10数年前ある時、大阪の下町を歩いていたら、突然何だか自分が自分の意志で歩いているという感覚が薄れ、”大本から自分を生かしているものによって動かされている…何て幸福なんだ…”という実感が込み上げてきました。その時ふと浮かんだのが、小池先生が高弟のO先生に言った「自分を手放してごらん。ラク~になれるんだよ!」という言葉でした。
私がずーっと書き続けているのがまさにこういう事でして、老子の言葉”為さずして為す…無為の為”に通じる事かと思います。
改めてこの語るだに微妙な事に触れてみようと思うのですが、これを何もしない事と取ってしまうのは…その通りでもあるし、そうでも無いのです。(微妙だ!)
意識がポカーンとなりにそのものに向けられるのです。これが又実に微妙な事で、強いて向ける対象に向けようとするので無しに、そこにちゃんとあるから向いちゃうのです。何時だってそこにあるものに…
意識を向けるというのは、自分の意志で意念を強めるという事では全くありません!
意識が向かうと、何かハタラキ、エネルギー的なものがフォーカスされてきます(全身全霊的、全人格的なものに自ずと集まってくる)が、これがジンジンと…表現しているものです。それは意識を集中するという、意念的な事とは全く違います。対象となるものが無いのです。
このようにこれは意念とか、人為的なものに働きかけないでそうなることなのです。だから何かをやったという気が全くしないのです。
それでいて、充実感とか幸福感があふれてくる…これを人生の裏側の知られざる行動などとテキトーな事デッチ上げることも出来るでしょう?行為者なき行動…とにかくあっちではこういう生き方が主流なのです。
これは身に覚えるという事と密接な関係が有るのですが、私はホントーにガツンと、身に覚えさせられるものに出くわしたから、身に覚えているまでです(ミもフタも無い話)。梅干しを想像しただけで耳下腺の辺りが縮まるようなものでしょうか?
しかし、この事がホントーに何時でもそこにあるように覚えるようになったのは、忘れもしない平成10年夏、それ以前にあったあの至福体験を取り戻そう、という望みを手放してからです。実に逆説的な事ですね。そういうものは私個人の手のかかる問題じゃないんですから…
こういう理由から時に私は精神の目覚めを促すような発言をしたり、ある時は”覚醒すりゃいいってもんじゃない…”、と呟いたりしているのです。
要するに、すべては見えざる導き、ハタラキ、現臨…(名称は何であれ)そのものあってのものだ、ということに尽きます!
無為自然と言ったりするように、これは自ずからなるものなのです。自然というものは無理が無い、それは又自由無碍、障るものが無い、滞るものが無い、と言う事が出来るでしょう。
ここで誤解されがちな事は、自然なものにゆだねることは、自分の意志を無にするとか、引っ込めるとか、断念するとかいう事では無い、という事です。それは実に自分の意志を働かせている、ということに他ならないから…
この意味で私は、自分から進んで苦難、不幸な道に赴こうとする…自己犠牲を想起するような生き方には共感出来ません。
しかし、見た目には自己犠牲のように映ることであっても、そこにそうさせる、自己を超えた促しによるものであれば話は別です。
このように、本心からでなしに無理に強いて、神など自己を超えたものに従おうとすれば、必ずネガティブな思い、満たされない思いというものが残ります。
これは自分とその自ずからなるものとが一如になっていないで、向こうに対象的に観ていることでそうなってしまうのです。
本当はある教えを信じられない、受け入れられないのに無理に信じよう、受け入れよう、とする事でも同じ事です。
意念で有識に思いを取り込もうとする、確固としたものにしようとする…精神が滞っていくばかりです。
心に障壁が出来てしまうのです…そういう思いが自分の人生ばかりでなく、周囲にも、あるいは、世界、人類規模にまでも自然な命の流れの障りとなり、滞らせてしまうのです。
本当に無為自然なものに出くわすという事は、無理なく、障りも無いことなのです。
多くの人は何かを掴もうとして、捉われてしまう…捉われている自分を無くそうとして又捉われる…
夕日を掴もうとしているみたいに…
夕日から醸し出されているものは、ここにあるものなのに…
ただ、そこに立っているだけで、自ずとジッとしていられなくなる…
私がずーっと書き続けているのがまさにこういう事でして、老子の言葉”為さずして為す…無為の為”に通じる事かと思います。
改めてこの語るだに微妙な事に触れてみようと思うのですが、これを何もしない事と取ってしまうのは…その通りでもあるし、そうでも無いのです。(微妙だ!)
意識がポカーンとなりにそのものに向けられるのです。これが又実に微妙な事で、強いて向ける対象に向けようとするので無しに、そこにちゃんとあるから向いちゃうのです。何時だってそこにあるものに…
意識を向けるというのは、自分の意志で意念を強めるという事では全くありません!
意識が向かうと、何かハタラキ、エネルギー的なものがフォーカスされてきます(全身全霊的、全人格的なものに自ずと集まってくる)が、これがジンジンと…表現しているものです。それは意識を集中するという、意念的な事とは全く違います。対象となるものが無いのです。
このようにこれは意念とか、人為的なものに働きかけないでそうなることなのです。だから何かをやったという気が全くしないのです。
それでいて、充実感とか幸福感があふれてくる…これを人生の裏側の知られざる行動などとテキトーな事デッチ上げることも出来るでしょう?行為者なき行動…とにかくあっちではこういう生き方が主流なのです。
これは身に覚えるという事と密接な関係が有るのですが、私はホントーにガツンと、身に覚えさせられるものに出くわしたから、身に覚えているまでです(ミもフタも無い話)。梅干しを想像しただけで耳下腺の辺りが縮まるようなものでしょうか?
しかし、この事がホントーに何時でもそこにあるように覚えるようになったのは、忘れもしない平成10年夏、それ以前にあったあの至福体験を取り戻そう、という望みを手放してからです。実に逆説的な事ですね。そういうものは私個人の手のかかる問題じゃないんですから…
こういう理由から時に私は精神の目覚めを促すような発言をしたり、ある時は”覚醒すりゃいいってもんじゃない…”、と呟いたりしているのです。
要するに、すべては見えざる導き、ハタラキ、現臨…(名称は何であれ)そのものあってのものだ、ということに尽きます!
無為自然と言ったりするように、これは自ずからなるものなのです。自然というものは無理が無い、それは又自由無碍、障るものが無い、滞るものが無い、と言う事が出来るでしょう。
ここで誤解されがちな事は、自然なものにゆだねることは、自分の意志を無にするとか、引っ込めるとか、断念するとかいう事では無い、という事です。それは実に自分の意志を働かせている、ということに他ならないから…
この意味で私は、自分から進んで苦難、不幸な道に赴こうとする…自己犠牲を想起するような生き方には共感出来ません。
しかし、見た目には自己犠牲のように映ることであっても、そこにそうさせる、自己を超えた促しによるものであれば話は別です。
このように、本心からでなしに無理に強いて、神など自己を超えたものに従おうとすれば、必ずネガティブな思い、満たされない思いというものが残ります。
これは自分とその自ずからなるものとが一如になっていないで、向こうに対象的に観ていることでそうなってしまうのです。
本当はある教えを信じられない、受け入れられないのに無理に信じよう、受け入れよう、とする事でも同じ事です。
意念で有識に思いを取り込もうとする、確固としたものにしようとする…精神が滞っていくばかりです。
心に障壁が出来てしまうのです…そういう思いが自分の人生ばかりでなく、周囲にも、あるいは、世界、人類規模にまでも自然な命の流れの障りとなり、滞らせてしまうのです。
本当に無為自然なものに出くわすという事は、無理なく、障りも無いことなのです。
多くの人は何かを掴もうとして、捉われてしまう…捉われている自分を無くそうとして又捉われる…
夕日を掴もうとしているみたいに…
夕日から醸し出されているものは、ここにあるものなのに…
ただ、そこに立っているだけで、自ずとジッとしていられなくなる…