私がこうして書いていて、いつももどかしく感じていることは、“本当に言いたいことは語ることがが出来ない“ということです。
例えば、今こうして、神的な現臨に“ついて“書こうと思っているだけで、その臨在感というものがもたげて来ます。
ところが、そのことを言葉に表して説明しようとすると、その臨在(そう、それは正しく思いを超えた臨在である!)そのものから言葉が分離してしまい、表現されたものは、その臨在の場の外に置かれてしまうということなのです。
読者がその説明された文章を読まされた時、それは私が第一義に語りたいことから外れたものとならざるを得ないのです。
もっとも、読者の感性次第によっては、この私の拙い、言葉足らずの文章からその言葉に言い表せないなにがしかのことが伝わる場合もあるかもしれませんが...
かように、言語化され、説明された言葉というものは、他人行儀な、語っている私自身のことは、棚に上げられたもののようにしか感じなくなってしまうのでしょう。
しかしそれは、正しく私自身に臨在していることを言い表しているのですよ!
ですから、言葉概念として説明されたものを伝えることは、私の本意では無いと言わねばなりません。(言葉の信者、お追従者だったらデキアイの宗教、スピで沢山です!)
それとも...ものすごーくこの臨在のバイブレーションみたいなものが冷却してしまう言い方ですが、そうした言葉概念が取り交わされる場では、その私自身の内面に関わることは場違いのものとならざるを得ないのでしょうか?
勿論、感性というもの、感じ方は人それぞれです。私自身の内面に感じていることは、一人一人の内面に感じていることとは違うものでしょう。いや違ってなきゃおかしいでしょ?
でも、私が本当に言いたいことは、説明された言葉を概念として理解することでは無くて、そういうものは放っといてもいいから、あなた自身に直接感じて欲しいということなのです。
だから...いつもそういうことは、あなたにその気があるのなら、“あなた自身に、あなたの神に聞いたらいい!“、という風に言うしかないのかもしれません。
そこであなたが感じたものを通して、我々に言葉を超えた本当の交わりが生まれるかもしれないのです。
思えば、例えば実存というもの、これなどは、先の私がもどかしく感じてしまうものの最たるものと言えるでしょうが、神というものも、これほどデキアイの信仰、思想などで、思い思いに色づけされ、使い古された言葉が氾濫しているものはないですが、“実存的な神“というものもそういうものでしょう。
その他、愛、平安、幸福...ああ、もう安っぽく語って欲しくないものばかりではありませんか!?
ご存知のように、それらはいつも気の利いた言葉によって色づけされ、いまわしき言葉の信仰へと強要されているのです。他に向けて、言いたがる、説き伏せたがる者によって!
いや、私自身がいつそういうものに加担するとも限らないとキテるではないか?
だから、常に意識的に書くこと、書くことに意識を向けてゆくことを意識するよりないではないか(何というややこしさ!)!...
例えば、今こうして、神的な現臨に“ついて“書こうと思っているだけで、その臨在感というものがもたげて来ます。
ところが、そのことを言葉に表して説明しようとすると、その臨在(そう、それは正しく思いを超えた臨在である!)そのものから言葉が分離してしまい、表現されたものは、その臨在の場の外に置かれてしまうということなのです。
読者がその説明された文章を読まされた時、それは私が第一義に語りたいことから外れたものとならざるを得ないのです。
もっとも、読者の感性次第によっては、この私の拙い、言葉足らずの文章からその言葉に言い表せないなにがしかのことが伝わる場合もあるかもしれませんが...
かように、言語化され、説明された言葉というものは、他人行儀な、語っている私自身のことは、棚に上げられたもののようにしか感じなくなってしまうのでしょう。
しかしそれは、正しく私自身に臨在していることを言い表しているのですよ!
ですから、言葉概念として説明されたものを伝えることは、私の本意では無いと言わねばなりません。(言葉の信者、お追従者だったらデキアイの宗教、スピで沢山です!)
それとも...ものすごーくこの臨在のバイブレーションみたいなものが冷却してしまう言い方ですが、そうした言葉概念が取り交わされる場では、その私自身の内面に関わることは場違いのものとならざるを得ないのでしょうか?
勿論、感性というもの、感じ方は人それぞれです。私自身の内面に感じていることは、一人一人の内面に感じていることとは違うものでしょう。いや違ってなきゃおかしいでしょ?
でも、私が本当に言いたいことは、説明された言葉を概念として理解することでは無くて、そういうものは放っといてもいいから、あなた自身に直接感じて欲しいということなのです。
だから...いつもそういうことは、あなたにその気があるのなら、“あなた自身に、あなたの神に聞いたらいい!“、という風に言うしかないのかもしれません。
そこであなたが感じたものを通して、我々に言葉を超えた本当の交わりが生まれるかもしれないのです。
思えば、例えば実存というもの、これなどは、先の私がもどかしく感じてしまうものの最たるものと言えるでしょうが、神というものも、これほどデキアイの信仰、思想などで、思い思いに色づけされ、使い古された言葉が氾濫しているものはないですが、“実存的な神“というものもそういうものでしょう。
その他、愛、平安、幸福...ああ、もう安っぽく語って欲しくないものばかりではありませんか!?
ご存知のように、それらはいつも気の利いた言葉によって色づけされ、いまわしき言葉の信仰へと強要されているのです。他に向けて、言いたがる、説き伏せたがる者によって!
いや、私自身がいつそういうものに加担するとも限らないとキテるではないか?
だから、常に意識的に書くこと、書くことに意識を向けてゆくことを意識するよりないではないか(何というややこしさ!)!...