人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

肉体を意識すること

2025-04-07 05:47:43 | 雑感
先日、乗ろうとしていたバスの時間を気にしながら、ファミレスで昼食を食べていたのですが、間に合いそうにないので、何と五分でかき込むように食べてしまったのでした。(残せばいいのに、残さない、モッタイない!)
その後、“なんてバカなことをしたんだろう、胃腸に負担をかけるようなことをして!...胃腸さん、身体さんごめんなさい!“、と、いつもは気にしない、自分の身体をいたわる気持ちにさせられたのでした。
トシのセイもありますが、身体は言うことを聞いてくれない!...というより、そのように無理、不自然なことに走らせるものは、その思念なんだということを改めて知らされました。

宗教やスピ界隈には、肉体を否定するような、偏った思念に囚われている傾向が時折見受けられます。中には肉体を無くさないと高次元に進化出来ない、悟ることが出来ないと妙ちきりんな観念に取りつかれたような者もおります。
これは、その逆の唯物論者の人間存在は肉体だけしかない、という思念よりも偏り、歪んだものに感じられます。というのは、人間は見えるものしか認識しようとしないのは、いくらか自然な有り様ですが、そこにはあらゆる現実に無いような空想ごとに思いが馳せ飛び、幻想が生み出されるからです。
彼らは肉体自体が諸々の不調和の問題の種のように思い込むようなのですが、問題の種となるのは、そういう不調和、不自然に暴走する思念であることを知らねばなりません。
肉体は、そのように極端に肯定されたり、否定されたりするものでなく、それとは関係無く、ただ中立に在るものなのです。
そして現実には、それ無しには、そのように思い、為す人間は存在出来ないということです。
だから、もっとありのままの肉体に意識を向けなければならないのです。肉体だけしか無いとか肉体は無い、無くさなければならない、とかの先入観、固定観念を置いといて!
すると...ありのままの肉体というのは、それだけで存在しているように感じられるでしょうか?
これは、この自己は、自己だけで存在しないように感じられることと同じことでしょう。肉体を超えたあるもの共々がその肉体感覚のように感じているものだ、ということなのです。
といって、それは直ちに肉体を超えた霊体とか幽体のようなものを想定するということでは無いですよ。肉体がある、それとは別に霊体、幽体がある、というのは、そのように分けられて、多く空想的に思念されていることに他なりません。
肉体感覚と感じられているものは、肉体だけからは来ない!...それは心的、意識的なものと一つの、心身合一的なものとして感じられるのではないか?
前回、道院の坐法により、内的感覚が芽生えたことを書きましたが、この感覚というのは正にそこから来ると言ってもいいものなのです。
調和というものは、このように別々のように、それだけで切り取られたように思われたものが、合わさるものとして理解されるものでなくて何であろう!
人間は、人間だけで存在しているのでは無い!...それを超えたものと一つのものとして在らしめられているのではないか?
それは、我々にもっとも身近な肉体をもっと意識することにより、その目覚めの端緒が生まれるのではないでしょうか?


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内的、現臨、実存感覚の目覚め

2025-04-06 06:41:01 | 回想
何度か書いているように、昭和54年の春、私に初めて神的なものの現臨感覚が芽生えたのでした。
その端緒のことは、割とハッキリ覚えていて、当時銀座にあった中国の宗教結社「道院」で伝えている「先天の坐法」という簡単な瞑想法を実修し始めたことがきっかけなのでした。
(余談になりますが、現在では正式な修方(道院の会員のこと)でなければ実修は許されないという規定があるらしいのですが、私は未修の身でありながらも、誰にもとがめられることなく取り組んでいたのです。私と同じ頃入ってきた数人の未修の人たちも同様でしたよ。
確かもっと昔は、百日間毎日欠かすことなく実修しなければ正式な修方になれないという厳しい規定があったはずで、私の時はそういう決まりはありませんでしたが、私はその話を聞いて真面目に取り組んでいた次第で、これでは現在の規定と矛盾するのではないかと思われます)
その前年の暮れ、突如天来の霊の一撃(?)を受けて以来、ボーッと思考が後退し、意識が遠のく感じがするなど精神的に不安定な状態が続いていたのですが、これによりかなりその安定化に功を奏したと言えるのです。
具体的に言えば、その意識が無秩序に馳せてゆく感じでなく、ある中心に集まるようになったことです。(これは何度も言っているように、意志想念で意識を集中しようとするのでなく、自ずとそうなるということです)
これは、私に初めて思考とは違う、意識的な状態というものがあることが自覚された端緒でもあるのです。
先天の坐というのは、ただ無理の無い姿勢で椅子などに座り、両手を自然に膝の上に置くだけという実に簡単なものなのですが、その形だけやればそうなるとは限らないと思いますよ。
想像ですが、これには道院にお参りして、そこに立ち込めている(これは当時、その会堂に入っただけで感じられたものでしたが、後年には感じられなくなったのです)ある種の“気“に触れたことにも依るのではないかと思われます。
道院では(というか古来、中国道教のある方面でも説かれていることですが)、後天の気と先天の“き“とかあると言います。おそらくは、先天のそれは人為的な意志想念などに関わらない、無為的な自然な在り様のものを言っているのでしょう?
とにかく私は、その“気“か“き“のようなものに触れることにより、何か本来から備わっていた内的感覚が目覚まされたようなのでした。
その具体的な感覚は、その実修中膝においていた手の辺りに決まって感じる、ある暖かみにありました。
この感覚は手から伝わる!、というのはあくまで私の場合ですが、ここから段々上半身の方にかけて広がってゆくのです。
これが又、しばらくするとその坐から離れた時にも感じられるようになり、やがてそれは耳下腺の辺りに集まって何か膨張するように感じられ、同時にある高揚感も覚えられるようになったのです。ハッキリ神的なものの臨在を感じ始めたのはその時からだと思います。
ちょうど今の時期、公園で満開の桜の下、小池辰雄先生の著作や、日月神示、その後続とも伝えられる要の神示などの書き物を得にも言われない高揚感のうちに読んだことを今でもアリアリと思い出します。そういうものに触れると顕著に、自分を超え出てしまうようにも意識が高まるのです。
小池先生はよく無的実存とか霊的実存とか言っておりましたが、それは実存感覚に目覚めた端緒と言ってもいいでしょう。
といっても、実存の何たるかなど分かった試しなど無いのですが...自分を超えせしめるものの臨在にあって、“私はここに在る“という感じは、この頃初めて覚えたのは確かなことです。(先の不安定な状態はすっかりナリを潜めたのは言うまでもありません)
で、坐の方はというと、その時には“百日行“も終えて遠ざかっていたのでした。ずっと続けていたらどのように導かれていたか分かりません。というか、私はその時には、私の主なる見えない導きに自然に従うよりない感じになっていたのですが...こうした“有形、無形の縁“によってこのように開かれたこと、ただ感謝しかありません。
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AIには分からないもの

2025-04-05 05:29:07 | 
私にとって惹かれてやまないもの、心から好きなもの...それは神である。...
なんて言っても、神など居るかどうか分からないし、捉えどころの無いものではないか?、と思われるかもしれません。
それはそうですよ。神は何かは分からない。だから何と呼んでいいのかも分からないので借りにそう言っているまでなのですが...それは誰が何と言おうと、私にとりアリアリと具体的に感じられるものなのです。逆にこんなに目の当たりに感じられるものは他に無い、と言えるのです!
これは、私には捉えることが出来ないが、捉えられてしまった、ということなのです。惹かれてやまない、とはそういうことでしょう。
しかし、こればかりは直接経験、感覚的なものなので言葉で中々伝えることは出来ません。今流行りのAIによるチャットGPTでも絶対に分からないものですよ。こんなにアリアリと感じられるものなのに!...
勿論、最初からそういうものがハッキリ分かっていた訳ではありません。
初めてその神的なものの現臨感を覚えた数十年前の頃は、多く高揚感を伴う、手の辺りから広がる、ある暖かみとして感じられたものでした。それに愛というものを感じずにおれないのです。
しかし、それも常在するもののように定着することなく、一年半くらいで消えてしまい、それからはスッカリ分からなくなった時期が続きましたが、二十数年前に復活して、“おお...これが神の現臨というものなのか!“と感じられるようになったのです。
それがもっと具体的に“これなんだ!“と感じるようになったのは、このブログを始めるようになってからの七年半くらい前のことでした。
それは、それまでどうしても分からなかった、ラマナ.マハルシが常々語っていた、“ハートが真我の座である“、というそのハートの辺りに収斂されるようにも感じられるようになったことなのです。よりそこに愛というものが実感されるようになったのは言うまでもありません。
私は、そのように、“私が心から好きなものは神様です!“と、こう言えるのですが、それは人それぞれであり、ある人には愛する人だったり、ペットだったりするのでしょう。
私もね、普通の人間なのですし、他のものに浮気して最愛のものが移ってしまうことだって...無いですね!、ええ!...
いや、そのようなことになる場合は、その好きな対象が神になるだけです。その形あるものの向こうに神的なものの愛を感じるのです。
又、その形あるものはいつかは消えてしまうし、又他のものに対象が移ってしまうこともあるかもしれません。
しかし、その背後に感じられる神的な愛はずっと感じられるはずなのです。そしてそのことを深く意識するならば、その形の無いもの、そのものが必ずや感じられて来るでしょう?
私はそれを言っているまでなのです。私はここで、私は神を愛しているし、神は愛であることを強く言いたい!
こう書いて、神の愛の何がしかのことが伝わったでしょうか?
チャットGPTに聞いても、なんかもっともらしいことを言って、分かったつもりにさせられるだけですよ!
あなたの本心、あなたの神に聞かなければ!...





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人生を決めるもの

2025-04-04 05:32:59 | 身辺雑記
昨日、勤務中あまりにもヒマだったので、同僚との、別のギャンブル中毒で苦しんでいる同僚の話から、こんなことに話が飛んで行きました。

ー「あなたにとって心から好きなものは何?...」と私...
「う~ん、タバコかな?」
ー「それは、本当に心から好きなものなのか?、好きになれるのか?...ニコチン中毒で、それが無いと苦しくなるから、痛み止めみたいなものじゃないのか?」
「そう言われるとそうかもしれない...」
ー「心から好きなものっていうのは、心から“ああ、素晴らしい!、最高だ!“、とか思えるようなものだよ」
「そういうものは無いかもしれないな...」
ー「中毒症のものに囚われていると分からなくなるかもしれないな!」
「じゃ、あんたにとって好きなものっていうのは?」
ー「神様!(と即答...しかしそう言っても相手は本気にしないだろうし、ヘンに思われて、引かれてもしょうがないし...とりあえず)だから、そのお...つまりカミったものだ!(と答える)」
「だから、それは何だってことだろ?」
ー「...だからねえ...神様!(私は本心からどうしてもそう答えてしまう人間なのでした)」
「じゃ、あんたは何か宗教に入っているんだな?(どうしてもそういう話になる)」
ー「いや、入ってない!(と強く否定)」
「神っていうのは、そんなものに入らなくても、自分の心の中にあるものなのではないか?」
ー「その通りだよ!、それを言っているんだ!...でも大体の人は、漠然とそういう風に思っているだけだけど、私はちょっと深入りしたのか、そういうことになってしまったんだ!..勿論宗教にでは無いよ!(と本当のことを言ってしまう!...)」
「神様を心から好きになる?...わっからねーなあ、オレにゃあ!...」
ー「もう、私は神無しには生きてゆけない!(色んな意味で...と、こう話ているだけで、何かが降りて来る感じになってしまうのであった!)」
「本気か?...それって神様中毒と違うか?」
ー「本気だとも!...そうだとしても、ニコチンやアルコールやギャンブルと違って、苦しくなったり、金がかかったりしないし、何よりも、“スッバラシイ、なあ!“と心から感じられるからいいんだ!...人生というのは、こういうものの有る無しで決まるのではないか?」
「うらやましいな、あんたは!...“人生如何に生きるか“、ってーことを知っているんだな?」
「いや、“人生如何に生きるか“、では無くて、“人生何によって生かされるか“だ!」
「う~ん...ワカラン!...ぼちぼち仕事が始まるからタバコでも吸って来るよ!」
ー「中毒になると、人生狂わすから気をつけた方がいいぞ!」
「ああ...」

私は何だか大きな仕事をしたような、ヒマだったので興にまかせてテキトーなことを言った(何かのお告げ?)ような気分なのでした...。


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神の像、真我の像

2025-04-02 06:31:53 | スピリチュアル
「人間は神の真の似姿であって、神はそれをこの上なく愛し、自分自身の本体であるこの似姿のうちに自らを顕わにする」(ヤコブ.ベーメ)
「神は人間存在の意味である」(ベルジャーエフ)

創世記に、“人間は神の似姿として造られた“とあります。
似姿というのは、それを映し出すもの、像のようなものでしょう。
人間は、神を映し出す像、元より神性を内に宿しているものである...これが多く西欧などでは、“人間は本来神の子である“、と説かれる典拠となっているようです。
近世ドイツの神秘思想家ヤコブ.ベーメがこのことを強調し、後進の幾人かの哲学者、文学者、宗教家などに影響をもたらしましたが、取り分けベルジャーエフにより掘り下げられ、受け継がれました。
一者である神は、自身を直接見ることが出来ません。故に自身を見たいと望まれ、それを映し出す像として人間を創造しましたが、それは自身の性質も写(移)すということを意味するものでしょう。
だから、人間の内には神と等しい性質が秘められている訳です。
といっても、そういう“人間の思いを超えた“ような神話めいた話は、神など信じなくとも自由に思い、為して生きていける(と思っている)一コなる人間には、信じることも受け入れることも出来ないものでしょう。その限界を知らされない限りは!...
人間、この私自身、私の人生とは、そう思われたものだけのものなのか?...本当の私とは何なのか?
それは、いわゆる信仰ごと、人がそう信じ従って言っている言葉を信じるだけのことからは、充足出来ないものであるはずです。人間だけで生きているという限界を知って、自己実存に目覚めた人間であるならば!...
この自分は、鏡を通して自分の姿を見ることが出来ます。しかしそれは、先の人伝に知ることと同じで、直接自分を見ることとは違います。
私は、一度も鏡に映し出された自分がそのまま自分そのものと思ったことは、“相変わらずさえない顔してんな“と感じることはあっても、本当には一度もありません。直接見ていないのだから!
すぐ壊れてしまう、ガラス細工のものに映った姿が本当の自分なのだろうか?
本当に映し出されるものとは、自分を超えたものに映し出されたものではないか?
それが思っているだけの自分を超えた、真の自分の姿なのではないだろうか?
そして、真に自分が超えられた時、直に自分自身に向き合わされるのです。
言うなれば、真我の像を通して!...それは鏡を見るように見る像ではありません。内なる目に映じられるものです。
それは神的なものと一つのもの...神が自らを見たいと望まれた、その像が如何なるものかは、あまりに超越的である故に分からないが...そうした神の像があるのであれば、我々にはその真我の像があるということなのではないでしょうか?
人間は自分を超えたもの無しに自分を見、知ることは出来ないのですから!...
いずれにしても、このことは一者が一者のままであるならば、生起されて来ないものでしょう。
一者は超え出る!...ここに神と人間の二元世界が生まれるのですが、それは分離したままということを意味するものではありません。
そして人間も思っているだけの自分を超え出て、神と一つになることが出来るのです。
神の像、人間の、真我の像を通して!...
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