人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

迷いから目覚める

2020-06-30 12:03:18 | スピリチュアル?
"あれっi、おかしいなi...消えたぞi"
Tという、狂信的なまでに五井先生を信奉していて、それでいて近頃は「宇宙全史」にハマるなど、脱線し続けている御仁のブログで、数日前、"宇宙全史の理論を極めたら覚醒出来る..."などとタワケたこと書いていた記事が消えてしまったのですi
そこで私は、"理論を極めて覚醒しようとしたら、覚醒する前に多分発狂するだろう..."と、ツッこみを入れる記事を書こうと思っていたのですが、以前にもあったように、どうもこの御仁、自分の都合が悪くなると削除するらしいです。
余程、自分がマイナスになることを認めたくないのでしょうね。
このことの背景には、どういう気付きがあったのか分かりませんが、宇宙全史とのリンクをやめることを決心した、ということがあるらしいです。
私には3年ぐらい前、リンクし始めた時から、彼がずっと迷い続けていることが見てとれました。
というのも自分は、盲信するくらいハマっているくせに、読者には"宇宙全史の内容については、各自自己責任でお願いしますi"、などと折に触れて書いていたからです。(ついでに言うと、この場合、"自己責任"というより、"自己判断"と言った方が適切でしょう。"クンダリーニ.ヨガ"とか"死人禅"などの危険な行を推奨していた訳じゃないんだから...)
もうそこに思いが分裂し、迷っている様が伺えるのです。
ともあれ、Tさんが自分の迷いに気付き始めた、ということは当人にとっても、周囲の人にとっても大きいことでしょう。
それでも、あえて私は、ムチを打つようなことを言いたい!
自分が迷っていることを他に知られることはそんなにイヤなんでしょうか? そんなに自分はいつも正しく、進んだ人間に思われたいのでしょうか?
私には"ああ、大変、すぐに取り繕わないと!..."と、あたふたしている顔が思い浮かびます。だから、ずっと迷い続けているようにしか映らないのですi
私なんかは、魂の進化から永久に取り残されちゃったのか、性格が破綻したように感情を取り乱して、モノをほうり投げてガラスを割っちまったこととか書いているぞi
私は何も自分の欠点、マイナス面を何でもさらけ出さなければならない、とか、反省しろi、自分の間違いを改めろi、とか言いたいんじゃありません。
この人のように何十年も信仰、修行をし続けていたら分かるでしょう。自分で心を入れ替えるとか、思考をクリアしようにも、ままならないということが...分からないから"理論を極めたら、覚醒出来る"とか世迷いごとが思い着くのでしょう。
業生の自分、思われた自分が悟るとか、覚醒出来る、と思うことが迷いの最たるものでしょう。
観方を変えれば...自分の迷いに気付かされること...これがある面での目覚めには違いありません。
それは、迷いの淵に光が差し込んだ、ということを物語っているのですから...このことを抜きにして、一体どこに悟りや覚醒があるでしょうか?...まさに"エンライトメント"なことなのですi
お互い、メンツとかプライドってもんも一応はある...だから人の目を誤魔化すってこともある...しかし、自分自身にもそうし続けられるでしょうか?
迷っているのなら迷ったまま、混乱しているのなら混乱しているまま...それでもなおもあの光の前に自分を取り繕うのでしょうか?...だったら、そうなっている自分、ありのままの自分を受け入れるしかない...自分を投げ出し、光を受けるということはそういうことでしょう。
もし、そうして光に与るようなことに出くわし、そのことをありのままに他に伝えることが出来たなら、どれだけ自他が救われる道に貢献するか分かりません。

ところで、何で私は所詮他人のことにこうして、余計なお世話にも首を突っ込んでいるのかと言うと、この御仁とは五井先生がらみで腐れ縁のような因縁があるからのようなのです。
ある集会で、私に意見を求められた時、何をテキトーに言ったか忘れましたが、彼はすごく共感したのか、せっせと何やら一生懸命メモってた光景が目に浮かびます。
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私自身の真実

2020-06-28 09:19:28 | 哲学・思想
「精神とは、実存的な主体の中に顕れ、実存的な主体の力によって顕現する現実である」
(ベルジャーエフ)

"シャカは霊界の何番目のレベル..."だとか、誰某はシャカの生まれ変わり..."だとか...もう、こんな言い回しのスピなどアタシャ、全く受け付けなくなりました。
もっとも、そういう話をマトモに信じ込んだことなど一度もなく、何かのついでに読んだり、聞いたりしたことはけっこうありましたが、今は一寸生理的にムリです。
そんなところにスピリチュアリティなど全く感じられません。これはリアリティと言い換えてもいいくらいなのですが...
こういうことをさも真実であるかのように語る...これほどウソっぽいものはありません。
それでしたら、ある種の幻想文学(最近読んだものでは、フランス幻想文学の祖と言われる「シャルル.ノディエ」とか、「久生十蘭」のいずれも短編)の方にリアリティを感じさせられることしばしばです。
それらは、現実に即した筆致というのが一つのミソではあると思いますが、その現実にありそうで、無いようなことに出くわす主人公に感情移入することで、こちらの内面に隠れて、息づいているものが揺すぶられるためでしょう。
しかし、大概の文学愛好家は、それらのことは、あくまでフィクションなのであり、よもや自分自身が例えば異界(人生の裏側?)に足を踏み入れるようなことになろうとは夢にも思わないものなのですね。
実にあることに"高じてしまう"、"一線を超えてしまう"か否か、ということは、人生の大きな分岐点に立たされることと言っても過言ではないのです。(上記の作家たちは、プロフィールが一寸謎めいていて、どうもただの作家の域を超えたようなところがあります)
こう考えると何がフィクションで、ノンフィクションかが分からなくなり、又躍起になって事実の究明などに固執する意味も分からなくなってきます。
フツーに考えられている、この場合の事実というのは、客観的事実のことですが、それが証明されたからといって、それが即"私自身の事実、真実"につながるとは限りません。
ましてや、スピ的なホントっぽく語られる話など...私自身の真実とちっともつながらないので、全くどうでもよく、ウソっぽいのです。
これに反して、私の内なるものが揺すぶられ、顕わにされる、ということはリアリティを呼び覚まさずにおれません。
スピリチュアルのリアリティは、自己実存と離れては無いi...実に思われた私の内に思いを超えた、実存的な主体者がお在す、ということほど、"私自身の真実"を映し出すものは無いのではないでしょうか?
その真実はその御方自らが物語るでしょう。
その物語はフィクション、ノンフィクションを超えているのです...。
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表裏一体

2020-06-26 12:10:51 | 哲学・思想
初めての方もおられると思うので改めて書きますと、ここで"人生の裏側"と呼んでいるのは、一口ではとても言い表せないものなのですが、"その表側"と言うべき、日常のフツーの意識状態に隠れ、息づいており、その意識の変容に伴って顕わにされる世界のことを言っているのです。
それと、共にこれまで人に知られていなかった、私の謎めいた(?)実生活(これは意識の変容のこととかとは直接関係ありません)のことと引っ掛けて、"神秘のヴェールついに剥がれるi"、ってなノリで嬉々として書いている次第なのです。(けっして裏社会のヤバイ世界のことではありませんi)
この裏側に足を踏み入れると、そりゃもう、表側では求むべくもない、愛、幸福、リアリティ...いや、どんな形容も出来ない、途方もないものに与ることが出来るのですi
だから..."ここに真実があったのですi ... 真実はこれっきゃ無いのですi...思われた表側の世界は幻想であったのですi"...
なんてーことも私は確かに感じ、思ったこともありますよ。だけどねえ...アタシャ、そういうこたあ、一寸言えないですねえ..."裏側のことは何も言えない"、ってのが真実じゃないですかねえ...。
"真実はこれっきゃ無いi"、なんて言い方こそは、表側ならではのものじゃないですか?
真実と幻想とが分けられて、相対的個人がそう言い表わそうとしているのですから...言いたい気持ちは分かりますけども...
相対的な表側に対して、裏側には絶対的なものがある、と一応は言うことも出来ますが、絶対的なものが表に出された途端、相対的なものになってしまうのがオチです。
絶対的なものの幻想...だから、"これっきゃ無い"なんてのは典型的な例でしょう。
一方、実証だの立証だのがモノを言う、表側の真実に照らせば、"何も言えない感じ"のことなどお話にならないでしょう。
そもそも何が真実で、何が幻想か、と思い、感じられるのは、この表側の世界あってのものと言えるでしょう。
愛、平安、リアリティ...そういうものも然りでしょう。
それらを求めようにも、現世ではどこで与れるものかは分からない...しかし、誰もがどっかにそれらが隠れているに違いない、と感じているもの...だから、仮に言い表すにせよ、言葉にすることが出来るのでしょう。
そのように、裏側のことは言葉というものを"依代"にしなければ伝えられないのです。
しかし、ただの形だけの言葉には命など無い...要するに裏側あっての表側、逆も又然り...表裏一体。
悟り系スピなどで、思われた現実、表側の世界は幻想i、と決めつけたがる傾向は、これまでこの世界があまりにも思いを超えた、裏側の世界のことを蔑ろにしていたことに起因しているのでしょう。
つまりどっちかしかない、と偏り、決めつけることが幻想なのではないでしょうか?
しかし、思いを超えた事態が続出し、世界が"コロナっていた"間、世界はより、その表裏一体感を強めて来たように感じています。
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可愛いくて、残酷な生き物

2020-06-25 15:05:30 | 独語
こないだの夜、体長10センチくらいのヤモリが二匹窓に張り付いていた...
夜の忍者さんたち、何か出てくるのいつもより早くないか?
デカっi...成長もいつもより早いんじゃないか?
早っi...エサでも見つけたのか、一匹がサササっと動いたら、二匹目もサササっと...
アッという間に居なくなっちゃった...

昔はヤモリも虫も大キライだったのに...
今じゃ、毎日のように画像や動画を見ている
生き物はみんな可愛いi
イモムシだって、ケムシだって、ヘビだって...
オオムラサキの幼虫なんて、まるでキティちゃんそっくりの顔i
可愛いなあ...
昔は平気で殺生なんてしてたのに...
水攻め、火攻め、花火爆弾...
何で、そんなことをi
僕はきっと悪鬼に取り付かれてたんだ...
そんなに僕の性格変わっちゃったのかなあ...
何だか、可愛さと改俊の念とが入り雑じって胸が締め付けられるよう...

やっi...寝ようと電気消したら、部屋の中でサササっ、と...
ゴキちゃん...蚊、ハエ...君らは一寸ムリだよi
君らは悪い星の下に生まれたと思ってくれi
僕とおんなじなんだろう...

ダダダっi...ネコがエサを見つけたのか、ベランダに飛び乗ったi
ムシはヤモリに食べられ、ヤモリはネコに食べられる...
自然界は残酷だi
しかし、ヤモリはどっかムシみたいに動き、ネコはヤモリみたいに動くのは何故だろう?
食べて、食べられて何かが乗り移るんだろうか?
そうやって見えないところで、命をつなぎ合っているのかもしれない...
人間は何を食べ、何に食べられているのか分からないが...
意味もなく、殺し合っているのは、害虫みたいに血を吸い、不衛生なものに群がり合っているのだろうか?

ああ...悪い星の下に生まれたものだ...

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無為の国に惹かれて

2020-06-23 12:09:43 | 現臨、ハタラキ
何を思う、何をするでもなしに、ポンと身も心もゆだねてみる...
すると...すぐに耳がきんきんして来て、じんじんと何かが始まる...

当たり前のようにいつも書いていますが、当たり前だから驚くべきことなのか、驚くべきことは当たり前じゃないのか、よく分からないですが、いつの間にかこういう風になってしまったのです。
"ひとりでにそうなる"とか、"こっちが為すんでなしに、無為に為される"というようなことは、昔から読んだり、聞いたりして来ました。
しかし、当然のことながら、以前はそれが一体どういうことを言っているのか、体感されることが無いので、よく分からなかったのです。
ただ、分かることはそれはとっても素晴らしく、有難いものに違いないもので、何だか無性に惹かれてやまないものを感じていた、ということです。
老子の言う無為の国に惹かれて...それは何か生まれる以前から抱いているような感覚なのでした。
思い返せば、このことがじっつに大きな意味を持っていた、とハッキリ分かるのですi
体感されることが無い、と書きましたが、こういうこともある面では体感と言えるでしょう。
これは"特殊な体験"ということに囚われていて、意識があまり深く浸透していなかった、ということではあるのですが、もし、そのように感じるものが無かったならば、おそらく"ポン..."となってしまうことも無かったでしょう。
そして、私は"こうやればそういう境地になれる..."と、人為的な方法、修行にはほとんど赴くことが無かったのです。無為的なものに惹かれていたのですから...
無為的とは、私が思ったり、行うことじゃない...そういうこの世の表で、前に出ていた私が引っ込められ、それと共に、裏で隠れていた私の"見えざる御大"が顕わになる、ということです。
"じんじん"してくる、というのをも少し具体的に言えば、こうした退引と顕現が交錯するプロセスに伴う、心身の緊張と弛緩のこれ又交錯した状態の感覚と言えるでしょう(余計分からなくなったかもしれませんが)。
言うまでもないことですが、この一連の在り方は、見えざる御大の主導で行われるのです。
だからこちらが思いを無くして、自分を引っ込めようとか、出来もしないことをしなくても、そのことにポン、と意識を向けているだけでいいのです。
意識が向けられたり、心身をゆだねられる、ということは、向けられる、ゆだねられる何かを対象にして念じたりして、人為的にハタラキかけなくとも、その御大がすでにここに来ている、ここにあるからこそ可能なのです。
無為的なハタラキというのは、けっして雲を掴むような、捉えどころの無いものじゃありません。
そういうものに捉えられることほど、具体的で、リアルにハッキリ分かることは無いのです。
もし、そこにあなたが無性に惹かれてやまないものを感じたのなら、そのことがハッキリ分かることでしょう...。
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