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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

祈りと愛

2025-08-26 04:21:08 | 祈りと瞑想
祈りは、神に意識を向けることといつも言っています。
(私にとり)神は、最愛のものとも...
ということは、もう単純に祈りは神を愛することと言ってもいいのです。
ユダヤ、キリスト教、イスラムなどの聖書の宗教、浄土系仏教、インドのバクティでも、このことと関連して伝えられているのです。
神という惹かれてやまないものがあるから、こちらがそうしようとしなくても、おのずと意識が向けられざるを得なくなる...
これは神との相愛関係と言えるでしょう。自分の思いを超えて、何か一つにさせよう、なろうとするものがある。そうなるともう、それにゆだねるしかありません。
こういう水いらずのような在り方で、そうなるためのやり方、方法、テクニックなどを持ち出すのは、興ざめでしかありません。
又、分別知で神とは何か、どういう存在か、一神か、多神か、汎神かとか考えたりする...何か分かってから祈るというのでしょうか?...それは頭だけで祈っているだけ、祈っているつもりなだけでしょう。最初から愛には意識が向けられていません。
何か分からないものに意識を向けるのは不安なのでしょうか?
それは、おのずとそこに平安がもたらされる、ということが分からないということなのです。理屈を超えて導かれるものがある。
とにかく、何らの努力無しに(努力のようなものがあったとしても、そう感じない)、自力修行などで中々そうならない、思いを超えた世界に導かれるのです。
だから私は、悟るとか、究極の境地とやらに到達するかどうかはさておき、神と一つになることは神を求め、愛することそのものではないか、と感じずにおれないのです。
しかし、神を愛することに対して、“神を愛さなければならない!“、なんて義務とか義理みたいなことを言うのは、実におかしいことですよね。
まあ、旧約聖書の神とかは、そういう掟みたいなこと、そうしないと懲らしめられるみたいな、恐ろしいことを告げるようなのですが...それに限らず宗教には多かれ少なかれ、そういう“恐ろしい神“を想起させてしまうところがあります。
それが、そういう思いが我々の意識に刷り込まれていることが、中々その神との相愛関係に導かれるのを妨げる要因になっているのではないでしょうか?
その気の無い人は別として、そのように神の掟のように、自分以外の者から外側から律しようとする思いでなく、自分の中から自発的に感じられる、思いを超えて惹かれるものに意識を向けることが必要でしょう。...なんてこういう言い方も他人行儀なんですが!
ああ、こう書いているだけで、意識が向けられるだけで、そくそくと神の臨在が!...
そうさせてやまないものがある!...これはもう愛としか言いようがありません。
分かる人には何の説明も要らない。分からない人には何を言っても...せいぜい、人が言っている、信じている神でなく、あなたの神に尋ねよ!、というようなことしか言えません。
愛というものはそういうものなのでしょう?
しかし、愛を感じない人など居ないはずでしょう?
いや、誰でも神から愛されなければ、存在すら出来ないのではありませんか?
だから、神を求め、愛さずにおれないのです!...



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主の臨在と永遠の時

2025-08-24 04:17:07 | 現臨、ハタラキ
「生きた深い信仰の光のもとに、自分のうちにある至聖所に主が来られるのを見る目をもった人は幸いです。この主の来臨とはどういうことでしょうか。前には一度も来られたことなく、いつも全く初めてのように来られるのです。というのも主の来臨は、時間に関係なく永遠の今のうちになされるからです」(三位一体のエリザベット~伊従信子著「神はわたしのうちにわたしは神のうちに」/聖母文庫)

23歳という短命で人生を全うしたフランスの女性神秘家、三位一体のエリザベットの本を初めて読んでみたのですが、そこに実に神、主の現臨とはどういうものかを端的に言い表されておりました。
それはまず、何度もそういう恩恵に与ることはあっても、いつも初めて与ることのように新しいものとして感じられるということなのです。
そこには形式化とか慣習に流れるということは一切ありません。
私はここで、何回この現臨について同じようなことを書いてきたか分かりません。しかし、それはいつも初めての体験のように感じられるのです。(読んでいる方は飽きてしまうかもしれませんが、私には全くありません。主のみ前にあって、なんでそんなことがあり得ようか!)
ということは、この恩寵の体験というものは、如何なる人為的な、自力行的なそれを得るための方法論、メソッドというものには依らないということが言えるのです。
ただ、それを待ち望む祈りというものはあるのです。
自分の思いを超えたものの来臨を待ち望む。この臨在のあるところ、思いが超えられているのは言うまでもありません。それは時間を超越していることを物語っているのであり、それは又空間をも超えていることも意味しているのです。
それは実にこの本のタイトル「神はわたしのうちにわたしは神のうちに」という言葉に表されています。
私はどこに居ようとそこは、私の周りにも私の内にも主が臨在している、そういう霊的な磁場のようになる...
ああ、もう考えようとすると気が遠くなりそうです!(思いが超えられているのだから、考えられないのだった!)

私は何度も主の臨在の恩恵に与った...あの時もこの時も!
あの時、この時?...あそこで!...どこで?
今に、ここに!...
今、ここに一つの主の臨在しかないのではないか?!
私はどこから来て、どこへ行くのか知らない...
私が究極の境地とやらに行けるのかどうかも知らない!
そんなことは知る必要もない!
主のあるところにしか私は在ることは出来ない!
他のことは来ては去ってゆく...
もう、気が遠くなりそうだ!
(これは、暑いせいではないだろう!...)
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普遍的な五井先生の教え

2025-08-23 04:05:57 | 人生の教師
五井先生は、私には一宗派の教祖さんという存在では無くなっています。
これは、一度も白光真宏会の会員になったことが無く、自由な立場で五井先生に接して来た私だからそう言えるのかもしれません。
この関連で言うと、実は五井先生は私にはもう過去の人のように感じて、ちょっと距離を置いていた時期もあったのです。
五井先生は、所詮一宗派の教祖でしかなかったのではないか?、「消えてゆく姿で世界平和の祈り」というその主たる教えも一宗一派にしか通用しないものでしかなかったのではないか?、と。...
“世界平和の祈りをし続けていても、一向に世界は平和にならない“...とその教えに疑問を感じている(元)信者も居るようなのですが、私は最初から現実にそうなるという風には信じていなかったくらいで、そんな一宗派の祈りでは無理だと思っていたのです。
消えてゆく姿の教えにしても、それだけが切り離されて、何かの修行法、観法のように扱われるならば、他力行であったはずのものが自力行のように感じられ、何とも中途半端な、手につかない、難行のようにしか思えてきません。
そして、例えば、祈りや行についてそのように思うこと自体を捉えて、“ああ、それは消えてゆく姿なのですよ!“と、そういう言葉だけが安易に独り歩きしたように説かれたりして、これ又観念に浮いたようにしか感じられ無くなるのです。(現実にそういうことで苦しんでいる、やはり(元)信者も居るのです)
だから、そういうことが取り沙汰される教団には関わりたくないなあ、と思う訳です。
しかし、ある時から私の精神的な道の歩みを振り返ってみるならば、そういう教団絡みからで無く、自由に五井先生の教えに接して来た部分が大きいということに気が付いたのです。
何度も言うように私は、特定の祈りでない祈りに導かれたのです。大体、それは“私の神様、どうぞ御心のままに導き下さい!“という、別にそう定められたものでないですが、そんなニュアンスを持った祈りです。
五井先生がそういう祈りを否定する訳がありません。「世界人類が...が間に合わなければ(面倒くさいならば?)“五井先生“を呼んだらいい!」と、述べているように、祈りの在り方は自由に説いていたところもあったのです。
“とにかく、祈ったらいい!、祈って神の中に思いを入れたらいい!、神に自分を投げ出したらいい!“、ということが根本に置かれていたはずなのです。
本来はもっと広い、普遍的なものに向けられていたが、教団が大きくなり、一宗派の、特定の祈りのようになってしまった感のある「世界平和の祈り」というものは、方便のようにならざるを得なくなるでしょう。
そして本来、消えてゆく姿の教えというのは、その思いを神の中に入れてしまうということに結びつくものなのではないか?
つまり祈ることで思いから離れられるということであり、祈りと切り離されるものではないはずなのです。
そしてこの消えてゆく姿と言われているものが指し示しているものは、“神、真我の他は消えてゆくもの“ということにあるのではないでしょうか?
このようなことは、先生の著書で随所に述べられていることなのですよ。よく熟読されたらいいでしょう。
私には、こうしたものこそが、一宗派に囚われない五井先生の普遍的な、方便でない教えに映って来てならないのです。(ドグマのような教団絡みの教えに固執していても、教えが自分自身の中に生きて来なければ、内奥に照らさなければ何にもなりませんよ!)
“消えてゆく姿で世界平和の祈り“の教えは、過去のものになってしまった、そう、“消えてゆく姿“になってしまったのかもしれません。
しかし、その裏にある、隠れた五井先生の普遍的な教えは、ますますその響きが顕わになって来るのを私は感じてならないのです。
このますます混迷を深め、世界人類の行く末が案じられて来る、この今の現実の姿を通しても...
世界平和をもたらすのは人間では無い!...我々人間がいくら思い、為そうとしても一向に世界に平和をはもたらされないではないか!
人間が本当にその限界を思い知らされた時、人間の思いを超えて、その超えたもの、神の方が顕われて、無礙、無量光を照らすであろう...それ無くして我々の未来は無いであろう!
だから、一人でも多く、個人のことも、世界人類のことも、案じているのならば、祈ればいい!
...と、何ものかが私の思いを超えて、こう告げてやまないようなのです!...

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本当の出会い

2025-08-21 04:07:08 | 詩的文章
人生にはいろんな出会いがある
いい出会い
幸福がもたらされた出会い
わるい出会い
不快にさせられた出会い
同じ人との出会いで両方味わうこともある
一度でもすばらしい、幸福を感じたことがあるのなら...
それだけがずっと残っている
わるいこと
不愉快だったこと...
それは、一体なんだったのだろう?
それは本当にその人から来るのだろうか?
周りの雑音から来たものではないのか?
直に、真向かいに聞いたものなのだろうか?
たとえ、当人から来たものであっても...
その悪しき思い出がよき思い出をかき消すだろうか?
あの幸福は幻だったのだろうか?
あの時幸福に感じていたのは本心からだったのだろうか?
ずっと心の奥に刻印されているものは...
本心を偽ってはならない!
心の奥に根付いていないものは...
消えていってしまった!
本当の出会いというものは...
よき出会いしかない!...
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通る、開かれるという意味

2025-08-19 03:53:05 | 祈りと瞑想
いつも書いている、神的なものが臨み、祈り、瞑想の心地のようになることをよく、“通る“とか“開かれる“という感じで言い表したりしています。
この感じがよりはっきり意識づけられるようになったのは、忘れもしない6年前の晩秋、わが国がコロナ禍に見舞われる少し前のことでしたが、生まれて初めて肺炎のような病に罹り、熱が何日も続くとか、数週間苦しんだ時なのでした。
この間、その神的な現臨を感じることが出来なくなってしまったのです。
神に意識を向けるということも、意識そのものが朧気になってしまうし、自然とそうなるようなことがそうなりません。
身体的には、発熱と共に鼻、喉、胸にかけて咳も痰も出ないように詰まる状態が何日も続くことが苦しかったのですが、実にこれが、“通らない、開かれない“という閉じた状態の内面の苦しみとつながっていたのです。
ずっと部屋で横たわるより何も出来ない、私の状態は肉体という輪郭もはっきりしなくて、何か肉体も精神もごちゃごちゃになった、ある塊があるだけのように感じられました。一つの業の塊のような。
“私“という自意識も朧気で、何が私で何が私でないかもはっきりしません。これは、現臨にあって私が思いが超えられることとは全く感じ方は違うのです。開かれているか、組んずほぐれつになっているかの違いと言っていいでしょう。
その時の私は、とにかく朧気な意識のままで、“祈れないままに“祈るより無かったのです。
あの私を超えた息吹、ハタラキがここを通り、突き抜け、開かれて欲しい!...
ここではっきり感じられることは、その神的なハタラキとは、私の心身に通り抜けるものなのであって、私が掴める、私のものにすることは出来ないということなのです。放されるということ...これが思いが離れることとつながっているのです。
私はそれに依り平安に与ることが出来る訳ですが、それは勿論私だけのものではなく、そうは出来ないということなのです。
只々、神のハタラキが通り、開かれんことを!...それが当時の私の祈りにならぬ祈りだったのです。
それは数週間後、寝て起きてみたら、いつの間にか、あの“じんじん“とした感覚と共に蘇ったのでした。
それ以降、それまで当たり前のように受けていた、その神の現臨にあることは、“通り、開かれること“としてより意識づけられるようになった次第なのです。
そこにおのずと祈りが伴うようになるのですが、それはそれまでに増して、“いや増しに働かれますよう、通り、開かれますように“、という響きを持ったものになりました。
それは又、言うまでもなく、私を超えた分けることの出来ない、“自他“に向けられるのです。
この他なるものとは、どこまでつながるものかは分かりません。私が知っている隣人のことかもしれないし、私の直接知らない世界人類のことかもしれません。
とにかく、あの組んずほぐれつ業の塊のような、閉じた自他の分からないものが、神にあって自他を貫いて、開かれたものへとどこまでも広がってゆくことに向けられているのです。
“神にあって“ということは、どうしてもそうならざるを得なくなるということでしょう!...
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