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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

真の精神性

2025-04-25 06:48:57 | 哲学・思想
宗教や哲学、スピリチュアル、精神世界...私はこれらを総じて精神的な道と言ったりしています。
しかし、ただ観念に浮いた言葉だけが上滑りしているような言説や、“私が信従している教祖はこう言っている、教典にはこう書かれている“、と主体性も無く、“お追従“を繰り返しているだけのものなどに精神性というものは何も伝わって来ません。私なんかはもう、そうしたものには生理的に受け付けない感じになっています。
そこには中身が、血と肉となるものが感じられないのです。この意味でそれらは、身体性から切り離されている、と言ってもいいでしょう。
切り離されている、通っていない...身体性と言い表しているものは、そのように生命が通ったものということなのです。
この精神の命となる、その立つ地盤、通る通路とは何か? 哲学的な“考え方“では、主体的に考えることと言ったりするのかもしれませんが、これはですから既に浮いた状態に陥りやすい、又陥った状態ともなるものでしょう。(哲学は、特に近代哲学は、コ難しい論理の追求ばかりに終始しているようですが、何が構築されて、何が解体されるのか分かりませんが、私にはどこにも立脚しない、通過しない哲学など、ヒマ人の知的遊戯のようにしか思えません!)
このもの無しには、精神性は生きたものにならない...いつもそれを前提として考えられ、具体的に感じているにも関わらず、それを言い表す言葉が無いとキテるではありませんか!
はっきり言えることは、それは思考を超えた、あるいはその根源にある、意識の領域に関わるものだということです。
しかしながら、これまで精神は、思考、考えることと同一化されて理解されていたのではないか?...言い換えると、如何に意識というもの、意識的になることに意識が向けられて来なかった(ややこしい!)、ということを物語っているということでしょう。
意識的になることは、霊性が開かれること(これが即ち思考が超えられること)につながります。(この霊性、霊の事態も意識的なものから切り離されると、“心霊的“なものに浮いてしまうという始末!)
このように思考だけの精神には、精神性は見い出されるべくもありません。この点、容易く思考と同一化されやすい日本語よりも、英語(ラテン語とか他の西欧の言語もおそらくそうでしょう?)の“SPIRIT“の方が、精神、霊の両義を伝えるものとして、本来性に根ざしたものと言えるでしょう。
要するに、宗教や哲学やスピがある、というよりもスピリチュアルでない、宗教、哲学、そのスピなんちゃらも無いのですよ!
ご存知のように、宗教には宗教的独善に伴う、宗教対立という問題があります。又哲学は先のように観念に上滑りし、スピの道も浮遊霊のように浮いたものになります。
精神は、固まるか、浮くかしてしまうらしい...そこに精神性など何も感じられない!
つまり身体性、霊性と切り離された精神性というものは無いのでしょう。
精神的な道とは、真の精神性を明らかにする道でなくて何でありましょうか?!...




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物質、精神、霊性

2025-04-23 06:19:56 | 哲学・思想
私は以前には、人間というものは肉体があって、精神があって...又宗教や精神的な道に関心を持つようになってからは、その奥に霊体のようなものがある、と普通に考えていました。(というより、そう誰かが説いていたことを真に受けていただけなんですが...)
そして、いわゆる物質主義、唯物論というものは、物質、肉体しか認めようとしない、それでは精神性、霊性に開かれることがないから、そっちに心を向ける必要があるのだ、とこれ又普通に考えていたのです。
しかし、よく考えてみたら、その物質主義、唯物論というものは、そのように“考えられている“思想的なものだ、ということが分かるのです。当たり前の話、それは精神の産物なのですよ。
ということは、唯物論というものがあれば、唯心論というものがある、精神主義というものもあるだろう...観念論とか。つまり考えられた思想的なものだったら、説かれることは違っても、出所は同じということなのですよ。
私の今の感覚では、唯心論、精神主義的な考え方というものは、唯物論よりもリアリティというものを感じません。観念論というか、観念に浮いたものには何にもそういうものは感じないのです。そう考えられ、言っているだけのものではないか?、と。
一方、唯物的な考え方というものは、普通の人間は見えるものしか、そこに“在るもの“を認識出来ないものだから、一理はあるように思えるのです。“霊とか神とか分からないものは持ち出すな、“っていうご意見もしごくもっともだとさえ思えます。
思想、観念に浮いたものは、全くどうともならないと感じてしまうのです。
しかし、私は宗教、精神的な道というのは、霊性に開かれることが重要であるのを疑い得ません。
これが先の物質、精神という捉え方の延長のように、霊性主義のような思想的なものに過ぎないものだったら、もう欺瞞にしか感じません。
物質、肉体があり、その奥に霊体があるという捉え方は、心霊主義と言われるものでしょう。(それを否定してる訳ではありませんよ!)
考えられた、主義化された霊性なんていうものは話になりません。それは(何度も言う)思いを超えたところに開かれるものなのだから!
それは、物質のように“モノがあるように“は感じられません。
しかし、この私そのもの、肉体として在る、考えている私も含めた私が、“ここに在る“ことを意識するならば、そうした限定された感覚は超えられてしまうのではないでしょうか?
そこには、肉体、精神というものに分割出来ない、丸ごとの私が感じれて来ないでしょうか?
そこに思われた私は超えられている!...霊性に開かれるということはこのことを言っているに他ならないのです。 そして、そこに霊なるもの、神的なものと仮に言い表すものは、それを開顕させるもの自体でもあるのです。
これは、観念に浮いたことでなく、実に具体的な感覚を伴うことを言っているのです。ある意味では身体的と言ってもいいかもしれません。
しかし、それは肉体に限定されることの無い、超越的なものと一つの実存感覚を内包したものです。
無限定である故に、私には霊体と言われるような“体“的なものは感じられませんが、具体的なものではあります。言葉に言い表せないものですが、強いて、便宜的に言えば、それは“統合体“のようなものでしょうか?
おおっと、あまり考えてはならないのでした。
意識するのです。感じるのです。そうさせるものを!...



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免疫と真我

2025-04-20 06:05:22 | 哲学・思想
五木寛之先生の「自分という奇蹟」(PHP文庫)という本を読んでいて、大変興味深いことを知りました。
それは、免疫の働きに関するものです。
私はどうも科学の方には疎いので知らなかったのですが、医学博士の多田富雄先生の平成五年に出された「免疫の意味論」という著書はかなり評判になったそうですね。
それによると、免疫の機能は、外から入って来る病原菌や有害物質などの生体に本来備わっている機能に適応しない異分子を排除するものである...とここまでは分かるのですが、そのためにその本来の自己と非自己の区別を認知、判断するというのです。
ということは、私たち、哲学や宗教、スピ的に“考える“人間は、本来の自己、真我とはこういうものであり、その表れを妨げるのは自我で、それはこういうものだ、と判断している訳ですが、それはすでに生体機能として認知、判断されている、ということらしいのです。
生体、身体的な働きを、単純に精神的な働きに結びつけることは出来ないでしょうが、そこには何らかの関連があるように思われます。
ともかく、思考によるそうした判断は皮相的なものだということは分かるのです。(私はその根本には意識の働きがある、と何度も言っておりますが、そのこととどう関係しているかどうかは分かりません)
何が真、本当のもので、何が偽り、幻想のようなものだとは、考える自分が躍起になるものですが、それは本来的なものかどうかは、身体が知っているということなのでしょう。
そして、この免疫の機能を司る大事な器官のひとつが、心臓の裏側にある“胸腺“らしいのです。
つまりハートの辺りということ...先のように身体器官と真我の認識は、直ぐに結びつかないものだし、ラマナ.マハルシも特定の身体の部位に限定出来ないものとしていましたが、私なんかは、どうも(具体的に胸腺に限定は出来ないにしても)その辺りに本来の自己的なものが顕わになったり、収斂されてゆく感じはあるのです。
何が真我、本当の自分かと考えるまでもなく...
五木先生は、この問題を“脳死“と関連づけて、問題提起をされているのです。
脳死は、死亡の判定になり得るものではないのではないか、と。
これはひいては、あまり明らかにされていない意識の領域のことも含め、自己の本来性とは何か、という問題につながるのではないでしょうか?
これまで、あまりにも自己存在を決定づけるものとして、頭脳偏重に傾きすぎていたのではないか? 頭で分かったらしいことよりも、身体的にも精神的にも、それを超えた働きがあるのではないか?
本来の自己とは何か?...とあまり思考を巡らせるまでもなく、胸に手を当ててみれば、何か安らぎと共に感じられて来るのではないでしょうか?...


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それでも太陽は東から上る?

2025-03-24 04:50:29 | 哲学・思想
先月初め、ここで「ホントの真理?」という記事で、“地動説という科学的真理は知ってるけど、私は地球が太陽の周りを回っていると感じたことは一度も無い!“、というようなことを書いたのでした。
そこで、そういう真理を知ることと、実際に感じていることは別のことだ、ということを言ったのです。
“万有引力の法則“でも、ガラスのコップが落ちて割れてしまったことを、いちいち引力でそうなったと思う人は普通は居ないでしょう?
それを、“それは錯覚なんですよ!、真実はね...“、な~んて“科学万能の法則“みたいなことをしたり顔で言われても、現実にそう感じちゃってんだからしょうがないですよ。それを無視してそれだけで通してしまうことは、別の観(感)点で錯覚というか、顚倒した在り方と言わねばならないでしょう。
頭では誰しもそういう真理のことは分かっているのですよ。それを否定するということではありません。
それを疑う人はあまり居ないでしょうけど、頭で分かって、頭で疑うことは出来ます。要するにそのように考えられていることなのです。
考えられていることは、ヘンな人なら否定したり、ネジ曲げることは出来ますが、現実に感じていることは誤魔化しようがありません。(だからこっちが真実だ、ということには勿論ならないですが...)
“現実に感じていることは誤魔化しようが無い!“...これは思考を超えた次元では絶対的なことと言ってもいいでしょう。といっても“絶対的真理“ということでは無いですが...その性質上、頭で知る真理というものは、直感的感性の前には後退せざるを得なくなるのです。
定理なんてものは、感じないので感じ方は人それぞれでしょうが、自己と自己以外の事物、世界との関係として、それは分離したもののように感じない、ということがあります。
私なんかは、世界は自分の周りを回っているように感じたりもするのです。
おそらくは、“ああ、今日も太陽は東から上る“、という感覚は、どっかでこの感覚が反映されているのかも分かりません。
自分が世界の中心なんだ、いや私が世界、宇宙なんだ!...自己中心!、悪いか?
私が“ここに在るから世界は在る、私が無ければ世界など無い!“、とは私が初めて人生の裏側に入り込んだ時、感じたことなのでした。
といっても、それは言うまでもなく、考えている“私だけ“という意味ではありませんよ。本当に、現実にそう感じられますか?
現実に、この生の真っ只中に感じられることは、そのここに在る私は、霊なる太陽みたいなところからのすべてを照らす光によって在らしめられている、それと切り離されては居ないということなのです。これは疑いようがありません。(その太陽のようなものは、東から上って西に沈むようには一度も感じたことは無いですよ。見えないし!)
このリアルな現実無しには、世界はリアルなものには映らないのです。
これが考えている私だけでない、裏側を含めたすべての私の真理なのです。というか、真理というものは感性と離れては無いのです。
そう感じちゃうんだからしょうがない!...

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霊止と人間

2025-03-12 05:43:25 | 哲学・思想
人間とは何か?
畢竟、私とは何か?
このことに正面きって答えられる人は、一体何人居るでしょうか?
本当の自分、真我ということが問題になることからも、それは分からないものということなのでしょう。
人間とはその字の如く、何かの間を生きているものなのではないでしょうか?
神と動物の間、見えるものと見えないものの間...
どうも一コの人間だけをポツンと置いただけでは、その真態は見えてこないものらしいです。
生物学的に、個体としての人間存在が分かったとしても、この“私がここに在る“、という実存感覚とはつながらないでしょう。
人間は、その個的存在を超えたものを想定しなければ、その真態は分からないようです。それは先のように、そういう実体として分かるという意味ではありません。
その超えたものは見えないもの...私はそれをいつも仮に神的なものと言っているのですが...
超えるとは存在的な意味ばかりでは無く、ベルジャーエフが常に述べていたように、一コなる精神の上に超えた精神的なもの、超越者たる神的なものが想定されて来るのです。(それは、一コの人間が上へと超越するという意味ではありません。この二つの超越的な事態は切り離しては理解出来ないでしょう)
このように、動的に在らしめられている人間を固定的に、客観的に理解しようとしても理解を“超えて“しまうのは必定なのです。
一コの人間は、それ自体では何かの切れ端のようなもので、一体となるべく存在的にも精神的にも超え出ようと、本来的に駆り立てられて生きざるを得ないように何ものかに仕組まれているようです。
つまり人間は常につながり、統合を求めていると言えるでしょう。いやそれだけでは切れ端からの説明にしかなりません。
何ものかから仕組まれているように感じることは、つながり、統合せしめるものがあるということに他なりません。
それは、その本来的統合態へと回帰されるということのようにも感じられます。
しかし、切れ端のような一コの人間からは、統合、調和へとつながることは不可能でしょう。それは、自体が統合、調和であるような超越者からの霊なるハタラキからもたらされるものでしょう。
霊なるハタラキが一コの人間に留まる、止まる...古来、ヒトは霊止(ひと)と読み、意味していた通りです。
それが何故か、ヒトという言葉は、生物学的人間の説明として用いられているとは!
ヒトは、本来の霊止の在り方に帰らなければならないのです。
人間の動的状態は、神、霊なるものにつながることにより平安の内に止まるようになるのでしょう。






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