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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

祈れるという功徳

2025-05-21 06:18:51 | 祈りと瞑想
祈りをしていても自分の今の状況が変わったり、幸福に与ることが出来るとは限りません。
これは、祈りというものが自分の思い、欲求からで無しに、神のみ心、導きのまにまになされるものであるということを言っているのです。そこに自分を超えたものにゆだねるということがあるのです。
とはいえ、誰でも苦境から救われたり、幸福を求めて祈るのでしょう?
中には神と一つになるために、霊性の開発のために祈るという人も居るかもしれません。そこにも願望というものはあります。それが神のみ心に叶うかどうかは分からない...
いやいやしかし...私はそのように真摯に神に向き合い、ゆだねようという祈りをずっと続けていても、苦境から救われ、幸福に与れないということは絶対に無い、あり得ないと断言しちゃいたいです!
祈りをやっているつもりでも、某画伯のように、何年、何十年、半世紀近く(!)経っていてもそういう霊性の開花、平安に導かれるどころか、興味本位のどうでもいいようなカルト的な教えなどに迷い続けている者も居るのです。何十年、半世紀近くも!...それこそ、あり得ない話ではないか!、何という無駄な渡世であろう!
そりゃ、祈りの根本的なことが分からず、ズレてしまえば、それも当然の成り行きでしょう?
それは、ああいうものに容易く脱線してしまうことからも分かるのです。
まず、神に向き合おうとしていない!...エセ教師の教えを真に受けているのか、“真我に至るには神を超えないとならない“、らしいです。神は全く意識されていない!...神無しにどう祈るというのだろうか? それは王将無しで将棋をするようなものではないか!
これでは、祈りと思念力の、要するに思いとそれを超えたものの区別がつきません。
それは、その超えたもの、神を意識し、向き合うことでおのずと分かることなのです。
祈りとは、あの画伯が長年信奉している(らしい?)五井先生もいつも言っていたように、神に向き合い、自分を投げ出すことです。“神はああだ、こうだ“、とマヌケに傍観していることじゃない!
漠然と思わないで、それを意識するのです(念じるのではない!)。すると意識しなくても、おのずと向けられて来ます。
これは、思い、為そうとする自分の手動から、神の方にそれが移るということに他なりません。
これで、苦境から救われ、幸福に与れない訳が無い、と言うのです!
この神の息がかかるようなことは、そういうことなのですよ!
たとえ、その苦しい状況そのものは変わらないにしても、それに関わらない幸福、平安は感じられて来るではありませんか?
これを思うと、自分で言うのもおかしいですが、祈れるということ、神に向き合えることというのは、大変な功徳なのではないか、と感じられて来ます。祈れない人間も沢山居るのです。(祈りのことを知っていても祈れない人間も居る!)
当たり前に思っていてはなりません。祈れるだけで実に幸せではないか!
どんな神縁、法縁があるのかは分からないが...
今の世の中、表面的には業因縁が渦巻く様を見させられているようですが、見えないところでそういう神縁も顕わになって来ているのを感じずにおれません。
それは、祈りを通して呼び起こされるのでしょう。
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真の救われ

2025-05-03 06:06:31 | 祈りと瞑想
病苦、生活苦、人間関係による苦...言うまでもなく、人生には苦しみが付きものです。
特別な苦しみは無くとも、長いこと生きているだけで老苦になる...
誰だって、苦しみから逃れたい、救われたいと望むものでしょう。自分だけの力ではそれは叶わない...願う、神仏に願う。
それが存在するのか、何であるか分からなくても、無神論を決め込んでいる者でも人間は、苦境に立たされるならば、何かに願わずにおれないものでしょう。
そこに人間は、その根底において何かしら宗教的なものと関わるものがあるのを感じます。
だから、苦しみと共にある人間は、祈らざるを得ないものなのでしょう。
高尚な(?)信仰者からは、現世利益と煙たい目で見られようと、苦から逃れたい、解放されたい、救われたいという感情が誰しにも存するのは否定することは出来ません。
そして、勿論どんなに神仏に祈っても、病気や貧困、人間関係の不調和...苦しみの要因になるものが現世利益と結びつくように無くなる、改善されるかどうかは分からないのです。
置かれた境遇は何も変わらないかもしれません。だから、それでは苦しみから救われることは無い!...
本当にそうでしょうか?...不幸な境遇が変わらないと幸福になれないでしょうか?、救われないでしょうか?
いいや、逆に言えば、特別な不幸な境遇に今は無くても、いつそうなるか分からないし、この世に生きているだけで、何かしら不安感を抱えたりするのではないでしょうか?
自分だけで生きているだけでは中々安心することが出来ない...心が安らぐことが無い!...
魂の平安といったもの!...人間の幸福、救われについてもっとも知るべきことはこういうことではないでしょうか?
先の通り、どんなに祈っても不幸な自分の状態は変わらないかもしれないし、又、その平安に導かれるとは限らないかもしれません。
しかし、私には何度もあります。かつては今のように神についても、祈りについても意識的になっていなかったですが、そうとは知らずに示されていたのです。
いつの間にか、自分のその苦しい思いが超えられてしまうことがある!...救いとはこのことに尽きるのではないか?!
苦からの解放とは、現象は何であれ、平安に導かれることそのもので無くて何であろう!  
ただ漠然と自分の思いで祈るのでなしに、意識的になってみる(ということはおのずとそうなるということなのですが...)。そして神的なものが臨み、流入し、自分と一つになるように感じて来る...
それで、平安に導かれないことは無い、と言っていいのです。う~ん、思い返しても無いですねえ...勿論、今、こう書いているだけでもそうなのです。
だからだから、私はこういう祈りのことを伝えたくてならないのです。たとえgooブログが無くなったとしても!...
苦しかったら祈ったらいい!
かつて“自分は高尚な信仰をしているのであって、そんな軽薄な祈りなんかはやらない!“、なんて能面みたいな顔して、無理して感情を押し殺したようなこと思っていた私はホントにバカみたいでした。
本当は、心から“神サマ助けて下さい!“と叫びたかったのです! 
やせ我慢して誤魔化してる場合じゃありません!
苦しみから救われることを、平安に与ることを願わない人間など居ないのです。
この今の世の中、いよいよ人間存在はおしまいになるか、救われるかの瀬戸際に立たされているようではないか?
そう、祈らざるを得ない!...

 


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願うこと

2025-04-29 06:32:59 | 祈りと瞑想
宗教的な道では、これこれの信仰や修行をしなければならない、などと言われます。
数多あるそれらの中から自分で選んでそれに打ち込む...そこから始めなければならないのでしょうか?、そうして 霊性が開かれるのでしょうか?
如何にも何かを考え、やろうとする人間がそうするように...
私には、そこに肝心なことが前提として抜け落ちている気がしてならないのです。
それは願い、願うこと!...当たり前の話です。最初のことだから、自覚もあまり無いだろうし、漠然としたものとならざるを得ないでしょう。
“神のこと、本当の自分のことが知りたい!“...宗教的な道では、大体がこれらのことに関わるものでしょうが、微妙な言い回しながら、それが知識欲だけでなく、願いとして起こって来ることによって、その道が開かれるようになるのではないでしょうか?...否、もうそれは開かれていると言ってもいいかもしれません。
願うということは、既に考え、為そうとする自分を超えたものに意識が向けられている、ということなのだから!
これは考えている自分が何かの信仰、修行をしてみようか、などという行き方とは、根本的に違うことと言ってもいいでしょう。
それは、他人からそうしなければならない、と言われる筋のものではありません。全く自己の内奥からの、主体的な在り方なのです。これが無いならば、人伝の信仰、修行などがあっても何になるでしょうか?...何年、何十年やってても無駄でしょう!
願うということは、祈りの根本にあるものです。何の、何の宗派の祈りでは無い!...あなた自身の、あなたの神、主なるものへの祈りです。
私はよく意識を神に向ける、とか言っていますが、この言い方も先の“しなければならない“式に受け取られてしまうかもしれません。だからいつも“おのずと意識が向いてしまう“とか付け加えたりしているのです。こっちが本当なのです。
願うというのはそういうことなんです。それは神なのか?...何か分からないけど、人間は無神論者でも、自分に行き詰まったら、自分の限界に付き当たったら、何か願わずにおれないものでしょう。
願いを漠然と思うことでなく、もっと意識的になることでより深いものになります。
そして、そこから意識的にそのものにつながることもあるかもしれない...霊性が開かれるとは、このことを置いてはあり得ないでしょう。
それは、思い、為そうとする人間だけからは決して開かれない!
そういう自分の限界を示された者には、最初から開かれているのではないか?
そうとは知らずに知識としてで無しに、神的なものがどういうものかが示されているのです。
そこに願いを促しているものが感じられて来ないでしょうか?
自分の思いを超えた願いというものがある。これが親鸞さんが説いた弥陀の本願と関わるものでしょう。
願うことは、私の本心からの願いとわが主の願いと一つになることに他ならないでしょう!...




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神無しに祈りはあり得ない

2025-04-10 06:02:40 | 祈りと瞑想
前回、祈りについて某が言っていた、祈ることに飽きてしまうような、形式的な祈りと私がいつもここで書いているような祈りと根本的に違うものを感じているのですが、これにはどうしてもある重要な説明が要るのです。
私がいつも書いている祈りというのは、ほとんどが通常理解されているような祈りのことではないのです。(我ながら驚くべきことを書いているのかもしれませんが)
それは思い、為そうとする自分が神などを礼拝対象にして、決まった祈りの文句を唱えたりして一定の時間行うような祈りのことを言っているのではないのでした。そういう祈りというのは、私でもやはり飽きてしまいますよ。しかしそれが祈りの本質だとは思っていないので、ああいうことを書いたのです。
私がいつも書いているのは、意識を神に向ける(自ずと向けられてしまう)ことにより、自ずと発現する、言わば形の無い祈りなのです。 
こちらは意識的な状態になっている。この意識的、無為的な祈りと人為的、形式的な祈りとは心的在り様が根本的に違うということなのです。
それは、そのまま思考と意識の在り方の違いと言ってもいいのですが、私はだから誰でもそのように意識的にならなければダメだ、なんていうこと言うつもりはありません。
やれと言われても私にも出来ませんよ。だからそうでなくて、そうさせる神的なものがこちらに臨んで来るからそういうことになると、言っているのです。
そうなると、飽きるなんてことは絶対にあり得ない!...飽きたからやめようったってやめられないですよ。自分の意志想念でやるようなもので無いのですから!
といって、それは神から強制的にそのように従わされることでは全くありません。
それは思い、為す私を超えた、すべての主なる、真の主体である私の極めて主体的な在り方なのです。(ややこしい言い方!)
だから“もう飽きた“、なんてことはあり得ないことでしょう?
勿論、いきなりそんなことになるということは多分無いでしょう。だから待ち望まなければならない。そう在らしめる神の臨在を!
それも飽きる、なんてことはやはりオカシイですよ。それはハナっから神を待ち望む気も無いのだから、最初からそういう祈りの場には来るな、時間の無駄だから!、ってことですよ!
だから“神があるから祈りがある、神無しに祈りはあり得ない“、と言うのです。これは、意識的...と深い話で無くても、普通に祈りとはどういうものかとして理解出来ることではないですか?
某のように、“空になるため“とか、“ための手段“としての祈りというのは根本的にズレていると言わねばなりません。
そもそも、少なくとも私などは、ただ思いを無くす、空になることだけを求めてなどいません。(頭がカラッポになるだけのアホのようになるだけでどうなるというのですか?)神を求めずにおれないのです。(そのプロセスで空というか、思いが超えられるということがあるのです)
それは、私が神と一つになることを望んでいるだけでなく、神も望んでいるのではないか?...だから呼べばすぐ臨んで来る!...
これは、意識的な祈りの場でいつも感じていることなのです。
神無しには、祈りは勿論、瞑想も宗教も霊性の道もあろうはずなど無いではありませんか!
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祈りは神との交わり

2025-04-08 05:26:31 | 祈りと瞑想
長年、五井先生について祈りの行をやり続けている人が、“祈ることに飽きてしまうので、空になること、空とはどういうことか、ということを知る必要がある“、という、ちょっと意味の分からないことを言っておりました。
これは、自分がやっているその祈り行というものが、決められた時間に決められたやり方でやるだけの形式的なものだ、と自分で言っているようなものでしょう?
空がどういうことかなど、そう考えている自分からは分かるはずありません。だから祈るのかもしれませんが、私は別に空になるためとか、悟るために祈る訳ではありません。
この人も言っているように、神と一つになるために祈るということはあるでしょう。
というか、神があるから祈りがあるのです。それ無しには何も始まりません。
自分がやる祈り、行では無い...思い、為す自分が主体でなく、祈りは神が主体であり、その主導で行われるのです。
そうでなければ、ゆだねる、全託という道は開かれないでしょう。それで飽きるなんてことがあろうはずがありません。
といっても、この人が言うように、いきなりそのように導かれることは無いかもしれません。いや、あるかもしれない!...そういうことは神にゆだねられるものなのに、自分で決めてしまうのは愚かなことです。自分が主導だからそういうことになるのです。
中々そのように導かれないのなら、神の臨在と言わないまでも、何か神的な、思いを超えたものに触れる、応答のようなものを感じるまで祈り続けたらいいでしょう。それが飽きるというのならそれまでです。そんな祈りを何年、何十年したって無駄です!
しかし本当は、そのように自分の思いで結果を求めるべきではないのですが、そういう気概、覚悟も必要と言っているのです。
要するに、どこまでも純一に神を求めたらいいのです。自分の思い、力でなく神に意識を向けたらいいのです。
これはもう、神的なものに触れる、思いが超えられる、ということと同じようなことを言っているのですよ。(先の空というものは、そういうことを抜きにしてはあり得ないものでしょう?)
繰り返しますが、神があるから祈りがあるのです。
サンダー.シングも言うように、「祈りとは神との交わり」なのです。神にあって祈る。そうでなければ自分がやる祈り行のマネに過ぎないではないか!
小池先生も「信仰では無い!、信交、神交である、祈りでその世界に入る、祈入する」と言われる。
私はこうした消息のことを昭和53年の今頃の季節、手島先生によって初めて知らされたのですが、頭では分からないが、何か理屈無しに惹きつけられるものを感じたことを今もアリアリと覚えています。
いや、五井先生も「祈りとは、自分を神に投げ出すことだ!」と言っていたではないか?
いや、その通り!、そうなんです!...私はそこでそうと知らずに意識が思いを超えた方に自ずと動いた、という経験をしているのです。
意識が神に向けられる!...霊性の道はそれで決まると言っても過言ではないでしょう!...。
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