人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

アミエルの日記

2016-11-30 00:02:21 | 人生の裏側の図書室
「私にとっては意識の夜の側面、心理の秘密の部分、精神の神秘な生活が人間生活のもう一つの有り様と等しく確実な実在性を持っていることが明白である」(アミエルの日記)

”これは秋の夜長の伴侶として最適…”と、書いてみようと思っているうち、あれま…季節外れの寒波などあり、瞬く間に今年の秋は過ぎ去ろうとしているではありませんか…
確か去年の今頃もそんな考えが過ったと思いました。(毎年の秋読んでいる気がします)
これじゃ、ずっとこの愛すべき枕頭の書のことは触れずじまいになりそう…
という訳で、私はどうしてもこの本に触れざるを得なくなってしまいました。

「アミエルの日記―全四冊」(岩波文庫)

西欧文学史の中で俗にモラリストと言われる系譜の人たちが存在します。モンテーニュ、パスカル、ラ・ロフシュコー…フランス人が多いですが、彼らがそう呼ばれるような道徳論者、道学者だったという訳ではありません。彼らは多く人生論について語っていたので、モラルとは人生の則みたいなものでしょうか…ぶっちゃけて言うと、箴言とか随想など形式に捉われず書き表す人たちのことですね。
19世紀のフランス系スイス人アンリ・フレデリック・アミエルもこの系譜の人として知られていますが、私はもっとも親しみを憶えています。なんと言っても私とは精神的に類縁のものを感じていますから…
といっても、私とは比べるべくもない一流大学の教授でしたが、生前は周囲からは、あまり自己を主張するでも、感情を露にするでも無く、クセの無い、特色の無い人間のように観られていたようです。J.J.ルソーの研究とか著述も成してはいたが、ほとんど知られていません。
彼の名を後世に知らしめているのは、死後発見されたこの日記によっているのです。その知られざる内的生活に初めて光が当てられ、徐々に評判となり、トルストイにも影響を与えるなど、諸外国にも知られて行ったのです。
して、そこで一口にどういう事が述べられていたかということは…考えるのも言うのもムダという気がします。
一応はキリスト教徒ですが、例えばパスカルのような護教精神のようなものとは無縁で、彼について「先入観の網から脱することは出来なかった」とその批判的な言葉も残しているなど、因習、形式に捉われる事の無い、真の意味での無教会人でした。
あるところで精神的昂揚、パッションの表出も間近か、と思わせるが、仏教徒やタオイスト(東洋的な伝統についても造詣が深かった)のような静謐さで抑えられています。(この面で少しくアンバランス、乱調だったりするのは誰かさんのよう?)
内容は文学、哲学、宗教、心理学、科学、文明批評(博学です)…と多岐にわたっていますが、一貫して楽観的とも悲観的ともつかない内省的なトーンで彩られているのです。
随所に感じられる、一面的観方、定見、先入観からの自由な精神…
これらの多くは表向きの仮面の下に隠されていたものであったのでしょう。
何といっても、それらはこの日記の存在によってのみ垣間見ることが出来るのです。
これが日の目を見なかったら、彼のことなど誰の目にも止まることなく忘れ去られてしまったことでしょう。
もっともアミエルにとっては、元々公にする目的で書かれていない、次の文章に伺えるように意に介すことでは無かったでしょう。
「無限な意識のうちに自己を認め、神の中にあると感じ、神の中に自己を受け容れ、神の意志の中に自己を欲すること…この意識が宿命的であろうと、自由であろうと、これと合一することが善である」(1870年12月6日)
ここに人生の裏側に踏み入れてしまった人間の生き様を見る思いがしてきます。

「とにかく、この生活が何でもなかったとしても多くのことを理解した。この生活が秩序を得なかったとしても秩序を愛したことにはなる」(1875年8月28日)








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為すべきことは成ってくる

2016-11-27 14:31:02 | 詩的文章
こうして何事かを書いてみようと、思い立ってはいても…
書こうとすることが、思い浮かばない時は思い浮かばない…
いくらヒネリ出そうとしても…ますます頭がヒネくれるばかり…
だが…周期的にやってくる、あの追い風の前では…

さあ、ペンを持つんだ…いやリンゴか…いや違った、指をパネルに乗せるんだ
為すべきことを直ちに為すがよい!
読み手のことなど気にするな! 何処の物好きが読むというんだ
書き手のことも気にするな! 書き手も読み手も何が何やら分かっちゃいない!
どっから出てきて、何処へ向かうのか…
寝覚めのあのひと時を覚えているか
ボンヤリとした雲間から落雷のように射抜くあの一閃!
形なき素材…生成の途上…
形に顕れる、その一歩前…
想念のガラクタか、書かれざる聖句か
見えないままでは話にならない
隠されたものが明るみに出されぬことは無い
秘密の秘は”必ず示される”
試しにそこを押して見な!
何にもないところから文字が現れる
人類の歴史は試行錯誤の歴史
歴史の背後に蠢くシャーマニズム
思考の堂々巡りはツルの一声でカタがつく!
思考錯誤は試されなければお前の歴史になりはしない
骨を立てよ!、肉を付けよ!
デキソコナイでかまうものか
この表出の衝動には、全ての勿体ぶりは通用しない
お前がいかな秘密主義者であろうとも…
分かっているゾ!
ゾクゾクとベールが剥されるのに快感を覚えているのだろう…
厳かなる自然の法
芽が出る、花が咲く…ただ顕れ出でるしかない
この風はお前の地殻から吹き上げているのだ
だから…今のお前の現実は…
パネルに指を乗せるしかない
そーら…見栄えは悪いが…形が見えてきた
為すべきことは成ってくるのだ

また一つ、誰も知らない裏通りの道端に
名も知られぬ花が咲く…





















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明日は明日の風が吹く

2016-11-26 12:34:17 | 雑感
この一週間というもの、都心の最高気温20度の日もあれば、観測史上初の積雪となった日もあり、もう体も頭もバカになってしまいそうです。
とにかく寒暖の差が年々激しくなってきているのは確かですね。
風向きというものも毎日、刻々と変わってしまうという感じです。
こんな環境の中である種の行をしている人たちにとり、セルフ・コントロールとか不動心を養うとか、自己練磨に勤しむのはさぞや大変な事だと思います。
私は人生の中でほとんど修行というものに関わったことがありません…ということはこうした男気のある?生き方とは程遠いものだったと言わざるを得ません。
イヤなものはイヤだし、ツライものはツライし、キライなものはどうしたってスキにはなれないし…そりゃあ、”こんな自分を甘やかしてばかりじゃダメなんだ…”と誰かに言われているような気がして、何とか心がけを変えようとしたりもした事が有りましたが、”そうならないものはならない”のです!
いたずらにそうならない自分への嫌悪感をつのらせるばかりなのです。
あるべき自分とそうならない自分とが分離作用を起こしそうです。
そこへいくと甘口?のスピ系などでは、”変わらなくてもいいんだよ~、そのままでもいいんだよ~”と助太刀してくれるみたいですが…
だけどねえ…
”変わる時は変わる!…そん時はそのままでいられる訳が無ーい!”
私はいつの間にか、こういう有り様というものに心身を(習うことなくして)、習わされてきたのです。
だからツライ、イヤなこともあろうが、ずっとそうじゃない…自分の心持も勝手に変わるもの…という意識が芽生えたのです。
つまり…”なろうとしなくたって、なってしまうんだからしょうがないじゃないの!”ということです。
これは何度も触れている、意識を勤めて何かに集中しようとしなくても勝手に向いてしまう、祈ろうとしなくても、自然に手が合わさって、祈らざるを得なくなってしまう…こうした自然(じねん)的ハタラキに預かる、ということの関連で言っている訳ですが、これは”風は吹く時には吹く、明日は明日の風が吹く”と、しばしばプネウマ(霊的なもの)のハタラキは風のそれに喩えられてきたのでした。
それにしても…ここ最近は、喩えじゃなくてホントに”風向きが変わると心境も変わるわい…”という事を如実に実感させられています。
”聞いたことない11月の雪…凍てつくような寒さ…何で仕事なんだよ!…もう、ダメ!手が…足が…寒痛い、チクショー、何て僕の人生は呪われているんだ…”全く克己的じゃない私はネガティブ・オーラ全開です。不動心?…不屈の闘志?…ヤセ我慢したい人はご勝手に…空いばりの闘志なぞ、”とうし”しちまったら元もコも無い!
でも私は知ってます…こんなんは三日も続くわけが無いのです。必ず追い風はやってくるのです。
その時は放っといても閉じた毛穴は開き、祝福された人生を味わうのみです。
このように私は昔から気兆しというものに触れようとする習性があるようなのですが、それは空や雲の動き、とりわけ夕日を見るのが好きだったことと無関係ではないでしょう。
そんなの”全然、主体性ってもんが無いじゃありませんか!”と言われそうですが、チッポケな自分だけからはそういうものは出て来ません。
そして”上より”の追い風に後押しされている時こそは、間違いなくこの人生の主となっているのです。
そうなると受け入れるも何も受け入れざるを得なくなります。
勿論、それは地上の風とは無関係に吹くものです。逆風であろうと、何時もそうなっていることに越したことはないです。
(そうならないのがこのロクでも無いシャバというものではありますが)
要するにいつも無理無く、障りなく、分裂なくということですね…(そうあろうと躍起になると途端に分裂しますよ!)
こうなると、逆説的ですが、いかにもシンドそうな克己的生き方も何だか楽しくなってきそうです。
この時節は否応なしに自己を超えたものに意識が向けられてしまうようです。ニッチもサッチも行かない方は、風を味方にも出来るかもしれません。
それは、なそうとしなくても、なってしまうようになる、ということです。

それにしても、本格的な冬を前にして、この隙間風はなんとかならないものだろうか…

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人生の教師と見えざる導師❷

2016-11-23 13:17:02 | 人生の教師
以前、私には導師というか、特定の師というものは存在せず、私の精神的歩みは”見えざる導師”に依っている、という旨のことを書いた事が有ります。
だが、観方を変えればあらゆる人が師だったとも言えるのです。反面教師のような存在も含めて…
(私はかつてある人に「僕の精神的歩みは誰に依るのでも無い、独学なのだよ!」などと、罰当たりにもウソぶいた事が有りましたが、もう、そういう事は口が裂けても言えないのです!)
その中で五井先生、小池先生、M師、M女史といった方たちとは、彼らが中心となった教団なりグループに定期的に集会に参じるなど、具体的な関わりを持っていたのです。
とは言え、その関わり具合たるや実に中途半端なものだったと言わざるを得ません。
周囲の関係者もさぞや”我々の中にヘンなヤツが紛れ込んでいる…”と思ったに違いありません(笑)
有体に言って、私にはそれらの集まりというのは、ある面であまり居心地のいい場所では無かったのです。
その集まりの中でその教師や教えに関し、無批判な追従的言辞、絶対視する向きに接した時、居たたまれない嫌悪感を覚えたものです。
その理由は今までに沢山書いているのであまり触れませんが、私は彼らの言う”我々の一員”と感じたことはほとんど無かったのです!
他の人は知らないが、私は所謂信者、OO先生を信奉する人間を標榜することも、自覚することも(深く共鳴するということとは全く違うことです)無かったのです。
熱心な信者にしてみれば、そういうイイカゲンな姿勢しかとらない私が、その教師のことを色々書いたりしているのは、おこがましいことに映るかも知れません。
私はただ何処までも定見となるものを遠ざけ、それらから自由でいたかったのです。
これが信従的有り様と不協和音を奏でていた訳ですが、ある人はこういう私の在り方に対し批判的に「君は傍観者だ!」と言い放った事が有ります。
私もそれで”僕はこんな不徹底な事でいいのか?”と煩悶したことも有りましたが、生理的に受け付けないものがあるのだから仕方ありません。
ある人は遠まわしながら「君が信じてやまないものは先生でも教えでも無く、自分のエゴなのだろう…」と言いました。
おそらくその通りでしょう…私はいつもエゴという安全な隠れ蓑をキープしていて、その宗門に身を預けようとしなかったに違いありません。
だが、これらの人たちは、どんな教師、教えも介さずに、自己を超えたもの…あるいはドエライ悪魔に委ねて、境界線を踏み越えてしまった舞台裏は多分知らないでしょう。ここで書かしてもらっている私の中の活火山的なものは誰にも(おそらくM女史以外には)知られていなかったのです。
今の私にハッキリ感じられるのは、そうした契機に巡り合えたのは、特定の宗教的教えから自由だったからだったという事です。
これが私のエゴを、あるいは別のものを映し出しているのか、求道の当初からの我が”見えざる導師”の師風?なのです!
(そしてその声なき音信から”私の時”というものを知らされていたのです)
だが、一方で私は敬愛の念を込めて”見える導師”についても書かせてもらっています。
それは彼らの存在抜きにその契機も無かった、というのも紛れも無い事実だったからです!
それも相対性に陥ることの無い、それはもう安全かつ狡猾なガイド?によって…です。
私はこれら教師についてその熱心な信者とは全く違う視点で書くことが出来ます。
思い浮かべるだけで涙がこみ上げて来そうなほど、敬愛の念は拭い去れませんが、固着したある”像”への拝跪からは自由だったのです。
私はしばしばあの普遍的光の中でこれらの教師方を観ている感を覚えます。
あたかもキラキラ輝く星々があって、それぞれ独特の輝きを放っていながら、そこに一つのユニヴァース(宇宙、普遍)を映し出しているような…
そしてこの地上での彼らとの出会いには見えざる導きというものがありました。
そこには、見える世界と見えない世界の光の架け橋が有るのです…。





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玉城先生の超個的禅定

2016-11-22 13:34:10 | 人生の教師
先日、玉城康四郎先生を敬愛している方のブログを見つけました。
ずっと休眠中のようなので、あまり深く触れませんが、少し気になった点がありました。
それによると、玉城先生は”終地の境地”に達したのであると…
終地とは、言わばブッダの禅定におけるその境地…(大まかに捉えて)初地、中地と続くその道程の行き着くところといったものです。
玉城先生は自身の歩みについて、そうしたことを明言してはいなかったと思われますが、遺著「仏道探究」(春秋社刊)においてその道筋を概観して、そこでそうともとれるようなことを述べてはいます。
(予め言っておかなければならないことは、私は先生について理解が及ばない点が多々あります。
その大きな理由は、私は先生のようにブッダにならっての禅定という求道に勤しんでこなかった、という事です。従ってここで述べることは、全く門外漢からの視点である、ことをお含み入れ下さい)
終地というべきかどうかはともかく、先生の晩年その道程において、大きな転回があったのは確かな事だったと思います。
それは、それまでのダンマが全人格体に浸透し、通徹していた方向が逆になり、「凄まじい勢いで全人格体から大空間に向かって限りなく放散されていった」(同書)というところ、同時に「求め心が抜け落ちてしまった」ところにも感じられて来ます。
これは、成程、ある意味で個的な探究の道の終焉と視る事が出来るかも知れません。
しかし、ブッダの禅定(禅宗のそれとは区別される)が如何なるものなのか詳しくは分かりませんが、先生の仏道の歩みには、それ以前から個的なレベルの求道を超えていたものがあった、と私は理解しています。
これは、悟りというものを個人に帰されるものでなく”ダンマが顕わになる”と捉えている点に…又その言明と切り離すことが出来ない、”業熟体”-いま、ここに現れつつある私自身の総括体であると同時に、ありとあらゆるものと交わっているが故に、宇宙共同体の結び目であるーの発見に見出すことが出来るでしょう。ダンマが顕わになっても、元の木阿弥になり、どうにもならない我塊に突き当たってしまう…この理由もここに存していたのです。
求道者なら誰にでも頷けることでしょう。”いくら悟ろう、目覚めようとしても、中々そうならない…”
これ自体個人のレベルを超えたものであることを物語っているではありませんか? 玉城先生によれば、そもそも業というものが超個的、人類的なものとは言えまいか…個人の手に負えるものでない…ある意味普遍性を帯びたものなのです。
先生は何度も何度もこの業のカタマリを前に苦闘を繰り返してきましたが、これが私には到底理解の及ばない事なのです。
私はしかし…ここにこの忌まわしき業なるものの”ひっくり返し”に身が震えるような驚愕を覚えざるを得ません!
これは彼の世界…オーヴァーソウル(エマソン〉、ソボールノスチ(ベルジャーエフ〉などの普遍調和世界の裏返しではないか!
あなたはいくら求めても悟ることは出来ない…しかしあなたは普遍調和世界、宇宙共同体の結び目であり、そのものと切っても切れない”宿縁”で結ばれているのです。人類的規模の我塊をも貫き、全てを遍く通す光はあなたにも通じているのです!
それは上よりの光となってあなたを射抜き、あなたの宿業に覆われた地殻を破って顕現してくるのです!
悟り、エンライトメントとは全く個人のことでは無いのです!
普遍なるものと切り離されたら、すでにその内実を失うことでしょう。我々は普遍なるものと切り離せないものなのだから…
ダンマ、聖霊は正しく彼の世界からもたらされる…それは又真我の光でもあろう…
そして全人格に充ちた光は普遍なるものに放散、還元されていく…
形の上では個的な行道というものも普遍性と相即するものなのでしょう。
玉城先生に所謂修行系の教師とは一線を画す佇まいが感じられるのはここに在るのです。
そして禅とか自力修行に馴染みの無い私が惹きつけられる理由もあります。
そのある香りに浄土系の仏教に育てられた事を感じさせますが、その求道生活の初期から普遍的なものに向けられていたのを見逃すことは出来ません。
その遺言とも感じる言葉も普遍人類に向けられていました。
「人間はこれまで経験したことのない未曾有の状態におかれた時、どんな思いがけないことが起こるかも分かりません。ただ、明白なことは、寿(いのち)の中の寿は一瞬の休みもなく働き続けているのです。私たちは、大混乱、大動乱の中にあってこそ、揺るぎのない確信をもって、未来へ立ち向かっていこうではありませんか」(同書)






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