祈りをしていても自分の今の状況が変わったり、幸福に与ることが出来るとは限りません。
これは、祈りというものが自分の思い、欲求からで無しに、神のみ心、導きのまにまになされるものであるということを言っているのです。そこに自分を超えたものにゆだねるということがあるのです。
とはいえ、誰でも苦境から救われたり、幸福を求めて祈るのでしょう?
中には神と一つになるために、霊性の開発のために祈るという人も居るかもしれません。そこにも願望というものはあります。それが神のみ心に叶うかどうかは分からない...
いやいやしかし...私はそのように真摯に神に向き合い、ゆだねようという祈りをずっと続けていても、苦境から救われ、幸福に与れないということは絶対に無い、あり得ないと断言しちゃいたいです!
祈りをやっているつもりでも、某画伯のように、何年、何十年、半世紀近く(!)経っていてもそういう霊性の開花、平安に導かれるどころか、興味本位のどうでもいいようなカルト的な教えなどに迷い続けている者も居るのです。何十年、半世紀近くも!...それこそ、あり得ない話ではないか!、何という無駄な渡世であろう!
そりゃ、祈りの根本的なことが分からず、ズレてしまえば、それも当然の成り行きでしょう?
それは、ああいうものに容易く脱線してしまうことからも分かるのです。
まず、神に向き合おうとしていない!...エセ教師の教えを真に受けているのか、“真我に至るには神を超えないとならない“、らしいです。神は全く意識されていない!...神無しにどう祈るというのだろうか? それは王将無しで将棋をするようなものではないか!
これでは、祈りと思念力の、要するに思いとそれを超えたものの区別がつきません。
それは、その超えたもの、神を意識し、向き合うことでおのずと分かることなのです。
祈りとは、あの画伯が長年信奉している(らしい?)五井先生もいつも言っていたように、神に向き合い、自分を投げ出すことです。“神はああだ、こうだ“、とマヌケに傍観していることじゃない!
漠然と思わないで、それを意識するのです(念じるのではない!)。すると意識しなくても、おのずと向けられて来ます。
これは、思い、為そうとする自分の手動から、神の方にそれが移るということに他なりません。
これで、苦境から救われ、幸福に与れない訳が無い、と言うのです!
この神の息がかかるようなことは、そういうことなのですよ!
たとえ、その苦しい状況そのものは変わらないにしても、それに関わらない幸福、平安は感じられて来るではありませんか?
これを思うと、自分で言うのもおかしいですが、祈れるということ、神に向き合えることというのは、大変な功徳なのではないか、と感じられて来ます。祈れない人間も沢山居るのです。(祈りのことを知っていても祈れない人間も居る!)
当たり前に思っていてはなりません。祈れるだけで実に幸せではないか!
どんな神縁、法縁があるのかは分からないが...
今の世の中、表面的には業因縁が渦巻く様を見させられているようですが、見えないところでそういう神縁も顕わになって来ているのを感じずにおれません。
それは、祈りを通して呼び起こされるのでしょう。
これは、祈りというものが自分の思い、欲求からで無しに、神のみ心、導きのまにまになされるものであるということを言っているのです。そこに自分を超えたものにゆだねるということがあるのです。
とはいえ、誰でも苦境から救われたり、幸福を求めて祈るのでしょう?
中には神と一つになるために、霊性の開発のために祈るという人も居るかもしれません。そこにも願望というものはあります。それが神のみ心に叶うかどうかは分からない...
いやいやしかし...私はそのように真摯に神に向き合い、ゆだねようという祈りをずっと続けていても、苦境から救われ、幸福に与れないということは絶対に無い、あり得ないと断言しちゃいたいです!
祈りをやっているつもりでも、某画伯のように、何年、何十年、半世紀近く(!)経っていてもそういう霊性の開花、平安に導かれるどころか、興味本位のどうでもいいようなカルト的な教えなどに迷い続けている者も居るのです。何十年、半世紀近くも!...それこそ、あり得ない話ではないか!、何という無駄な渡世であろう!
そりゃ、祈りの根本的なことが分からず、ズレてしまえば、それも当然の成り行きでしょう?
それは、ああいうものに容易く脱線してしまうことからも分かるのです。
まず、神に向き合おうとしていない!...エセ教師の教えを真に受けているのか、“真我に至るには神を超えないとならない“、らしいです。神は全く意識されていない!...神無しにどう祈るというのだろうか? それは王将無しで将棋をするようなものではないか!
これでは、祈りと思念力の、要するに思いとそれを超えたものの区別がつきません。
それは、その超えたもの、神を意識し、向き合うことでおのずと分かることなのです。
祈りとは、あの画伯が長年信奉している(らしい?)五井先生もいつも言っていたように、神に向き合い、自分を投げ出すことです。“神はああだ、こうだ“、とマヌケに傍観していることじゃない!
漠然と思わないで、それを意識するのです(念じるのではない!)。すると意識しなくても、おのずと向けられて来ます。
これは、思い、為そうとする自分の手動から、神の方にそれが移るということに他なりません。
これで、苦境から救われ、幸福に与れない訳が無い、と言うのです!
この神の息がかかるようなことは、そういうことなのですよ!
たとえ、その苦しい状況そのものは変わらないにしても、それに関わらない幸福、平安は感じられて来るではありませんか?
これを思うと、自分で言うのもおかしいですが、祈れるということ、神に向き合えることというのは、大変な功徳なのではないか、と感じられて来ます。祈れない人間も沢山居るのです。(祈りのことを知っていても祈れない人間も居る!)
当たり前に思っていてはなりません。祈れるだけで実に幸せではないか!
どんな神縁、法縁があるのかは分からないが...
今の世の中、表面的には業因縁が渦巻く様を見させられているようですが、見えないところでそういう神縁も顕わになって来ているのを感じずにおれません。
それは、祈りを通して呼び起こされるのでしょう。