心したってそうなるものじゃないですが...
それにその言葉どおり消えるのかといったら、それはそれ、これはこれのようなことでしょう?
ここでの、消えてゆくことの本質的なことは、その後生大事なものとして、自分が固着、執着している思いから自由になるということでしょう。
それよりも、もっと代えのきかないくらい大事なものに目覚める、ということではないでしょうか?
思いの固着が心の根っこから離れる、フライパンを洗剤で洗うと油が浮くようになってしまう、それが消えてゆくということを意味しているのでしょう。
だから、常に思いをその超えたものに開いておくことが大事なことなのです。
従って、これは自分の意志に反して、神が強制的にそれまで大事にしていたものを取り去ってしまうということでは無いのです。
神に操られるままということは無い!、表層の自分は抵抗していても、奥の方の自分(真我と言ってもいいでしょう)は、同意しているという、極めて主体的な在り様と言えるのです。
だから、一度神の手に捉えられて、全託せざるを得ない状況になると、意志想念で止めることは出来ないのです。
“え?、全託すると、それまでの自分でなくなりそうでコワイ?“...うん、アルアル!...変わる時は変わるし、変わらない時は変わらないでしょう?...しかし、根底は何かしらひっくり返るはずです!
一体、何を恐れる必要があるのでしょう?...というようなことは、今の私が言っていることなのでして、前回書いたことに加えて、ああなる直前、そういう恐怖がもたげていたのでした。
でも、それもあの今生で味わえないような愛、平安、リアリティの抗し難い誘惑(?)によって乗り越えられたという訳なのです。
神のみ前に在り、神と一つなるのなら、善行や信仰、修行が、他の何ものも、消えてゆく姿になっても構わないではないか?!
あなたの主はすべてご存じなのです。
他人にではなく、どこまでも、主にゆだねるのみ!...

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神、真我しか無い

2024-11-30 09:35:33 | スピリチュアル
私が初めて人生の裏側へと踏み込んでしまった時のこと、今でもアリアリと覚えています。
特にその直前のことは、思考がまだ働いている状態だったので”普通に”記憶もされているのです。
その思考もかなり後退していて、普通に能動的に頭を働かせることは困難で、風然の灯火という感じだったのです。
”神的なものが臨んだかと思ったら、それが私の内奥に迫って来る、意識に浸透して来るではないか!”
それがどういうことを意味しているかは、何となく直観で分かるのです。
”これが、本でしか読んだことが無い、あの宗教的回心、精神的目覚めに与ることなのか?...しかし、おかしいではないか!、何でこの凡夫の罪深い、ロクにそういう修行もしてない、カルマの清算もしてない、私にそういうことが起こるのだろうか?”、とこういう疑問がもたげて来たのです。
だけど、そういう薄くなった私の思いとは別に、意識の方がそれに向かってしまうのです。これは私の意志想念では止められず、もうどうにもなりません。それを受け入れるしかないのです。
何がそうさせるのか?、それが直観で分かることなのです。
”この扉の向こうには、信じられないような、愛、平安、リアリティがある!”
そうして、強烈な精神的嵐みたいなものに見舞われて、裏側へと踏み入れてしまったという訳です。
そうなると、もうすっかり思考機能はマヒしてしまい、もはや意識的に感じるだけです。暑いとか冷たいか、そう、思考が働かないということは感じられるのです。
そして、ついさっきまで思っていた、私の罪のことや、カルマのこと、それに与るのに私は値しない、といったことなどはすべて消えてしまったのです!
ただ、”私はこのものにあって、ここに在る”、と意識されているだけなのです。
その私は、正しいも悪いも、優れているも劣っているも無い、ダメもクソも無いのですよ!
そういうものは、すべて考える私が考えていたこと、世の中が私をどう見ているか、人の目に映っているだろう、という私のことだったのです。
こういう思いからすべて解放されてしまったのです!
どうか、このことを自分自身に置き換えて、よ~く考え、感じてみて下さい。
これは、私には悟りだ、なんだと言うよりは、救いでなくてなんであろう!
常人よりうんと進んだ悟りの境地、完全覚醒に至ろう、なんて言うのはエゴ.マインドに囚われているのであり、むしろ、常人より迷った境地に居るのであって、ちっとも救われてなどいないのですよ! 
だから、私は悟ったのです!...いや、そおじゃあない!
悟りもヘチマもない!...ありのままの自分に在らしめられただけです。
そこに何の色も付け足しもない自分。これをある意味で”真我”と言ってもバチは当たらないだろう!
といって、それは言うまでもなく、凡夫の私が真我になった、そういう境地に到達したということじゃないですよ!
これは、神のみ前にある、その光に照らされたままの自分が、本当も偽りも無い真我だということなのです。
そこには、五井先生も言ったように、神と真我しか無い!、あとは消えてゆく姿と言ってもいいのです。
だからといって、そういう状態がずっと続いていた訳じゃない、そうは問屋は下ろさないようで...数日して、そういう状態は元の黙阿弥になってしまいました。
しかし...だからだからといって、それは表層部分のことであり、消えてしまった訳ではなく、地下水のように、私の奥の方で息づいているのです。
現にこうして、アリアリと言い表すことが出来る。記憶を辿って。いいやそれだけじゃない!
これがずっと息づいていることを物語っているんだ!
上記したことを、新鮮な水がコンコンと溢れ出て来るように、ヒシヒシと感じて書いているのですから!
霊性の道にあって、理性のギリギリの状態で言えることはこれしか無いでしょう。
”神と真我しか無い!”



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