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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

本当に言いたいことは語ることが出来ない

2025-07-20 03:24:26 | 哲学・思想
私がこうして書いていて、いつももどかしく感じていることは、“本当に言いたいことは語ることがが出来ない“ということです。
例えば、今こうして、神的な現臨に“ついて“書こうと思っているだけで、その臨在感というものがもたげて来ます。
ところが、そのことを言葉に表して説明しようとすると、その臨在(そう、それは正しく思いを超えた臨在である!)そのものから言葉が分離してしまい、表現されたものは、その臨在の場の外に置かれてしまうということなのです。
読者がその説明された文章を読まされた時、それは私が第一義に語りたいことから外れたものとならざるを得ないのです。
もっとも、読者の感性次第によっては、この私の拙い、言葉足らずの文章からその言葉に言い表せないなにがしかのことが伝わる場合もあるかもしれませんが...
かように、言語化され、説明された言葉というものは、他人行儀な、語っている私自身のことは、棚に上げられたもののようにしか感じなくなってしまうのでしょう。
しかしそれは、正しく私自身に臨在していることを言い表しているのですよ!
ですから、言葉概念として説明されたものを伝えることは、私の本意では無いと言わねばなりません。(言葉の信者、お追従者だったらデキアイの宗教、スピで沢山です!)
それとも...ものすごーくこの臨在のバイブレーションみたいなものが冷却してしまう言い方ですが、そうした言葉概念が取り交わされる場では、その私自身の内面に関わることは場違いのものとならざるを得ないのでしょうか?
勿論、感性というもの、感じ方は人それぞれです。私自身の内面に感じていることは、一人一人の内面に感じていることとは違うものでしょう。いや違ってなきゃおかしいでしょ?
でも、私が本当に言いたいことは、説明された言葉を概念として理解することでは無くて、そういうものは放っといてもいいから、あなた自身に直接感じて欲しいということなのです。
だから...いつもそういうことは、あなたにその気があるのなら、“あなた自身に、あなたの神に聞いたらいい!“、という風に言うしかないのかもしれません。
そこであなたが感じたものを通して、我々に言葉を超えた本当の交わりが生まれるかもしれないのです。
思えば、例えば実存というもの、これなどは、先の私がもどかしく感じてしまうものの最たるものと言えるでしょうが、神というものも、これほどデキアイの信仰、思想などで、思い思いに色づけされ、使い古された言葉が氾濫しているものはないですが、“実存的な神“というものもそういうものでしょう。
その他、愛、平安、幸福...ああ、もう安っぽく語って欲しくないものばかりではありませんか!?
ご存知のように、それらはいつも気の利いた言葉によって色づけされ、いまわしき言葉の信仰へと強要されているのです。他に向けて、言いたがる、説き伏せたがる者によって!
いや、私自身がいつそういうものに加担するとも限らないとキテるではないか?
だから、常に意識的に書くこと、書くことに意識を向けてゆくことを意識するよりないではないか(何というややこしさ!)!...
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人間とそれを超えたもの

2025-06-22 05:21:58 | 哲学・思想
世に無神論、唯物論というものがあります。
いつも言うように神という実体、呼び名に囚われる必要はありませんが、人間存在は、人間を超えたものを抜きにして立ち行くことが出来るでしょうか?
あるいは、人間は自分でこうだ、と思っている通りのもので、それを超えたものではないと決めつけられるものでしょうか?
又、原始の仏教、ブッダは神とか守護霊といった、霊的存在のことは説かなかったと言われます。しかし、仏教にはその元から修行というものが付きものです。禅などはそれを踏襲していますね。
一体、何のためにそんなことしているのでしょうか?
一定時間、ただ座り続けていたら、煩悩とか諸々の想念から離れられるとか説かれたりしますが、その自分の思いを超えたものが無ければ、どうともなりゃしませんよ。
神という形而上の実体は信じられてはいないが、法力、妙智力というかそういう超越的ハタラキは信じられているのです。
そもそもブッダが説いたという、縁起の法とか深遠な教えなどがどっから、どうやって出てきたりするのでしょうか?
そうした通念とかでなくて、このことは自分自身に即して考え、感じてみたらいいのです。
煩悩、悩ましい思いがもたげてくるや、それが絶えず苛み続け、そのままでは心身共に衰弱するか、発狂してしまうのではないでしょうか?
“そんなの、考えなければいい!“、などと平然と言っているのは、そういう思いのがんじがらめの苦しみを味わったこと無い人間の言い分に過ぎません。こういう思いというのは、普通の思いを超えたものなんですよ。ん?...
そう!...人間存在は、それを超えたものが無ければ、あれこれと考えること自体出来ないものなのでしょう?
もう、本来から今の自分を超えようと思っているから、精神の発達とか進歩(と、考えられている)といった概念が出て来るのではありませんか?(本当に精神が発達するとか進歩するかは別問題として)
人間存在は、それを超えたものと切り離されないものであり、又それを超え出てしまうものであることは、人間の精神がそれを物語っていると言えるでしょう。(精神は、それを閉ざすものでも開くものでもある)
いや、そんな他人事では無いのでした。私が生来からの思いのがんじがらめ地獄に悩まされていた時、そのままが続くということは無いということは、何度も知らされていたのです。
それは自分で考えるのを止めた訳では更々無い!...自分の思いを超えたハタラキに与っていたのです。
そうして、思いの密室空間に風穴が開き、そこから新鮮な心地よい風が吹き込んだことを今でも身に覚えています。
知らず知らずに私は、思いを超えたものにより、自分を超え出てしまうことを知らされていたのです。だから、そのもの無しに私はこうして生きていることは出来ない、ということは決して誇張ではありません。それは私にとり救いの神と言ってもいいのです。
私は、自分を超えたものと共にあり、又超え出る場所がある!...肉体が私、精神が...とか考えられた私でなく、“私は在る“という自己意識は、何よりもそういう思念を超えている!...元より私はそのもの無しに、ここに在ることはあり得ないのです。
人間は、神と言わずとも、人間を超えたもの無しには存在出来ないのでしょう!...


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天上天下唯我独尊

2025-06-14 03:08:07 | 哲学・思想
よく知られた仏説にブッダは、生まれ出た時に「天上天下唯我独尊」なんて言葉を発した、と言われています。
私はどうせ、ブッダ入滅後、如何にブッダが神の如く偉大で、優れた人間であったかということを盛るために作り出された話なんだろう、とさして気にもとめて来ませんでした。
その意味も、“このすべての世界で自分は唯一無二なんであり、自分ほど尊い者は居ない“、な~んて普通にそう読めるようなことだと...(いや、そこは天上天下珍説無類?の原始仏教に関する言い伝えのこととて、何か裏に隠された理があるのでは?、と感じながらも)思っていたのでした。
当然というか、多分赤ちゃんブッダは、そんなことは言わなかっただろうと思いますよ。
しかし、その言葉に隠れているものとおぼしき、ある意味のことは思って...いや思考が発達していなかっただろうから...感じていたのではないか?、と思うのです。
これは、生まれ出て間もない時だった、というのがミソなのでしょう。
いや、これはブッダだけのことではなかったはずです。逆に言えばあなたも私もブッダに等しいのではないか?!!
生まれ赤子は、自分が何もので、この世界がどういうもので、何故自分がここに居るのかは分かりません。...て、ハッキリしたことは、私にはその時の記憶が無いんですが...
そこは想像するしかありませんが、分からないなりに、それが赤子が自分がここに生きていると感じている世界のすべてなのです。それが部屋の中だろうと宇宙だろうと、それがどういうものか分別が付かないのだから、天上天下それっきゃありません。分離がなくそういう広がりの中に居る。
いや、そういう言い方も不正確で、その世界と自分は切り離されているように感じていないのではないか?
そして又、分からないなりに、自分がここに在る、ということは感じているのではないでしょうか?
そこで猫と一緒に寝てたら、猫と自分は切り離れているように感じているだろうか?
そして、その猫が母親代わりのようなことをしていると仮定して、〈ねことにんげんのははおや〉と区別が付くでしょうか?
その〈すべてのせかい〉には、言わば未分化の〈すべてのわたし〉しかいないのです。
自分が男か女か、悪いか正しいか、大人か赤子かもないのです。ただここに在るだけ...
赤ちゃんブッダは、どう、感じているだろうか?
いいや、自分に即してみても...ただそこには〈わたし〉しかいないのではないか?
心地はどうだろうか?、安心するだろうか?...記憶は無くたって覚えていますよ!(どういうこと?)
覚えているから、私は今も心地よく、安らかに生きていられるんです。
その自分は、やっぱり尊い!...自分とつながっているものは皆尊い!...

ん、これ、今まで先入観で感じてたことと真逆なようなことではないか?
そして、あらゆる先入観、固定観念、定見といった思いから離れてみれば...ブッダだろうと凡夫だろうと、感じることは同じようになるのではないか?...
どんなに我々は、頭脳知が発達して、分別を身につけてしまったとしても、そういう本来性は失われていないのではないでしょうか?
そういうものを内包した、個的な表れとしての自分は、他に代えられないように尊いものなのではないでしょうか?...



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すべての私の根源

2025-05-30 06:24:42 | 哲学・思想
前回書いた、あらゆる二元性を超えた根源的な“底無し“という概念について、少しく自分自身に即して書いてみたいと思います。
その前に...それは便宜的にそういう概念で言い表しているだけであり、本当は概念で規定など出来ないものであるのは言うまでもありません。
だから、哲学者のベルジャーエフの説いたことも、他の多くのその根本思想がそうであるように、彼の直感から説かれたものてあり、抽象的な哲学説を展開したものでないことを知らねばなりません。
それで...底無しは自由の根源だと言います。私は自身で書いていて感じたのですが、現実にそういう状態になった時には、自由というものは認識出来ないだろうと思うのです。
勿論、何ものかに隷属されることも感じないでしょう。そして、あらゆる苦しみも無い、幸福も安らぎも!...何にも無い!
私は、何度か書いているように、一時的でしたが、実際にそんな精神状態に陥ったことがあります。これをその底無しの状態と同じものかどうかは分かりませんが、同質のものではないかとは思われます。
私は、そこに僅かな自己意識が保たれていたために、どうにかそこから抜け出ることが出来たのです。
これは、思考を超えた領域に導かれるものであるとはいえ、私がいつも言っている“神的な現臨にある“状態とは異なるものであるのは言うまでもありません。
愛、平安、リアリティ...そういうものは一切感じられないのだから!...勿論、それによって自己実存が開かれるということも無いのです。
宗教や霊性の道では、無とか空といったことが説かれますが、この何にも無い状態は、そういうものとも違うでしょう。それは、そうさせる何か無しには言い得ないはずなのです。
真理の探究だ、修行だといって、自由も安らぎも無い世界を一体誰が望むというのでしょうか?
神とかあらゆる二元性を超えた、究極の悟り、完全解脱とは正にそういう境地なのでしょう?...そう、それが神を超えた境地!...いや、そんな境地だとか根拠だとかなど一切成り立たない世界なのですよ!
だから、そういうものは、“上に行きたい、前に進みたい“というエゴ.マインドが思い描いているだけの世界だ、と言うのです。なりたいのなら、勝手に宇宙のチリとなって消えたらいいだろう!
そうでなければ、神界を超えた、実存、真我の世界といったものを勿論、思考マインドで空想し続けるだけでしょう。
これは、一個なる自己は、それだけではどこまでもその思いに支配されてしまうということを物語っているのではないか?
だからだから、自由、平安、リアリティ...自己実存というものは、呼び名はともかく、自己を超えたものの顕現と共に始まるということなのです。
それがすべての私の始まり、根源なのです。
そして、返す返すも、我々の現在の状況は、人間実存が破滅に至るか、その原初から我々のうちに息付いていた、ベルジャーエフが好んでそう言うであろう、神人の真態が明らかにされるかの岐路に立たされていると言えるでしょう!...

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神性と底無し

2025-05-28 05:42:06 | 哲学・思想
いつも言うように、私は神について、それを信仰対象として、実体あるものとして言い表すことはほとんどないのです。
神を存在論として言い表すことは出来ない。ということは、取りも直さず神は知的概念として理解することは出来ないということです。
これに関して、中世ドイツの神秘思想家、マイスター.エックハルトは、神の存在証明に躍起になっていた当時の神学、哲学の風潮に対して、“考えられた神は神ではない!“、と“神性“という、ちょっと意味を捉えにくい、ボカしたような表現を用い始めました。
神性は(思われた)神を超えている!...これこそは、自己と神との二元性を超えた、実存的な神の道の開示であったのです。実に神性にあって、“私は神と一つである“と言うことが出来るのです。
時代は下って、同じくドイツの近世に至ると、ヤコブ.ベーメという、これ又特異な神秘思想家が現れ、“底無し、無底“という先のエックハルトの“神性“という神の無限定な性質に加え、さらに無根拠、底知れなさといったものを感じさせる言葉を基調に、そのカレイドスコープのようなめくるめく神秘思想を展開しました。
エックハルトの神性とベーメの無底に影響関係があったのかどうかは分かりませんが、ベーメによれば、無底は、本来神の属性に無い、人間の自由意志、それに伴う悪というものの根源であると言う。ということは、人間は神を超えているということになるのでしょうか?
それでも私はこの無底には、幾分か“神性“から受け継がれた(?)ような、ベーメが“無底の自由のハタラキ“と呼んでいるものの中に、神性、神的ハタラキも垣間見れるのを感じます。無底の底に神が見える...
さらに20世紀に至り、そのベーメに影響を受けたロシアの哲学者ニコライ.ベルジャーエフは、その無底説をさらに、彼が“深淵“とも呼んでいる、神的な顕現にも先立つ、一切の根拠というものの無い、全き底無しの闇のようなものとして言い表しました。
エックハルトや東洋のものも含めて他の多くの神秘思想では、神のハタラキ、神性にあって人間精神は無に導かれると説かれるものですが、ベルジャーエフの説く“底無し“は、そうした神の属性を全く超えて、言葉どおりの“底の無い無“ということらしいのです。
人間の自由意志、悪はそこに根源があり、神はその外にあって関与しないという。これは、“何故この世に悪、不調和な状態が続くのか?、全能なる神は何故それに関与しないのか?“、というよく出される神についての疑問に対する一応の答えともなり得るものでしょう。
つまりは、人間は神をも超えるのか?...ってことには勿論ならないでしょう?
それは、人間に許される自由、悪は神の外にある、という意味で超えているのであり、“上に上りたい、前に進みたい“という思いに憑かれた人間が思い描くであろうように、決して神の上に超えることを意味しないからです。
いや、神から切り離された人間は破滅するしかないのではないか?
何故ならば、“底の無い無“には、何も根拠を置くことが出来ないから!...存在論的にはともかく、人間はそれ自体には根拠を持てず、人間実存は、それ自体を超えた神的なものにあってもたらされるのではないか?...これは前記の三人始め、多くの思想家も等しく説いていることです。
かくして、神を持たない多くの人間は、上昇したい、進歩したいという病魔に憑かれて、実存を失ってしまっているのではないか?
それでも、人間は奈落に落ちて、破滅するに至らないのは、バーチャルな思念世界で神を否定し続けているからでしょう。それはある意味で救いであり、又救われない理由でもあるでしょう。
神は現実に我々のうちに現臨して来ず、実存を開示することが無いからです。
しかし私は、このリアルな世界を覆う思念世界は、徐々に破られつつあるのを感じてなりません。
この現実世界は、人間存在の破滅の様相をいよいよ強め、一方では神的な霊なるもののハタラキも益々顕わになって来るその様相を写し出しているのではないでしょうか?!...
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