「主の栄光は、神の本質ではない、神の現臨である。神の属性ではない、行為である。実体ではない、過程である」(A.J.ヘッシェル「人間を探し求める神」/教文館刊)
私が霊性の道において、常に問題にしていること、意識させられていることは、例えば、そこで悟りに与る、神と一つになるには、我々の欲望、思考マインドから離れなければ、捨てなければならない、高い次元へと超えなければならない、という命題が示されたとして、この一個なる限界を持った自分が手放しでそんなことに着手することなど出来ない、ということであり、又、“人間は本来神と一つなのです。あなたという個人は本来存在しないのです“、と大上段から説かれても、手放しでそんな境地になどなれるものでない、ということなのです。
かくしてその界隈には、“やって出来たつもり“、想像しただけの神、霊界、悟りの道などが溢れかえっているのが現状なのではないか?...
我々は、この限界を超えなければ、霊性は開かれないとして、それは、その超えたもの、御自らが我々にハタラキかけて下さなければ叶わないことなのではないか?...
だから、私は神の現臨ということを強調せざるを得ないという次第なのです。
私は、いつもそれをキリスト教方面で言い慣わされているものから借りた、と言っているのですが、もっと直接的に借りているものを突如思い出しました。
それは前世紀の米国のユダヤ系宗教哲学者、A.J.ヘッシェルの言葉からなのでした。
ヘッシェルは、西欧哲学は、ギリシア的、静的、主知的傾向が強く、ヘブライ的動的、預言者的精神に欠けるので、霊性そのものを閉ざしてしまうことに警鐘を鳴らしているのです。
これは、ただでさえ思弁的な哲学の世界についてのみならず、宗教、スピの道全般についても言えることではありませんか?
これは、ベルジャーエフが随所で語っていた存在論、実体論を優位にした思想に対して、創造的アクト(これは行為というよりももっと根源的なハタラキ的なものであろう)、形なきハタラキ的なものを強調したことと相通じるものがあるでしょう。
ベルジャーエフ(彼には同じくロシアから革命により亡命した、親交のあったユダヤ系哲学者シェストフよりもはるかにヘブライ的なものを感じる)もヘッシェルも、預言者的な精神に貫かれた哲人であったのです。
では、その預言者的、ヘブライ精神とはどういうものなのでしょうか?
ヘッシェルの本を読んで感じたことは、実はユダヤ、ヘブライ的なものが特殊で、霊性に近い精神ということではないのです。
ギリシアでも、東洋的なものでもそれだけで、霊性から遠いと言ったらあまりにも紋切り型に過ぎるでしょう。(私は、遠い先祖は、ユダヤかもしらんが日本人なんだぞ!)
預言者的ヘブライ精神とは、旧約の民とは端的に言えば、よく祈る民だったということなのです。
「主とその力を求めよ、主のみ顔を絶えず求めよ」(詩篇105)
預言者とは、神のみ前にへり下る人たちであった。彼らは、人間の限界を弁え、思い、力を超えたものを切に求めてやまなったのです。
原始キリスト教がこの精神を引き継いだのは論を待たないでしょう。
否、いつの時代でも、どんな宗教的世界でも啓示と祈りは、切り離されるものではないはずなのです。
霊性の道が開かれるか、閉ざされるか...この二つの道がハッキリ分かたれている様相を映し出す今日こそ、神を待ち望み、臨みたもう、祈りの精神が生きて来るのではないでしょうか?...
私が霊性の道において、常に問題にしていること、意識させられていることは、例えば、そこで悟りに与る、神と一つになるには、我々の欲望、思考マインドから離れなければ、捨てなければならない、高い次元へと超えなければならない、という命題が示されたとして、この一個なる限界を持った自分が手放しでそんなことに着手することなど出来ない、ということであり、又、“人間は本来神と一つなのです。あなたという個人は本来存在しないのです“、と大上段から説かれても、手放しでそんな境地になどなれるものでない、ということなのです。
かくしてその界隈には、“やって出来たつもり“、想像しただけの神、霊界、悟りの道などが溢れかえっているのが現状なのではないか?...
我々は、この限界を超えなければ、霊性は開かれないとして、それは、その超えたもの、御自らが我々にハタラキかけて下さなければ叶わないことなのではないか?...
だから、私は神の現臨ということを強調せざるを得ないという次第なのです。
私は、いつもそれをキリスト教方面で言い慣わされているものから借りた、と言っているのですが、もっと直接的に借りているものを突如思い出しました。
それは前世紀の米国のユダヤ系宗教哲学者、A.J.ヘッシェルの言葉からなのでした。
ヘッシェルは、西欧哲学は、ギリシア的、静的、主知的傾向が強く、ヘブライ的動的、預言者的精神に欠けるので、霊性そのものを閉ざしてしまうことに警鐘を鳴らしているのです。
これは、ただでさえ思弁的な哲学の世界についてのみならず、宗教、スピの道全般についても言えることではありませんか?
これは、ベルジャーエフが随所で語っていた存在論、実体論を優位にした思想に対して、創造的アクト(これは行為というよりももっと根源的なハタラキ的なものであろう)、形なきハタラキ的なものを強調したことと相通じるものがあるでしょう。
ベルジャーエフ(彼には同じくロシアから革命により亡命した、親交のあったユダヤ系哲学者シェストフよりもはるかにヘブライ的なものを感じる)もヘッシェルも、預言者的な精神に貫かれた哲人であったのです。
では、その預言者的、ヘブライ精神とはどういうものなのでしょうか?
ヘッシェルの本を読んで感じたことは、実はユダヤ、ヘブライ的なものが特殊で、霊性に近い精神ということではないのです。
ギリシアでも、東洋的なものでもそれだけで、霊性から遠いと言ったらあまりにも紋切り型に過ぎるでしょう。(私は、遠い先祖は、ユダヤかもしらんが日本人なんだぞ!)
預言者的ヘブライ精神とは、旧約の民とは端的に言えば、よく祈る民だったということなのです。
「主とその力を求めよ、主のみ顔を絶えず求めよ」(詩篇105)
預言者とは、神のみ前にへり下る人たちであった。彼らは、人間の限界を弁え、思い、力を超えたものを切に求めてやまなったのです。
原始キリスト教がこの精神を引き継いだのは論を待たないでしょう。
否、いつの時代でも、どんな宗教的世界でも啓示と祈りは、切り離されるものではないはずなのです。
霊性の道が開かれるか、閉ざされるか...この二つの道がハッキリ分かたれている様相を映し出す今日こそ、神を待ち望み、臨みたもう、祈りの精神が生きて来るのではないでしょうか?...