神とは人の思いを超えたもの...
何度ここで言ってきたか分かりません。
しかし、私の求道の初期の頃は、学生だったこともあってか、神、真理を知識的に分かろうとする傾向が強かったのです。
物質界の上に霊界があり、その又上に神界があり...とかこの神は、そのどの階級に居るのか、とか下っ端の神じゃなく、宇宙の最高神を信じなきゃならない、とか本に書いてあること、人が言っていることを鵜呑みにして、そりゃもう、ホントに畏れ多いことばかり頭に思い描いていたのです。
頭で分かったつもりなだけで、何一つ全身が頷けるようなものには与ってなどいなかったのです。
そして又、そこには興味本位の浮ついた思いもありました。しかし、心の奥では、“僕にはある重要なものが欠けているんじゃないか?、これでいいのだろうか?”、という思いも去来していたようなのでしたが...
そんな折、昭和53年暮れ、知人が今世を賑わしている、統一教会にハマってしまい、私には当時からその団体はヤバいことは既に認識されていて、そこから離れさせようとして、返って私もそのヤバい目に会うという事態になってしまったのです。
確かその知人が“そこには、本当の神、真理がある!“、とか言うので、“そんなものある訳無いだろ!”と言い返すと、“そんなことは行って、自分の目で見なければ分からないじゃないか!”、という挑発に乗って、迂闊にも近づいてしまったのです。
私には入信の意志など無いにも拘わらず、一度その教会に行って話を聞いただけでも彼らには、“信者として食いついて来た”、と見なされるのです。
それから、毎日のように電話はかかって来る、自宅まで押しかけて来る、何やら尾行されている疑いもある...と、その恐怖に怯える日々がしばらく続いたのです。
”ああ、僕の上っ調子のせいでこんなことに...“
そして、年明け早々、その恐怖の思いに居たたまれなくなり、必死になって祈っていたら...
これが何度も書いている、私が初めて思いを超えたもの~現臨に出くわした最初の契機だったのです。
そこで、神を知識だけで分かったつもりになること、興味本位な浮ついた思いで神に近づくことの愚かさを身を持って知らされたのです。
言うなれば、神に対して敬虔であることを自然に学ばされたのです。
それは、敬虔でなければならない、と外から強制される倫理道徳のことじゃありません。
人の思いを超えたものにあって、意識は自ずとそうならざるを得ないということです。
それは、神は益々自己を超えて、超越的なものとなることなのでしょうか?
頭脳智のみからすればそうでしょう。しかし、それを超えた世界が開かれ、そこで自己と切り離されないようにも、一体のものとなられるのです。いや、その実存感覚というもの自体、超越感覚と共に開かれると言ってもいいのです。
敬虔であることと、実存的であることは一つのことなのです。
神が何であるのかは未だに私には分かりません。それは本当の自分というものについても言えるでしょう。
知る必要がありません。分かっているのは、それにある時、愛、平安、リアリティに与るということです。
それを抜きにして、一体何を知る必要があるでしょうか?!
何度ここで言ってきたか分かりません。
しかし、私の求道の初期の頃は、学生だったこともあってか、神、真理を知識的に分かろうとする傾向が強かったのです。
物質界の上に霊界があり、その又上に神界があり...とかこの神は、そのどの階級に居るのか、とか下っ端の神じゃなく、宇宙の最高神を信じなきゃならない、とか本に書いてあること、人が言っていることを鵜呑みにして、そりゃもう、ホントに畏れ多いことばかり頭に思い描いていたのです。
頭で分かったつもりなだけで、何一つ全身が頷けるようなものには与ってなどいなかったのです。
そして又、そこには興味本位の浮ついた思いもありました。しかし、心の奥では、“僕にはある重要なものが欠けているんじゃないか?、これでいいのだろうか?”、という思いも去来していたようなのでしたが...
そんな折、昭和53年暮れ、知人が今世を賑わしている、統一教会にハマってしまい、私には当時からその団体はヤバいことは既に認識されていて、そこから離れさせようとして、返って私もそのヤバい目に会うという事態になってしまったのです。
確かその知人が“そこには、本当の神、真理がある!“、とか言うので、“そんなものある訳無いだろ!”と言い返すと、“そんなことは行って、自分の目で見なければ分からないじゃないか!”、という挑発に乗って、迂闊にも近づいてしまったのです。
私には入信の意志など無いにも拘わらず、一度その教会に行って話を聞いただけでも彼らには、“信者として食いついて来た”、と見なされるのです。
それから、毎日のように電話はかかって来る、自宅まで押しかけて来る、何やら尾行されている疑いもある...と、その恐怖に怯える日々がしばらく続いたのです。
”ああ、僕の上っ調子のせいでこんなことに...“
そして、年明け早々、その恐怖の思いに居たたまれなくなり、必死になって祈っていたら...
これが何度も書いている、私が初めて思いを超えたもの~現臨に出くわした最初の契機だったのです。
そこで、神を知識だけで分かったつもりになること、興味本位な浮ついた思いで神に近づくことの愚かさを身を持って知らされたのです。
言うなれば、神に対して敬虔であることを自然に学ばされたのです。
それは、敬虔でなければならない、と外から強制される倫理道徳のことじゃありません。
人の思いを超えたものにあって、意識は自ずとそうならざるを得ないということです。
それは、神は益々自己を超えて、超越的なものとなることなのでしょうか?
頭脳智のみからすればそうでしょう。しかし、それを超えた世界が開かれ、そこで自己と切り離されないようにも、一体のものとなられるのです。いや、その実存感覚というもの自体、超越感覚と共に開かれると言ってもいいのです。
敬虔であることと、実存的であることは一つのことなのです。
神が何であるのかは未だに私には分かりません。それは本当の自分というものについても言えるでしょう。
知る必要がありません。分かっているのは、それにある時、愛、平安、リアリティに与るということです。
それを抜きにして、一体何を知る必要があるでしょうか?!