人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神の国は汝らのただ中にある

2014-11-30 18:59:30 | キリスト教関連
「神の国(天国)は、汝らのただ中にある」
この聖書の言葉は、多くのスピ系で語られていることで、「それは我々の内なる神性に関した話だろう」と、すんなり受け入れてしまう人も多かろうと思います。
でもこれには別の解釈もあって、それは「我々の人格的な交わり、関わり合いの中にある」というものです。
これは主としてキリスト教方面で強調され、教会にこそ神の国がある、ということを論証しようとする向きも有ります。
他方インド系の非二元のマスターたちが、こうした共同体を指向するという事はあまり聞かないですね。
全ては真我で片付けられてしまう様で…共同体も真我ってことか?どっち道言うことが無いです…。
ユダヤ系の宗教哲学者マルティン・ブーバーは主著「我と汝」により、キリスト教神学にも影響を及ぼしましたが、その中で神はその我と他者との具体的、人格的関係の中に顕れ、そこから有機的な共同意識が派生すると述べています。
こうした関係を「我―汝」関係と呼び、その有機性を失い、他者をあたかも「もの」としか対応出来なくなった「我ーそれ」関係と区別しています。
他者に対して固定した先入観、自己本位の目的意識、目論見などが介入した時、「汝」は隠れ「それ」が支配し始めます。
これに即せば形骸化し、制度となった教会は「我―それ」になってしまうのです。
ブーバーはこのように我々と他者との二通りの関わりを提示するのですが、現実世界では重要な「我―汝」の有り様はほとんど「それ」によって覆われて霞んでしまっているといった感があります。
「我―汝」関係により導かれる有機的共同体は、ロシア系の宗教哲学者ベルジャーエフが「ソボールノスチ」というロシア語で呼んだものと類似しています。
これは英語のコミュニオン(霊的交わり)に近いものがあると思われますが、こちらは必ずしも他者との関わりに限定されるものでもないようです。
又「我―それ」関係と言うのもベルジャーエフにあって「精神の客体化」を想起させるものがあります。
ところで、ブーバーは初期の頃には所謂忘我の体験、まあ言うなれば覚醒、超越体験の研究をしていたのですが、ハシデイズムというユダヤ教神秘主義運動との出会いから具体的な他者との関わりの重要性に目覚めました。
敢えて運動と言ったのは、それは正に共同体を指向していたからです。
熱狂的な集団での祈りを伴うもので、日本のユダヤ指向のキリスト教の一派原始福音にも影響を与えたようです。
彼が対話の哲学へシフトした理由は、所謂神秘主義で語られる忘我の体験は、自己完結、内面的主観で片づけられてしまう傾向があるからです。
それは現実に世界に顕れなければ意味をなさない、ということです。
確かに現実世界への応現という観点からは、自己の内的世界のみで留まってしまえば、「流産」に終わってしまうでしょう。
しかしながら、一体誰がその体験は主観的なものにすぎない、などと決めつけられるでしょうか?
病的な幻想、ドラッグ服用によるトリップ体験とは区別されるべきは当然かも知れませんが…
でもこうしたレッテルを張られることにより、どれだけ多くの超越的な気付きが葬りされたことでしょう。
私の理解では、真の超越、覚醒体験で示されたものは全て現実世界への発露を内包している、
地上天国の種、青写真ではなかろうかと思います。
現実世界に歩みだされたか、どうかは結果論にすぎないのです。
よしんば「流産」に終わったように見えても、それ自体無意味だったと言い切れるのでしょうか?
何時も不思議に思うのですが、ブーバーに限らず、どうしてこのように一方の視点を重視するあまり、もう一方の視点を切り捨てる傾向が生まれてしまうのか…
「我―汝」関係において、その命の源は内的神性ではないでしょうか…
そこから滋養されることが無ければすぐ「それ」が幅を利かせてしまうでしょう。
私の不器用な人間関係での経験では、あまり他者性というものを意識しすぎると、何ともぎこちない「それ」めいたものが生まれます。
思わず深い交流が持てた時というのは、自分の内面に意識が向けられていた時です。
ただいつ何時そうした関係が生まれるのかどうかはこちらでは予測不可能ですが…。

神の国は我々の内面にあるのか、
我々の間に有るのか…
沈黙の声は告げる…
どっちも本当!
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2イン1

2014-11-29 20:11:31 | スピリチュアル
私は昔から音楽を聴くのが好きで、世代的にアナログ盤というのに馴染みが有ります。
CD何ていうのが出てきた時は戸惑いましたね。
レコード屋さんで初めて聴かせてもらった時、演奏が終わったところで店主さんにこう言いました。
「B面もお願いします!」(笑)
アナログ盤2枚分を1枚のCDにカップリングしたのを2イン1と言うそうですね。
これは果たして一枚として捉えるべきなのか…いや二枚分というイメージも拭えない…
ドアーズのファースト・アルバムの最後の曲は「ジ・エンド」…終わらないじゃないか!

宗教的回心、自己の内なる神への絶対信、と書いてきましてこの二つのプロセスは表面的に捉えると、矛盾したものに導かれるように思えますね。
前者は徹底した自己否定、後の方は究極の自己肯定ではないかと…。
こういうことは、いくら考えても結論は出ないですね。
そもそもこれは思考のハタラキが弱められて、純粋な意識状態に移行するプロセスにおいて示されることだからです。
ただ私には近年のスピ系は、一元的な「内在神」にアプローチするのが花盛りで、何か手放しでその気になって、分かったつもりになってしまう傾向が多分にあるように感じられるのです。
「自分の中に神がいる筈なのに、何故こんなに苦悩や不調和が絶えないんだろう…」と感じる方も多かろうと思います。
非二元のマスターによれば、それは我々が個我に縛られている為だそうです。
だからいくら内なる神を信じたとしても、ままならぬ現実は以前として自分は個我の幻想の中に浸っていることを物語っている訳です。
無理にそんなこと信じない方が、却って気楽でいられると思いますがね。
無理に信じようとすると、なかなかそうならない自分が負担になってきますし…
ともすると、全く観念の世界で自分自身が宙ぶらりんになってしまいがちです。
そこで雁字搦めの状態の自我性にどっかで、風穴が開けられる必要があります。
それが回心という事になる訳です。
それは限りある自我を超えた、超越的実在への帰依により導かれます。
非二元の道からはしばしば二元論のレッテルを張られたりしていますが、これが対立的になれば非二元も二元論と同じになるでしょう。
相対的に観ている訳ですから。
一方欧米では二元的帰依の宗教はキリスト教に代表されますが、昔から非二元の道に対してかなり挑発的です。
「内在の神だなんてとんでもない、神は絶対他者である!」とか…
確かに自己の無力さ、無知さを知らされた時、絶対他者として現前するものが有りますが…
私はどちらが本当かと尋ねられたら…
「どっちも本当!」と答えるしかないですね。
私は昔からヘソ曲りなところが有りまして、教会で牧師が「神は絶対他者だ!」と決めつけたこと言ったら、「いや、それは一方的な観方だ!」
と言い返したりしています。
今は頭でっかちの「内在神」信仰?が巷に溢れているので、「後で頭叩かれてペシャンコになっても知らないですよ!」と言う機会が多い…かな?
私にはこの二つの道はどちらか一方とも欠かすことのできない両輪だと思っています。
帰依、自己を超えた存在への明け渡しということ無しに、内なる絶対的なものは開かれず、、又内なる光が無ければ、永久に絶対他者を仰いでないとならないでしょう。
これは実は二つあるようで、一つしかない…思考を超えるってことは、そうなるっきゃない!
肝心な事は目覚めにしろ、気付きにしろ自分の考え、能力でないところで起きる事なんですから…。
そしてそこには到達、達成というプロセス経ずして、元々そのものが有った…。
私はそれが起きる前からこの両輪を別々のものとして分けて捉えたことは無かったですね。
「あれにも共感!これにも共感!悪いですか!」
私は欧米人でもインド人でもありません。
「どっちも本当」と、自然に受け入れられる国に生まれたのです。

「日本人に生まれて本当に良かったと思ってます」(高倉健さん 追悼)


 
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自らを信じよ

2014-11-25 16:44:42 | 求道、探究
わが宗門、仮名「唯我独尊教」ではいくつかタブーが有ります。
まず他者に対しての自説の押し売りはしないこと。
色々エラそうに発信する事はあっても、どう受け取るかは他者の自由に任す、と全く言うまでもないことですが…。
自分に対しては「これしかない!」などと血迷って思いを固めて、通気口を塞がないこと。
もし、これに違背ある時は、即破門¡…何てこたア、ないか…。
要するに人にも自分にも思いを固めて、普遍世界よりの息吹を閉ざしてはならないということです。
これを言い換えれば「自分自身を信じること」人には「あなた自身を信じて下さい」ということですかね。
「一寸待った! そんなことしてたら自己中になるでしょうが…」という声も聞こえてきそうですが、ホントに自分を信頼してたら、そうはならないですね。
どっからか「片意地張らんでいいよ」という響きにつつまれ自分も許せるし、人も許せるようになりますから…。
むしろ頑なになってしまう時というのは、自分以外の何か…特定の人物、教えなどを信じ込んで、観念のトリコになっている場合が多いですね。
自分では神とか宇宙とか、さも広大無辺な世界を信じているつもりでも、実際は特定の宗教に閉じこもったきりだったりするのです。
プラトンの「洞窟の比喩」の中で、洞窟の壁に縛りつけられている囚人が、そこに映じられた影を全世界と信じ切っているように…。
自分の中にしか絶対的なものは無い!
これもいくら強調しても足りません。
たとえ他のことはウソだとしても、これだけはホントです。
さもなけりゃ、あなたも私も世界もありゃあしない、のです。
宗教では、自分の思いとかを入れちゃあいけませんよ!それは我なんですから…などと言います。
それも一理あります。
でも盲目的信仰も又我に他なりません。
それもより一層質の悪いものです。
周囲も自分自身も信じることは、正しいことだとそれこそ信じて疑わないからです。
だから救いようが無いのです。
誰かにハンマーで石頭を砕いてもらわないと、永久に変わらないでしょう。
それだったらエゴ丸出しで生きていた方がずっとマシです!
それでも神を、イエス様を、OO先生を信じたい…。
分かりますよ。
信仰なんてやめちゃえ!何てヤボな事言ってる訳じゃないですから…
それでも自分自身の信頼は忘れないで欲しいですね。
私の導師は姿を見たことなく、全く正体不明ですけど、もしイエスとして現れたら私はキリスト教徒になっていたかも分かりません。
イエスに明け渡し、イエスを通して永遠、普遍世界とつながることも有るでしょう…。
聖書ではそういう事言ってるんですよね?
でも本物の導師は、その世界はあなたの中にあるという事を告げるのです。
かくして導師と自分は一つになるのです。
ブッダは言う「自らを灯とせよ」
イエスは又言う「天国は汝らの中に有り」…
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回心

2014-11-24 07:20:22 | 覚醒
「一体、どうしたら目覚めの体験が出来るのですか?」と何人かの方から聞かれました。
どうしたってそういう話になってしまいますよね。
それが人情というもの…
しかし…私自身どうしてそんなことになってしまったのか分かりませんので、はぐらかしてしまいます。
パスカルも、綱島梁川も、玉城康四郎さんも「目覚めよう、目覚めよう」という目的意識など無く、ある日ある時忽然とそんなことになってしまった、ということなのです。
ここに何かパラドックスが有るようですね。
目的意識を持って瞑想したり、座禅したりしても必ずしもそうはならないという…。
一つ言える事、これは「出来る、出来ない」という個人の能力に関わることでは無いという事です。
これは個人というものが超えられてしまうという事だから、超個的なものに淵源があるのです。
さらに言えば、「目覚めよう、悟ろう」という目的意識からで無しに、むしろ一切の目論見的なものを手放す、というところから開けてくるものなのです。
私は長く火災保険とか保険の業務に携わっていたのですが、そこでは中途更改とか転換という手続きが行われます。
現行の契約を一端解約して、一から新たに違う内容で契約し直すのです。
転換という場合、終身保障とか現行契約よりずっとワイドな内容になるのが普通です。
転換とはコンヴァージョンというらしい…それを初めて聞いた時、私の揮発性スポットに火が付きそうになりました。
コンヴァージョンとは、キリスト教方面でよく言われる回心、生まれ変わりの事だったからです。
「悔い改め」と普通言われたりしますが、反省して心がけを変える、なんていう程度のことじゃありません。
勿論、キリスト教に限ったことでなく、宗教に限ったものでもありません。
近年巷を賑わせているアセンションなどでは、より上なる次元へと霊的進化を目指すと言います。
しかし、現行のままで、諸々の目論見を持ったままでそれを目指しても頭打ちに会うだけでしょう。
頭打ちに会う、というところにむしろ救いがあると言ってもいいでしょう。
機能、容量オーバーでオシャカになるくらいなら…。
このような話はいくら強調してもし過ぎる事は無いです。
回心とは現行の自分に見切りをつけ、新たに生まれる自分を受け入れる事に他ならないのです。
大体、進化などといっても、ほとんどの人は本当の自分というものを知りません。
人生には、世界には何故苦悩や不調和が有るのかも分かりません。
つまり我々のことは何も分かっていないのです。
真の姿というものが示されずして、一体どこへ行こうというのでしょう?
各駅停車の駅近辺に居る人は、通過列車ばかりだったら乗車が出来ません。
いつも急行に乗ってる人には、その各駅の駅がどんなところなのか分かりません。
その全貌が明らかになったら、なんていいところなんだ、と思うかも知れません。
普通電車は待っていたら、必ず乗ることが出来ます。
電車は止まってくれるからです。
先で急行列車はエンストしてたりして…。
でもどっち道、終点までは行くようになってます。
くれぐれもお乗り間違いのないように…。

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パスカルの覚書

2014-11-22 20:27:22 | 人生の裏側の図書室
恩恵の年1654年
11月23日月曜日…
夜10時半より零時半ごろまで

  火
アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神
哲学者および識者の神にあらず
確実、確実、感情、歓喜、平和
イエス・キリストの神
わが神、すなわち汝らの神
汝の神はわが神とならん
神以外の、この世いっさいのものの忘却
神は福音に示されたる道によりてのみ見出さる
人間の魂の偉大さ
歓喜、歓喜、歓喜の涙
われ神より離れおりぬ…
願わくはわれ永久に神より離れざらんことを…

(パスカル 覚書)


世に言うパスカルの定理なるものが、どんなものであるか、数学アレルギーである私には全く縁の無い世界です。
「人間は考える葦である」とは一体、どういう事なんでしょう。
人間は弱い、でも考える事が出来る…故に苦悩も悲劇も不調和も後が絶たない…
何も考えない人間の方が強いんじゃないですか?
所謂枕頭の書の代表作とも言われる「パンセ」は時たま読むことはあっても、なかなか終わりまで読み通すことが出来ません。
夜読んでるうち寝てしまう事もあります。
しかし…これは寝てなんぞ居られません!
パスカルの覚醒の書、燃え上がる火のメモリアルなのですから。
彼はこの回心の後、峻厳なジャンセニズムなるキリスト教派の修道院に入ったとか…
彼のキリスト教信仰がどんなものであったか? 私には知る由も有りません。
だが彼はこの恩寵の光に照らされ、考えられた、思い描いた神でなく、生きて働く神、直接現前する神を知らされた…
古今東西かくも直接的な、精神の変容の模様を書き殴った記録というものは類を見ません。
これは又人生の裏側では、ずっと語り続けられるであろうモニュメントなのです…。
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