人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

内なるものと現実

2016-02-28 12:57:22 | スピリチュアル
何時だったかM女史からこんなことを言われた事が有りました。
「貴方はもしかしたら、悟りを啓くような運命にある人なのかも分からない。でも貴方は自分だけが悟ってそんな境地に居て、満足してしまうような人じゃない! 貴方は人との関わりの中で目覚めてくるものに触れることを求めているのでしょう。現実にそれが顕れなければ満足できないのでしょう…」
この言葉は全く否定しようのないものです。私が果たして悟る運命にあるのか、どうかという話はさて置き(女史が生きていた時代は、”覚醒”といった表現も一般に馴染みが無く、最近のなんてことない人にもそういう事になってしまう事態も知られていませんでした。)そもそも私がD会なるものに惹かれた理由の一つが、それが人と人との関係性、共同体的なものとの関連で”覚めてくる”ものを指向していたからです。それは又それが雛形となって普遍人類に開かれていくものであることを告げているのです。
そしてこのことは実は、私が初めて目覚めに預かった時に、大きく投げかけられ、内包されていたものでした。
私はその時、意識の覚醒と共に個的な自己を超えた、普遍調和が開かれていたのを目の当たりにしたのです。
これはもとより、私の意識の内なること、内面において開示されたものと一応はみることが出来ます。
でも…私はその事を単なる私の主観的な事として片付けられてしまう事は、どうしても(周囲は如何なる判断をしようとも)受け入れられない、という思いは捨て切れないのでした。
何故ならば、そこで実感したものは、それまで所謂主観的とされる個人の思い描いたようなものの次元とは比べられない程リアルで、疑いようのないものだったからです。
そしてそのことは、意識がこちら側に戻りつつある時、改めてこの日常の現実世界に思いを向けた時、”一体これは何という事か、この世界には活きる上で最も重要なものを欠いているではないか!この世界は基礎の無い”空洞、蜃気楼ではないか!”と愕然する他無かったのです。
一体全体、このようなプロセスを経ながら、その眼下の現実世界をよそに ”私はこの世に超越した、解脱したのだ…”などと一人悦に浸っている人間が居たとしたら、何とオメデタイことだろう…と思いませんか!
そして私はこの時、たった一人でもいい、私のこの事態を理解している人が出てきてほしい、とどんなに願ったことでしょう…とにかく私はその垣間見られたものが、単なる私の幻想で終わってしまう事に対し”あれが幻想だとすれば、あの現臨も幻想…では全てが幻想になってしまうではないか!”といった思いに強く迫られたのでした。
すると…声なき声のメッセージらしきものを受けたのです。
”私はこの見える世界にアリアリと示現しよう…”それは実にかの普遍調和世界のこの地上への応現を物語るものでした。
覚醒経験者のある報告では、ワンネスというか調和世界は未来に実現するものでなく既に成っている、という意味のことが述べられていますが、実際私も永遠においてある、そういうものを垣間見たわけで、一面ではそうなのですが、二元的なこの世に生きてる人間にとってはそうではありません!
この世においては時間、空間という制限がどうしたってあります。
全ての黙示的表現というのは、この二元で生きるものに意味が有り、またそれはその日、その時何が終わり、何かが生まれるらしい…
見えない彼の世界と見える現実世界が一如になるらしい…
ただ私には、(それはもとよりそうなってみなければわからない事なのですが)具体的にこの見える現実が、人類世界がどう変容するのか、という事は分かりません。(というか分かっても言いません!)
その小さい雛形のようなものには、時折出くわします。
例えば人と交流していて自他に区別があいまいになって、そこに有機的なものがハタラクような時です。
それは私の内面の領域を超えて、つまり主観とは言えない世界を両者が共有している、という事です。
見えない世界が、現実世界に応現するとは、このような局面で示されるのではないでしょうか…






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古聖は死なず

2016-02-26 13:00:27 | 哲学・思想
ブッダ、イエス、孔子、老子…所謂古聖たちの教えというものは、広く知られていますね。
どこまで彼ら自身の言葉であるか判然としてないにも関わらず、当たり前のように一般にはそうしたものとして受け止められているようです。
考えてみれば、驚くなかれ!彼らの生きた時代から二千年以上も経っているのですよ!
これはもう奇跡に近いことと言わねばなりません。
そしてその残されているごくわずかな断片に過ぎないような彼らの残した記録をもとに、これまで数多の学者、信奉者により、「キリストの福音の神髄とはコレコレであり、本当にブッダが伝えたかったことは何々である…」といった、諸々の決めつけた見解に基ずく解釈で溢れかえっている様相になっています。
でも…真実のことは聖者自らに聞いてみなきゃ分からないのです!野暮な話ですが…
私がいつも感じるのは、彼らは本当には何を伝えたかったのだろうか?…その教訓とか真理らしきことを織り込んだ教えだったのだろうか?
いや、果たして抽象的な言葉をもってする悟性で捉えられるような教えだったのだろうか?
そこには、言葉に言い表すことのできない、活きたハタラキというものが醸し出されていたのではなかっただろうか…ということなのです。
この事が抜け落ちてしまったなら、ただの観念的な言説しか残りません。
そこに動的エネルギーというものがあったとすれば、後世の物知り顔の固定した結論じみた所謂正統の基督教も、正法による仏法の如きものも出る幕などないじゃありませんか!
銅像じゃあるまいし、それらの教えの意味するものは既に終わってしまったとでも言うのでしょうか!
活きたハタラキとは絶えず創造過程にあり、生成して止まないものです。
イエスの福音も老子の無の道も、この客体化された長きにわたる現実世界の壁の中で、その内実的なものは封印の憂き目に遭っているのかもしれません。
しかし、一度この見える現実の裏側のベールが開かれたなら、今もなお生成し続ける創造的力と共にあることに気づかされるに違いないでしょう。
一面からみると、彼ら古聖たちの教えというものは、この客観世界とされる現実とは何の関係も無い、我々の内面世界に関することばかり語られているように思います。つまりは悟りや超越体験といった契機に依らなければ開示され得ない秘教なのです。
(もっともこの悟りという事態そのものからして前述のように、実証される世界とは縁も所縁も無いことであり、それについての固定した見解など出る幕ないものと言えます。活きたハタラキに依らずば起こり様の無いものです。)
一方、別の観点からみると…ユダヤ=キリスト教などは救世主、神の国の到来について多く宣べ伝えられていることが知られていますが、そうでなくともブッダにしても老子にしても、又幾多の古聖たちの教説には、(直接的な言辞は無くても)ことごとくがこうした来るべき調和世界の現実世界への応現について語られているのを感じます。
それは何よりも彼らの言葉がこうして残されている、という事自体にそうした意志的なものを思わされます。
”言葉が述べられる”ということは”現実に物申す”ということであり、こうした深いところからの意志の表れとみるべきなのです。
(それはこのブログもそれに肖ろうとしている次第なのです)
そして又、悟り、覚醒、超越体験なるもの…それぞれの子細な解釈など到底試みる気も無いですが、ある視点から見れば、それまで我々の内に秘められていた、封印されていたものが、深層意識から表面意識を貫いて顕わになった…という事を意味しているように感じられるのです。
この辺のことが、私が常々悟りや覚醒というものは個人に纏わる何かに帰せられるものでも、個人の内面という領域に留まるものでも無い、と述べている所以なのです。
そしてこの秘められたる封印を解き放つものこそが、活きたハタラキに他ならないでしょう。
それが顕わになるということは、客観世界からみれば、死に絶えた古の教えの復活をもたらし、この今にも破滅に向かわんとしている現実世界を新たに切り開く突破口を意味していると言えるでしょう…
それはある限定された一宗派、一グループにのみハタラくというものでなく、全ての普遍に及ぶことであろう…
ブッダ、イエスも蘇り、今も創造は新たなり…













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ある二重人格者のたわごと

2016-02-25 18:45:02 | 雑感
私は見かけ通りおとなしくて気が弱い人間なんです。平和主義者なんです。
あまり人に自分のクセを見せないようにしてます。
極端な、押しつけがましい物言いはされるのも、するのも嫌です。
争い、諍いの種は撒かないようにしないとね…
寛容な精神というものをモットーにしてます。
仕事はちっとも一生懸命じゃないですが、いつもソツ無くやるように心がけてます。
そう…頑張りません!…自分は強くないし、自分に甘いんです。
人にも甘い…自分が先輩でも後輩にキツイ事言いたくありません。
人をヘコましたり、傷つけたくないです。自分もそうされたくない…

誰かが私は実はいつも爆弾を携えてるキケンな人間だと言ってたらしい…
ハハハ…そんなん誰だってそうでしょ?
何処に自分の知らない自分が隠れているかわかりゃしないんだから…
”絶対起こる訳無い”と思われていた神戸にも大地震が起きたしね…
(私は意識が目覚める事を地震とか噴火とかに喩える事があるけど、人前で爆発しちゃったりするのはあくまで異例ですよ!怒りの要素が加わったらああいう事も有るって事ですよ! 平和主義者としてこれは言っとかないと…)
修行なんてしないっていつも言ってますが、それは根気も無く、意志も弱くイイカゲンだからです。
そんな自分なんですが…これは知ってる人は知ってることですなのですが…
私は自分でも分からない部分で、恐ろしく厳格なところが有ります。
絶対にテコでも譲らない…妥協しない…
普段の言葉がウソのように超原理主義者みたいなことを言い放ったりする事が有ります。
まあ。こういうところがアブナく観られるところなんでしょうか?
でも、それはこういうイイカゲンな自分や他人の在り方に対して向けられるわけじゃないです。
(知らず知らずにそうしてしまったことはあるかも…)
こうなってしまうのはどうやら…見えざる導師が陰でハタラいているらしいです。裏側からの音信を受けているらしい…
以前「それでも地球は回る」という回想記で印象的だった夢のことを書きましたが、あれこそ自分の性格を物語っている気がします。
私はもし、若き日の”自由と反逆の教師”クリシュナムルティのように救世主として祭り上げられたりしたら、きっと”世界の救済なんぞ私の知ったこっちゃない”とか言ってその居り場を放り投げてしまうでしょう。ただし、彼のように”真理は道なき道である…教会や教えになどには見つからない…”などと気の利いたことは言わないです。
多分偉大なる弁明と言ったら…”そんなことより…昔ながらの喫茶店の二階で街並みを眺めていたい…”なんてことでしょう…
でも…そこにあの愛のバイブレーションが立ち上ったら…分からないです。
こう言うと、他動的なハタラキに逆らうことが出来なくなる…と思われるかもしれませんが、そういう事ではありません。
自分の全てが、もしそれが例えば世界教師になる事だったらそれに向かうという事です!
私が時に見せる厳格さというものは、この辺りから来ているようです。
私は全身全霊で事に臨むという事など、とても出来るタマじゃない…でも自分の思いを超えて全身全霊的なものに赴く事が有るのです…。













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わが城砦爆破さる!

2016-02-24 13:05:14 | 秘教、その他団体
私は見かけに反して?いつも爆弾を携えているキケンな人間です!
私はこれまで何度かこの爆弾を投下してやろうかと思った事が有りましたが、ほとんどの場合私の狡猾な理性が介入して未遂に終わるのが普通です。
手りゅう弾みたいなのでしたら数回炸裂したことはあるけど、あのメガトン級のヤツときたら…
もし、ホントにそれが行使されてしまったら一体どういうことになるのか? それはあの日までは私にも分からなかったのです…。
平成4年春、神戸のD会の集まりで、それは起きました。
その会場に入った時から、私に何やらただならぬ雰囲気が立ち込めているのが感知されました。
集会は何時に無く集う者の意識を高揚させることを促しているように進行して行きました。
私も又、高揚した感じになっていましたが、集会が終わりに差し掛かり、私に感想を求められた時でした。私がそれまで自覚している、していないに関わらずずっと内にため込んでいたものが全て、ダムが決壊したかのように一気に噴き出したのです。
理性も何もかもが吹っ飛んでしまいました。それは私の全ての力が噴出したような怒りとして現れました。
”一体自分の中にあんなにエネルギーが有ったのか!”と感じるくらいザ・クラッシャー(ぶっ壊し屋)と化して、机を何度も何度もブッ叩いて何事かを叫んでいました! 思いっきりたたき過ぎて一週間くらい手が腫れ上がってしまったくらいです。
どんな内容だったか忘れましたが、おそらく私の前に有ったやり取りが、導火線に火をつけてしまったのでしょう…
私はその場に立ち上がっていたある種のエネルギー、ハタラキを受けていたのです。
自分自身のことを客観的に述べるのもヘンなのですが、これは一種の心身の浄化作用とみるべきかと思います。
そして、又ある種の覚醒でも有ろう…この世の常識に照らせば勿論アブナイ、オカシイことには違いないです!
しかし、人智を超えたエネルギーの表出という事自体、この世の常識、ルールなどが当てはまるものでありません。
別にこのような事は正しいこととは思いませんが、そういう理解は必要かと思います。
もし、嵐が過ぎ去ってもなお、その異常ぶりが収まらない事態こそが、キケンであり、異常事態なのです。
私には渦中に有っても、どうにか意識は保たれていて、これは一過性のものだと分かってましたし、ヘンな又勝手な言い方ですが、”これは許されているから起きているんだ…”という実感が有りました。許されている、という事は意味が有る?…誰に…”ここ”の人たちに?…それとも私に?…
少なくとも私には意味がありました。
後日、私がごく常識人として、そのお騒がせした事態について謝罪しにD会に行った時のことです。
例によってM女史と相対していたのですが、この時の女史の態度というのはそれまでとは全く違い、それはD会の中心者としてのものでした。
そして…女史自ら”こういう風に接すると、貴方はきっと閉ざしてしまうでしょう…”というまさにそのような態度で接してきたのです。
それは一言で言うと外部から圧するような説き伏せ、力の行使といったものです。
このことは私自身の(私の意志的なものでなかったにせよ)暴力的力の行使の報いとしてはとても分かり易い経緯と言えましょう…。
して、私の意識はもうD会には向かなくなってしまいました! いや、それは元々私に内包していたものですが、あらゆる宗教的、精神的なものへの従属の道はそこで完全に断たれてしまった…という事を意味しました。
もう、それ以降特定の宗教、グループへの従属は不可能です!もう生理的に受け付けません!
私があの場で破壊に駆り立てたものは…私は確かにD会に観取されていた宗教的独善性、閉鎖性を木っ端みじんにしたい!という衝動があったのを覚えています。
それは私がその場で、本当の意味で如何なる障壁も無い普遍性の息吹というものを感じ取っていたからです!
その普遍性というものは、初めて目覚めに預かった時のような、内面に感じられたものと違い、現実のその場に顕現されてあるもの、という感じでした。
確か私はその渦中の中で”ここへ帰って来たぞ!”という意味のことを口走っていたのです。
しかし…この事はM女史にも誰にも通りませんでした…まあ、そうでしょう、ヒステリーか何かの神がかりのうわ言としてしか見られなかったでしょうから…爆弾を投下したツケとはこんなものです。その被害は必ずわが身にも及ばずに済まなくなります。
結果、何が爆破されたかと言ったら、私の宗教などに依りかかる城砦だった…という事です。
私はその後しばらくは心にすっかり空間が出来たように探究、学ぼうとする意欲も消え失せてしまいました。
そんなある時、久しぶりに声なき声の音信が訪れました…

”これでいいんだ…お前とサシで付き合えるんだからな…”









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謎の秘教と普遍世界

2016-02-23 13:25:17 | 秘教、その他団体
謎の秘教D会というのは、表向き宗教団体(そう登録されていた)ですが、裏では来るべき救世主を世に出すことを画策している団体でした!
といってこの言葉を文字通り受け取られても困るのですが、例えばかつての大本教もそうした団体と言えます。
救世主といっても、再臨のキリストやミロクといった実体に捉われる必要はありません。それらはあくまで、来るべき普遍調和世界をもたらす原理といったものの象徴とみなすべきなのです。
D会においては、そのような救世主の位格のようなものは無かったですが、これはあまりに抽象的すぎて上手く伝えられないのですが、その救済原理の象徴というのは…”大調和世界観”みたいなのです。何のこっちゃ分からないかもしれませんが、それがたる所以なのでしょう?
私がそもそもその会に多大な関心を抱いたのは、そこに大本教に顕れていた救世主待望の経綸の継承といった消息が秘められている…と嗅ぎ取ったからだったのですが、形は全く異なっていますが、正しくある種の経綸上のが示されたり、因縁のミタマと定められた人たち(誤解を恐れずに言えば選ばれた人たち?)を巡るドラマが展開されていたりしたのです。詳しいことはちょっと書けません…謎の秘教だから?…それもありますが、私自身チンプンカンプンなところも多いのです!
私は既述したように、その会との関係は微妙なものでした。
完全にはその会に身を置いて、その謎の仕組み?に参画するというまでには至っていなかったのです。
その理由はチンプンカンプンだから…というのもそうなのですが、もっと大きかったのは、又しても宗教特有の独善性の匂いをそこに嗅ぎ付けていたからです。
この事についてもっと詳しく述べると、私はその会には自分の生まれ故郷である東京を捨ててまでも、赴かせられるほどの因縁めいたものを感じていました。
それは取りも直さず、私はその会に私の内なる普遍調和世界の映しとして観ていたのです!(このことは私が初めて”目覚め”に預かる以前から抱いていたのですが、私の表面意識よりずっと深いところでこういうものが鳴動していたのです!)
この理由で私は一点たりとも、毛筋程たりとも、あの宗我臭さをこの人類共同体の雛形に認める訳にはいかなかったのです!
その臭さというのは、他の諸宗派のそれと比べたら別にさして問題にならなかったでしょう。これはあくまで私の人類共同体には絶対あっちゃならないものだったのです!
そう言ってもD会で説かれているものは、間違いなく普遍的人類というものに向けられているものです。
これこそは来るべき人類世界に開示される普遍調和の礎となるものだ…という予感を感じさせずにおれないものが有ります。
でも…それは今までの宗教的基盤とは違う何かなのらしい…
今までは個的なものの基盤であった…ここに関係的基盤が開かれた…
個的な基盤など、かって有った試しなどあるだろうか?…まあ、こういう見解の相違というものは重要では無いです。
私には、その教説に普遍性を見出すとともに、その普遍性から浮き出た、分離した面というのも感じ取っていたのです。
それが端的に例えば宗教的次元との違い、個的次元との違いなどを強調することで、私の内面も亀裂が入りそうで、どうしても受け入れられませんでした。いやそれ以上にこの世の相対的次元に君臨する特別な何かなどそこに認める訳には行かなかったのです!
実際に普遍世界というものに触れた時、アレとコレの次元の違いなんてものは、有機的多様性と一なるものとの調和の中では全くありえないものです!
こういう面が、M女史と自由に個人的に交流している時とは、少しく空気が違う感じを抱かせたのです。
明らかに私と相対している時の女史と、集会の中心となっている時の女史とは違う印象がありました。
ただ…このD会との関わりの中で、一度だけ本当に!私の全存在が頷いた…いや爆発したことがありました。
その一瞬確かに私の内面で燻ぶっていたものも、諸々の障壁も吹っ飛んでしまいました!
だが…皮肉にもそれがD会、そしてM女史との間に大きな溝を作ることになってしまったのでした…。







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