人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

預言者と祈りの精神

2024-11-03 10:01:57 | 現臨、ハタラキ
「主の栄光は、神の本質ではない、神の現臨である。神の属性ではない、行為である。実体ではない、過程である」(A.J.ヘッシェル「人間を探し求める神」/教文館刊)

私が霊性の道において、常に問題にしていること、意識させられていることは、例えば、そこで悟りに与る、神と一つになるには、我々の欲望、思考マインドから離れなければ、捨てなければならない、高い次元へと超えなければならない、という命題が示されたとして、この一個なる限界を持った自分が手放しでそんなことに着手することなど出来ない、ということであり、又、“人間は本来神と一つなのです。あなたという個人は本来存在しないのです“、と大上段から説かれても、手放しでそんな境地になどなれるものでない、ということなのです。
かくしてその界隈には、“やって出来たつもり“、想像しただけの神、霊界、悟りの道などが溢れかえっているのが現状なのではないか?...
我々は、この限界を超えなければ、霊性は開かれないとして、それは、その超えたもの、御自らが我々にハタラキかけて下さなければ叶わないことなのではないか?...
だから、私は神の現臨ということを強調せざるを得ないという次第なのです。
私は、いつもそれをキリスト教方面で言い慣わされているものから借りた、と言っているのですが、もっと直接的に借りているものを突如思い出しました。
それは前世紀の米国のユダヤ系宗教哲学者、A.J.ヘッシェルの言葉からなのでした。
ヘッシェルは、西欧哲学は、ギリシア的、静的、主知的傾向が強く、ヘブライ的動的、預言者的精神に欠けるので、霊性そのものを閉ざしてしまうことに警鐘を鳴らしているのです。
これは、ただでさえ思弁的な哲学の世界についてのみならず、宗教、スピの道全般についても言えることではありませんか?
これは、ベルジャーエフが随所で語っていた存在論、実体論を優位にした思想に対して、創造的アクト(これは行為というよりももっと根源的なハタラキ的なものであろう)、形なきハタラキ的なものを強調したことと相通じるものがあるでしょう。
ベルジャーエフ(彼には同じくロシアから革命により亡命した、親交のあったユダヤ系哲学者シェストフよりもはるかにヘブライ的なものを感じる)もヘッシェルも、預言者的な精神に貫かれた哲人であったのです。
では、その預言者的、ヘブライ精神とはどういうものなのでしょうか?
ヘッシェルの本を読んで感じたことは、実はユダヤ、ヘブライ的なものが特殊で、霊性に近い精神ということではないのです。
ギリシアでも、東洋的なものでもそれだけで、霊性から遠いと言ったらあまりにも紋切り型に過ぎるでしょう。(私は、遠い先祖は、ユダヤかもしらんが日本人なんだぞ!)
預言者的ヘブライ精神とは、旧約の民とは端的に言えば、よく祈る民だったということなのです。
「主とその力を求めよ、主のみ顔を絶えず求めよ」(詩篇105)
預言者とは、神のみ前にへり下る人たちであった。彼らは、人間の限界を弁え、思い、力を超えたものを切に求めてやまなったのです。
原始キリスト教がこの精神を引き継いだのは論を待たないでしょう。
否、いつの時代でも、どんな宗教的世界でも啓示と祈りは、切り離されるものではないはずなのです。
霊性の道が開かれるか、閉ざされるか...この二つの道がハッキリ分かたれている様相を映し出す今日こそ、神を待ち望み、臨みたもう、祈りの精神が生きて来るのではないでしょうか?...





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生きる意味を超えて

2024-11-02 09:44:01 | 雑感
人は誰しも一度は、”人は何故生きるのか?、人生の意味は?”、ということについて考えたことがあるものでしょう。
大体そんな時って、何か苦しみ、悩みなどを抱えている場合が多いようです。
そうですね、考え出したら、人生って苦しみ、悩みごとの連続のように思えて来ます。
問題が解決して、その時は幸福に感じても、次から次に新たな問題が起こったりして...又外からニュースなどで悲惨な状況などを見聞きしたりして、そういう思いを強めてしまったりします。
そりゃあ、そういうこと考えてしまいますよ!...考えてしまうんです。
生きよう、生きよう、幸福になりたいと思うのだけど、悩ましいことにいつも阻まれる、それを得ても失うことになってしまう...
だけどね...いつも言っていることですが、朝起きたら、生活の状況は特に変わらないのに、心の状態はまるで生まれ変わったように、幸福に包まれていた、なんてこと私のみならずあるのではないでしょうか?
その幸福は、私が何かを思って、為して得たものでは無いのです!
起きたら、気が付いたら幸福に包まれていた!...これは、こういう言葉を使い出す以前から私には感じられていたもの...即ち思いを超えたもの、神的なものが臨んでいたということなのです。
私が思う以前からそれがある!...そこに私を超えた、あるいは私の根源からある意志というものを感じずにおれません。
それは、動物的な本能とは明らかに違うものです。(人間的本能は、動物よりヒサンではないか?)意志といっても、私がそう思っている意志とは別のもっと大きな、深いものかもしれませんが、要するに私を超えた意志だと言っておこう!
といってもそれは、私と別在しているものじゃないのです。いやもっと私そのものから来るようではないか?
だからだから、これは生きるということ、人生というものは、思い、為す自分だけがすべてでは無い、ということに尽きてしまうのです!
”生きる意味は?”、と考えることを超えて、”生きている”のが人間なのでしょう。
それを考えて何らかの答えを得たとしても、答はもう出ているではないか?(いや、答えなんか要らないでしょうけど...)
そして、この根源的な生きる意志のあるところに幸福、平安が感じられる、それがあるのです!
ですから、生きる意味は?、と問われたら、”幸福になることです。”、と一応は答えは出て来るのかもしれません。というより、それを願わずに生きていない人間など居ないでしょう!
だけど、”どうやってそれを得ますか?”、ってことになると、思い、為すことに結びつけざるを得なくなり、それには幾多の困難があり、ってことになり、答えること自体が困難になる訳で!...
これはどうしても、考える自分を超えた意志というものを意識することと切り離すことは出来ないでしょう。
そのコツは、ある時は幸福に感じられた、しかし、又苦しいことを考えて落ち込んだ、不幸になった、人生はそういうことの繰り返しなんだ、と考えごとで片付けてしまわないことです。
考えることの根底にあるものを意識する、感じてみるのです。意識付ける。
というより、本当は、それを考えようと為そうと、しまいとそのものと一個なる自分とは切り離されないものなのですけれども...それが私の大本にある、本来からある。
だから、人間は本来生きている、生かされているだけで幸福なのではないでしょうか!...



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超越にして内在

2024-10-31 09:42:50 | 現臨、ハタラキ
「創造する私にとっては、超越者とは内在的存在者のことであり、超越するとはかえって内在的になることなのである」(ベルジャーエフ)

神は人知を超えた存在、超越者として普通に信じられていますね。一方では、神は我々の内に在ると説く者もおります。
それを巡って”どっちが正しいのか”、なんて議論を戦わしてるヒマな人らも居るようです。
私がいつも言っている、”神の現臨”というのは、前者の代表とも言えるキリスト教方面から借りた表現なのですが、実はこの感覚そのものは、そのような区別などつかないものでして、”ここに臨在するもの”、としてこの二つで一つのことを含めて言い表しているつもりなのです。
この感覚が芽生え始めた頃から、内在するもの、中から何かを促し、催してくるものの感じはあったのです。
当初は、多分に倫理、道徳感と結びつく良心的なもののように感じていたのですが、その呵責とは関係無しにハタラクのを覚え、いつの間にか区別されるようになったのです。
いやもう、本当にこの超越的なものと内在的なものは切り離すことが出来ません。
神的なものを意識すれば、中から立ち上がって来るものが感じられ、内なるものを意識すれば、もうそのこと自体、自分が超えられてしまうということになる、という如くに...
とにかく、神的なものが現臨することは、自己実存が開かれることと一つのことなのです。
これを意志想念で、そう思おうとしたってそうはならないのです。それでは超越神や内在神を思い描くだけでしょう。
しかし、そこに順序として、まず自分の外(上)から臨んで来るという感じが最初にあるようです。
大体が、小池先生がよく言われる、”圧倒される”ような事態に出合わされることが多いようで、これは、正に考え、為そうとする自分からは、けっしてそうならないということを示しているのでしょう。
超えるということは、けだし思いを超えるということに他ならないのです。
そこで、ベルジャーエフが随所で語っている、霊性が開かれる上にも重要なこととされる、”創造的行為”のことについて、私にはどうもそれが意志想念で為されるものなのか、それを超えたものなのか、これまで判然としなかったのですが、それは、冒頭の言葉から創造的行為の主体者は、為そうとする自分のことでは無く、超越的にして内奥から発するあるものであることが知られるのです。
これはもう、超越者なのか内在者(こういう言葉はほとんど聞きませんが)分かりません。
要するに、神的なものなのか、真我的なものなのか分からないのです。
おそらく、それは(ベルジャーエフが好んで言及していた)”神人”の為せるものなのでしょう!...



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私に思いを向けなさい!

2024-10-29 08:43:35 | 詩的文章
夜明けの目覚め
しばしの微睡みが晴れるうち
あの声なき声がこう囁いた...

目が覚めたか?
気分はどうかな?...自分の思いで自分を重たくしていないか?
自分、自分、何でもじぶん...
やってしまったことは、しょうがないじゃないか?
自分だけが悪い訳でもないんだから!
そういう思いを又自分で直そう、改めようと...
それで、直ったか、改まったか?
それを又自分はダメだ、ダメだと...“ダメ押し“なんかして!
ダメなものはダメ!...
出来ない、どうしようもない...それでいいじゃないか!
雨は上がり、雲は流れる...思いは?
空を見よ!...なんて私は言わない!
何を見て、何を思おうとかまわないが...
私はここに居る!
私に思いを向けなさい、預けなさい!...

自分がどれだけ、改まったか、清まったか、進んだか、(え、なんだって?)悟りに近づいたか、だと!...そんなことはどうでもいいではないか?!
比べられる何かがあるのか?
何が正しくて、成長して、悟るというのか?
自分でそう思うだけじゃないのか?
改まった、清まった、進んだ、悟った...と思うだけ!
そんなことより、私はここに居るぞ!
私から離れてどこへ行こう、何になろうとするのか?
“すみません、あれは僕の自我でした“、だと!
だから、お前の自我とかエゴのことなどどうでもいいではないか?
自分でどうにもなるまい!
自我もエゴもあるだろう...
しかし、そいつがあろうとなかろうと...
私はここに居る!
だから...
私に思いを向けなさい、預けなさい!...



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神との一体化の意味

2024-10-27 09:07:52 | 
先日、スマホの電池交換をしたいと思ってショップに行ったのですが、最近のスマホは一度電池が本体に付けられると、ほとんどそれと一体化してしまって交換が出来なくなっているとのことです。時代に取り残されている私はちっとも知りませなんだ。
そこで思いました。これは、神的なものが臨み、それが一度私と一体化するように感じられると、もう分離がきかなくなるようなことではないか、と。
そうです。それはずっとずっと私から離れなくなってしまうのです。そしてそれは、私の外から私に付着するように思っていたものが、いつの間にか入れ代わったようになり、私の主なるもののようになり、私はその付属品のようになってしまうのです。
私は、こういう運命を受け入れるしかないのです。...そ、そんな運命になることなど...それは、何にも代え難いことに決まっているではありませんか!
そういうことになって私はそのものの奴隷になる訳じゃない!、返ってより私自身になり、より自由になることなんですよ!...そう、神と共にあるということが、私で居られることであり、自由で幸福なことなんです。
前記したようなことは、あくまで思い、為す自分から観た、感じのことを言っているのであり、本当は、本来は元々神と一体化していたものが、分離して、一個なる自分のみで生きているように感じていたものが、再びつながるようになった、ということも日増しに実感されるようになって来ました。
そういうことなら何故最初から神と一つの状態のままでないのか?、と思われる向きもあろうし、私も考えたこともあります。
これはしかし、微妙な問題になりますが、”一体化”ということがどういうものか、ということを考え、感じてみたら分かるのではないでしょうか?
つまり、最初から一つなら一体化というものは出て来ないのです。
そうなると、おそらく”神がここに臨みたもうた、私と一つに!”、という事態に伴う、喩えようのない歓喜、至福感というものも生まれないだろうし、勿論、悟りや覚醒というものも無いでしょう。
ここに、我々がこの現実世界の二元性の中で生きている、という意味合いが存しているのではないでしょうか?
この二元と一なる一元の間を生きているものが、人間というものなのではあるまいか?
先のように、本来神と一つのものであるのが人間の原態なのでしょう。
それが完全に一つのものになるのかどうかは、以前として考え、為そうとする人間から卒業していない私には分かりません。
前回、私は”神的な現臨にある時、意識の統一が成されている”んだとか、悟ったようなことを書きましたが、そうでない時は、心ここに無いような、テンデバラバラで、心もとない状態なもんで、そんなこと分かる訳ないのですよ。(ああいう、エラそうなこと書くと、決まってすったもんだの事態が起こるのは何故だ?)
これはですね、どこまでもわが主なる御方のみ心次第なんですよ。それは多分、私の本心と一つのものなのでしょう。
そして、どこまでもこの私はそれに合わせ、否合わされるのみなのです。...




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