先日、乗ろうとしていたバスの時間を気にしながら、ファミレスで昼食を食べていたのですが、間に合いそうにないので、何と五分でかき込むように食べてしまったのでした。(残せばいいのに、残さない、モッタイない!)
その後、“なんてバカなことをしたんだろう、胃腸に負担をかけるようなことをして!...胃腸さん、身体さんごめんなさい!“、と、いつもは気にしない、自分の身体をいたわる気持ちにさせられたのでした。
トシのセイもありますが、身体は言うことを聞いてくれない!...というより、そのように無理、不自然なことに走らせるものは、その思念なんだということを改めて知らされました。
宗教やスピ界隈には、肉体を否定するような、偏った思念に囚われている傾向が時折見受けられます。中には肉体を無くさないと高次元に進化出来ない、悟ることが出来ないと妙ちきりんな観念に取りつかれたような者もおります。
これは、その逆の唯物論者の人間存在は肉体だけしかない、という思念よりも偏り、歪んだものに感じられます。というのは、人間は見えるものしか認識しようとしないのは、いくらか自然な有り様ですが、そこにはあらゆる現実に無いような空想ごとに思いが馳せ飛び、幻想が生み出されるからです。
彼らは肉体自体が諸々の不調和の問題の種のように思い込むようなのですが、問題の種となるのは、そういう不調和、不自然に暴走する思念であることを知らねばなりません。
肉体は、そのように極端に肯定されたり、否定されたりするものでなく、それとは関係無く、ただ中立に在るものなのです。
そして現実には、それ無しには、そのように思い、為す人間は存在出来ないということです。
だから、もっとありのままの肉体に意識を向けなければならないのです。肉体だけしか無いとか肉体は無い、無くさなければならない、とかの先入観、固定観念を置いといて!
すると...ありのままの肉体というのは、それだけで存在しているように感じられるでしょうか?
これは、この自己は、自己だけで存在しないように感じられることと同じことでしょう。肉体を超えたあるもの共々がその肉体感覚のように感じているものだ、ということなのです。
といって、それは直ちに肉体を超えた霊体とか幽体のようなものを想定するということでは無いですよ。肉体がある、それとは別に霊体、幽体がある、というのは、そのように分けられて、多く空想的に思念されていることに他なりません。
肉体感覚と感じられているものは、肉体だけからは来ない!...それは心的、意識的なものと一つの、心身合一的なものとして感じられるのではないか?
前回、道院の坐法により、内的感覚が芽生えたことを書きましたが、この感覚というのは正にそこから来ると言ってもいいものなのです。
調和というものは、このように別々のように、それだけで切り取られたように思われたものが、合わさるものとして理解されるものでなくて何であろう!
人間は、人間だけで存在しているのでは無い!...それを超えたものと一つのものとして在らしめられているのではないか?
それは、我々にもっとも身近な肉体をもっと意識することにより、その目覚めの端緒が生まれるのではないでしょうか?
その後、“なんてバカなことをしたんだろう、胃腸に負担をかけるようなことをして!...胃腸さん、身体さんごめんなさい!“、と、いつもは気にしない、自分の身体をいたわる気持ちにさせられたのでした。
トシのセイもありますが、身体は言うことを聞いてくれない!...というより、そのように無理、不自然なことに走らせるものは、その思念なんだということを改めて知らされました。
宗教やスピ界隈には、肉体を否定するような、偏った思念に囚われている傾向が時折見受けられます。中には肉体を無くさないと高次元に進化出来ない、悟ることが出来ないと妙ちきりんな観念に取りつかれたような者もおります。
これは、その逆の唯物論者の人間存在は肉体だけしかない、という思念よりも偏り、歪んだものに感じられます。というのは、人間は見えるものしか認識しようとしないのは、いくらか自然な有り様ですが、そこにはあらゆる現実に無いような空想ごとに思いが馳せ飛び、幻想が生み出されるからです。
彼らは肉体自体が諸々の不調和の問題の種のように思い込むようなのですが、問題の種となるのは、そういう不調和、不自然に暴走する思念であることを知らねばなりません。
肉体は、そのように極端に肯定されたり、否定されたりするものでなく、それとは関係無く、ただ中立に在るものなのです。
そして現実には、それ無しには、そのように思い、為す人間は存在出来ないということです。
だから、もっとありのままの肉体に意識を向けなければならないのです。肉体だけしか無いとか肉体は無い、無くさなければならない、とかの先入観、固定観念を置いといて!
すると...ありのままの肉体というのは、それだけで存在しているように感じられるでしょうか?
これは、この自己は、自己だけで存在しないように感じられることと同じことでしょう。肉体を超えたあるもの共々がその肉体感覚のように感じているものだ、ということなのです。
といって、それは直ちに肉体を超えた霊体とか幽体のようなものを想定するということでは無いですよ。肉体がある、それとは別に霊体、幽体がある、というのは、そのように分けられて、多く空想的に思念されていることに他なりません。
肉体感覚と感じられているものは、肉体だけからは来ない!...それは心的、意識的なものと一つの、心身合一的なものとして感じられるのではないか?
前回、道院の坐法により、内的感覚が芽生えたことを書きましたが、この感覚というのは正にそこから来ると言ってもいいものなのです。
調和というものは、このように別々のように、それだけで切り取られたように思われたものが、合わさるものとして理解されるものでなくて何であろう!
人間は、人間だけで存在しているのでは無い!...それを超えたものと一つのものとして在らしめられているのではないか?
それは、我々にもっとも身近な肉体をもっと意識することにより、その目覚めの端緒が生まれるのではないでしょうか?