宗教や哲学、スピリチュアル、精神世界...私はこれらを総じて精神的な道と言ったりしています。
しかし、ただ観念に浮いた言葉だけが上滑りしているような言説や、“私が信従している教祖はこう言っている、教典にはこう書かれている“、と主体性も無く、“お追従“を繰り返しているだけのものなどに精神性というものは何も伝わって来ません。私なんかはもう、そうしたものには生理的に受け付けない感じになっています。
そこには中身が、血と肉となるものが感じられないのです。この意味でそれらは、身体性から切り離されている、と言ってもいいでしょう。
切り離されている、通っていない...身体性と言い表しているものは、そのように生命が通ったものということなのです。
この精神の命となる、その立つ地盤、通る通路とは何か? 哲学的な“考え方“では、主体的に考えることと言ったりするのかもしれませんが、これはですから既に浮いた状態に陥りやすい、又陥った状態ともなるものでしょう。(哲学は、特に近代哲学は、コ難しい論理の追求ばかりに終始しているようですが、何が構築されて、何が解体されるのか分かりませんが、私にはどこにも立脚しない、通過しない哲学など、ヒマ人の知的遊戯のようにしか思えません!)
このもの無しには、精神性は生きたものにならない...いつもそれを前提として考えられ、具体的に感じているにも関わらず、それを言い表す言葉が無いとキテるではありませんか!
はっきり言えることは、それは思考を超えた、あるいはその根源にある、意識の領域に関わるものだということです。
しかしながら、これまで精神は、思考、考えることと同一化されて理解されていたのではないか?...言い換えると、如何に意識というもの、意識的になることに意識が向けられて来なかった(ややこしい!)、ということを物語っているということでしょう。
意識的になることは、霊性が開かれること(これが即ち思考が超えられること)につながります。(この霊性、霊の事態も意識的なものから切り離されると、“心霊的“なものに浮いてしまうという始末!)
このように思考だけの精神には、精神性は見い出されるべくもありません。この点、容易く思考と同一化されやすい日本語よりも、英語(ラテン語とか他の西欧の言語もおそらくそうでしょう?)の“SPIRIT“の方が、精神、霊の両義を伝えるものとして、本来性に根ざしたものと言えるでしょう。
要するに、宗教や哲学やスピがある、というよりもスピリチュアルでない、宗教、哲学、そのスピなんちゃらも無いのですよ!
ご存知のように、宗教には宗教的独善に伴う、宗教対立という問題があります。又哲学は先のように観念に上滑りし、スピの道も浮遊霊のように浮いたものになります。
精神は、固まるか、浮くかしてしまうらしい...そこに精神性など何も感じられない!
つまり身体性、霊性と切り離された精神性というものは無いのでしょう。
精神的な道とは、真の精神性を明らかにする道でなくて何でありましょうか?!...
しかし、ただ観念に浮いた言葉だけが上滑りしているような言説や、“私が信従している教祖はこう言っている、教典にはこう書かれている“、と主体性も無く、“お追従“を繰り返しているだけのものなどに精神性というものは何も伝わって来ません。私なんかはもう、そうしたものには生理的に受け付けない感じになっています。
そこには中身が、血と肉となるものが感じられないのです。この意味でそれらは、身体性から切り離されている、と言ってもいいでしょう。
切り離されている、通っていない...身体性と言い表しているものは、そのように生命が通ったものということなのです。
この精神の命となる、その立つ地盤、通る通路とは何か? 哲学的な“考え方“では、主体的に考えることと言ったりするのかもしれませんが、これはですから既に浮いた状態に陥りやすい、又陥った状態ともなるものでしょう。(哲学は、特に近代哲学は、コ難しい論理の追求ばかりに終始しているようですが、何が構築されて、何が解体されるのか分かりませんが、私にはどこにも立脚しない、通過しない哲学など、ヒマ人の知的遊戯のようにしか思えません!)
このもの無しには、精神性は生きたものにならない...いつもそれを前提として考えられ、具体的に感じているにも関わらず、それを言い表す言葉が無いとキテるではありませんか!
はっきり言えることは、それは思考を超えた、あるいはその根源にある、意識の領域に関わるものだということです。
しかしながら、これまで精神は、思考、考えることと同一化されて理解されていたのではないか?...言い換えると、如何に意識というもの、意識的になることに意識が向けられて来なかった(ややこしい!)、ということを物語っているということでしょう。
意識的になることは、霊性が開かれること(これが即ち思考が超えられること)につながります。(この霊性、霊の事態も意識的なものから切り離されると、“心霊的“なものに浮いてしまうという始末!)
このように思考だけの精神には、精神性は見い出されるべくもありません。この点、容易く思考と同一化されやすい日本語よりも、英語(ラテン語とか他の西欧の言語もおそらくそうでしょう?)の“SPIRIT“の方が、精神、霊の両義を伝えるものとして、本来性に根ざしたものと言えるでしょう。
要するに、宗教や哲学やスピがある、というよりもスピリチュアルでない、宗教、哲学、そのスピなんちゃらも無いのですよ!
ご存知のように、宗教には宗教的独善に伴う、宗教対立という問題があります。又哲学は先のように観念に上滑りし、スピの道も浮遊霊のように浮いたものになります。
精神は、固まるか、浮くかしてしまうらしい...そこに精神性など何も感じられない!
つまり身体性、霊性と切り離された精神性というものは無いのでしょう。
精神的な道とは、真の精神性を明らかにする道でなくて何でありましょうか?!...