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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

霊を信じますか?

2025-07-02 05:32:20 | スピリチュアル?
あなたは霊を信じますか?...

こう尋ねられた場合、一般にはほとんど心霊的なもの、幽霊とかの実在性について問われているようです。
まあ、そういうものを信じるかと言われたら信じますけど...
これとは違う意味で、私はここでほとんど霊のことを書いて来たと言っていいでしょう。何せ、スピリチュアルといったら霊のことなんですから!
もう、信じるとか信じないなんてもんじゃない、感じちゃっているんです。
取り憑かれたか?...そおじゃなくて!
霊の現臨、臨在ということを言い表しています。そう書いているだけでソクソクと感じてしまう。見た訳じゃない、一度も見たことありません。感じるしかない。
感じると、ああ、私はここに生きているんだなあ!、ということを実感出来るのです。そういう実存感覚みたいなものが明らかになるのです。そうでなければ、ただ食べて、寝て起きてという風に漠然と習慣的に生きているだけです。
霊というのは、信じるも何も生きる上の大前提なのです。霊魂とかそういう実体を信じる必要は無い。実存している。それが実存しているから私も実存している。
霊なるものを私なりの定義みたいに言えば、思いを超えたもの、思いを超えたハタラキです。ただ在るものを見て、信じるんじゃなくて、私に直にハタライて来ないと、ただ観念的に抽象的に信じるだけになってしまいます。
霊的な現実、リアリティというものがある。それ無しには現実というものは、我々が考えているだけのものになってしまう。現実とは、私自身のことも世界のことも、そう思われたものを超えているのです。
霊無くして、我々は真の現実から浮いて幽霊のように生きなければならなくなるのです!...え?
それでも、“あなたは霊を信じますか?“、と尋ねますか?
心霊的な意味での霊が実在しようとしまいとどっちでもいいでしょう。(ちなみに言うと、霊なんか私は信じちゃいません!、とムキになって否定する人は、間違いなくそういう実在を信じていると言っていいでしょう。そういう人はその実在をとても恐れている...だから信じているのです)
改めて思いました。私は霊の中に生きているんだなあ...霊的実在(実存)と共に生きているんだなあ!、と。
つまりは、私自身が霊的存在なんだ!
こんなにも、我々の生そのものと切り離されせないほどリアルなものであるにも関わらず、何と同じ霊のこと、霊を信じるかどうかということには、天と地ほどの乖離がある、と感じざるを得ないとキテる。
...というようなことを動画で、乃木坂のるなぴが「私は霊なんか信じちゃいません!」と言っていた(あの顔は間違いなく霊的なオーラを放っていると思う)のを観て思ったのでした。

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見えること、見えないこと

2025-06-15 06:36:51 | スピリチュアル?
瞑想修行をし続けている人の中には、通常見えないようなヴィジョンとか、像が見えるといった、霊視、又同じように通常聞こえないものが聞こえて来る霊聴などの所謂超能力が芽生える体験をする人が居るといいます。
修行者でなくとも何かの拍子にそうなる人も居るでしょう。
私には全くといってそういう体験も無いし、そういうものを求めたこともありません。
そもそも、そういう瞑想修行自体もして来なかったのです。
これはおそらく霊視というものとは違うのでしょうが、就寝中、眠りの浅い時などにちょっと異様な光景、見たことの無いヘンな虫のような生物、そうは思いたくはない、恨めしそうにこっちを睨んでいる人の顔が見えたりすることがあります。
大体、そういう時というのは、ロクな精神状態、意識状態に無いことがほとんどでして、求めるどころか無くなって欲しいと思っているのです。
私はね、もっともっと高い次元のものを求めているのでして、そういう低次元のものに囚われていないのですよ。
神の出現を求めているのです。そんな夢みたいなものじゃなくて、もう、アリアリと現れたまうのですよ。何かモヤモヤした雲みたいなヴィジョンが見えて、それが幕が開くように、開かれると、そからキラキラに輝いていてその姿を現すのです。
そう、それが私がいつも言っている神の原臨に他なりません。...って、そうじゃない!
言ったばかりじゃありませんか、そういうものは見たことも聴いたことも無いんですって!
ただ、雲みたいなものとか輝く姿が現れる、というのはイメージを借りて、そのように描写するけことは出来るのです。それは、思考の雲の層が開かれ、離れて意識的なものが顕わになることを言い表しているのです。
ですから私は、諸々の霊的なヴィジョン、像とかで無くて、神の出現を求めているのです。超能力なんか眼中にありません。そういうものを一度も求めたことはありません。
いや、だから神のヴィジョンも像も求めてません、のです。
それが見えたからってどうなるのですか?
向こうに何かを見て、見ている自分がここに居る。...これは考える対象があって、考える私が居るという思考次元と同じでしょう。
私は神そのものを求めているのです。それは同時にこの私自身が開かれる、超えられることを意味しています。自分は思っていた自分でないことに目覚める...それは、神の現臨と一つとならざるを得ない。
それは、高い次元のことかもしれませんが、私そのもののことに、本来高いも低いもありません。
だから、高次元の境地を求めている訳でもありません。境地とかに囚われていたら“そのもの“からズレてしまう...見えなくなってしまうのです!
宗教、精神的な道に関わるようになって、いつからそういう方向を目指すようになったのか?
五井先生に共鳴し始めた、最初からではなかったか?
それまでは、雲が立ち込めていてよく分からなかったものが、雲間からサーッと光が差し込んだようになったのでした。...



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実存の光

2025-05-26 09:55:16 | スピリチュアル?
私がここでシツコイほど取り上げているあの反面教師画伯が自分のブログで書いている、“神の世界を超えたところに、実存、真我がある云々“、という妄言についてですが、これほど霊性の道にもとる表現は無い、それを愚弄しているとも感じているからに他ならないからです。
これは、自分が“神とも実存、真我とも縁もゆかりもありません!“、と自ら言い表しているようなものではないか?...
そうではあるのですけど、考えてみればこの御仁は、他人の言説を鵜呑みにして、お追従しているしかノウがなく、要するに実存意識のかけらも無い訳で、これまで全く読む気も起こらなかったのですが、その元ネタの宇宙全史では、例えば実存についてどんなことを言っているのか、“知らないとフェアじゃないな“と、試しに読んでみたのでした。
はは~ん、やはりと言うか、なるほど...肉体界、幽界、霊界、神界と来て“実存界“(!)となるんだと!...
実存というのは、見えない世界の段階構造の奥の方にある界層として捉えられていたのでした。全く私には何も見えません!
これでは、現実に生きている我々の実存とはかすりもしないでしょう。
根本的な問題は、実存という実体としては捉えられないものに、実体論として、又自己意識と切り離されない、その実存というものが、類的世界として捉えられていることに尽きるでしょう。
全くそういう神の世界をも超えた世界を空想するしかありません。だから又、そういうことを説いている教師の教えに追従するしかないのです。
こんな実存意識とかけ離れた教説などあるかってんです!...これでは我々の実存は、四大五元素のうちに分解してしまうだけでょう。
しかし中にはDさんという人が書いている文章には、エラそうに言いますが、比較的読めるもの、興味を引き立てるものを感じました。
そこには、やはりその教説に迎合した、定見、固定観念、観念に上滑りした表現も多々見られます。(“元ダマ“なんて言葉が唐突に出てきて何だかワカラン!、魂の元なのか?、分けみ霊?...どうでもいいことですが...)
しかし、少なくとも私には、そこに真摯に真理に向き合おうとする、自己実存に目覚めようとする心の姿勢を感じます。こういう人には私は絶対に茶化した言い方はしません。むしろ応援したくなるくらいです。 
その文章に、“実存は、こういうものだと言い表すことは出来ないものだ“、とあります。これは自身の実存感覚から出て来た言葉だと私は信じます。
私には、そこに彼が、あの実存とかけ離れた幻想世界から自由になる道を既に見い出している、その光を感じてなりません。それが実存の光とも言うべきものです。 
あのグループには教材?となっているような五井先生から学ぶのも、ニサルガ.マハラジ、ドン.ファンに学ぶのもいいでしょう。でも教材はそれこそ、神秘哲学、実存哲学とか外にいっぱいありますよ。この人はもっと学んで、もっと実存的に深められる人だと思いますよ。
あのグループは、カルト的な性格があるのは間違いないですが、洗脳集団のような組織だったものじゃないのは確かです。だから、ああいう教師と信者の共依存のナレアイの世界にはさっさとおさらばして、テキトーに踏み台にしときゃいいでしょう?(余計なことですが...) 
そうそう、T画伯という反面教師のいい見本も居るではないか?(ああなったら終わりなんだ!)
私は、もっともっと世の人が実存の光に目覚め、又その光を絶やさないことを願って、ついこんなことを書かずにおれなくなったのでした。
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負の感情が起きてきたら...

2024-09-13 09:43:50 | スピリチュアル?
いやあ、九月も中旬だというのに、いつまでも真夏の酷暑が続いてますねえ。
当たり前の話、肉体があるから暑いと感じるんです。
それを、短絡思考の宗教、スピの信者がいくら”人間の本体は肉体じゃない、霊身なんだ!”、と信じようとしても、現実に暑いと感じているんだから、それは誤魔化しようのないことで、認め、受け入れないとなりません。
又、普通に生きてる人間なら誰しも、気に入らないことでもあれば、”こんちくしょう!”、と不満を抱いたり、負の感情に囚われたりしますね。
先の人たちなんかは、こういうことにはなおさら、”人間は、本来神と等しい存在なのだから、そういう悪い感情は無いんだ!”と、それを認めまい、受け入れまいという感情に囚われてしまうものです。
特に長い間、信仰、修行をやり続けている人などは、”こんなにやり続けているのだから、そういう思いは克服されてないとイケナイ!”、と懸命に思おうとして、それを否定し、自己の内面に押し隠そうとするのです。
で、”本来悪は無い!”と自分の心の中の悪は否定したつもりになったとしても、世の中で悪いことに暗躍しているであろうような、正体の分からない、サタンや闇の勢力などに実体を思い描いて、その感情を投影していたりするのです。
ギラギラ照りつける太陽をどうすることも出来ないように、悪感情を自分の思いで否定し、消し去ることなど出来ない、自分でそれを克服することは出来ないのです。
私なんかは、これまで何一つ克服したことなどありませんよ!
とにかく、自分の思いで自分の思いはどうすることも出来ない、ってことぐらいは、分からなきゃダメです。現実にでけへんのやから!...
しかし、自分からは分からない...けど、分かるもんがある!...
これが分かるということは、”自分を超えたもんがある”ということが分かるはずなんです。
だから、自分にはダメな肉体感情、悪感情、負の感情があることが分かる、受け入れられるのです。受け入れられたら、消えるというか、少なくともその感情から離れられます。
そういうものは出て来る、感じてしまう、現実にそうなんだからしょうがない!、だけどこういうことで、そのことを引きずらなくなるのは確かなことです。
それを自分で克服しようとして、中々そう出来ない、そうならないことで、”ああ、ダメだ、ダメだ!、こんなことでは!”と、今度は、罪意識という負の感情が積み重ねられてしまうのです。
だから、負の感情が起きてきたなら、自分でダメな自分を克服したり、どうこうしたりしないで、”克服せしめる、超えせしめるもの”に意識を向けたらいい、そう、祈ったらいいのです。
これは、散々自分を変えようとして、どうにもならない苦しみを味わった、という私の経験から言えることなのかもしれませんが、一にも二にも、”神的なものありき”ということに尽きるのです。
これは、肉体がある、負の感情がある、ということよりもハッキリ感じられることです。だからそれから離れられるのでしょう。
増して、思おう、信じようとする、自分の信念みたいなことなんか涼風が吹けば、消え去ってしまうようなものではないか!...

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本来の“本来性“

2024-03-05 09:39:20 | スピリチュアル?
こんなことは、いちいち説明するまでもないことなのですが...
私は本来性に帰ることについて書いていますが、それは現実に人間の原始本来の姿に帰るということを言っているのではありませんよ。
例えば、例の反面教師画伯は、“不食“の実践によって、人間は本来食べないでも生きていける、という機能を取り戻せるとか自身のブログで書いていますが、それだったら人間は、原始の狩猟生活に戻らなきゃならないと言っているようなものではありませんか?(第一、飢餓という極限状態をしのぐことが、何で即本来性の回復につながると言うのでしょうか?)
この御仁は、あまりに本来性というものを肉体、物質次元に結び付け、囚われ過ぎているのです。だからもう言っている、やっていることが現実離れしていて、普通人の在り方から倒錯していると言う他ありません。
勿論、そうしたこと自体、身体の鍛錬とかの意味で否定さるべきではないでしょう。(これをやるかどうかは全く持って人の好き好きですが...)
そして彼は、信奉する五井先生の言葉を借りて、“人間は本来神の分霊“などと言及していることから、その“肉体、物質次元を超えたところから出されることと、それに囚われたことが、どうもごっちゃに理解されているようなのです。
要するに、この御仁、意識次元に開かれるということ、人間の本来性とはそこに根差したものであることがまるで分かってないようなのです。だから肉体を自分の力でどうにかしよう、とかこの“見た目“本来性から離れた現実世界をどうにかしよう、ということにずっと囚われ続けているのでしょう。
“人間の本来性を取り戻すことは並大抵ではありません!“、だと、あったりめ~だろ!...現実に出来そうも無いことなど!...精々最後まで努力精進したらいいでしょう。即身仏(生きたままミイラになること)になる日も近いことだろう...
私がここで言っている本来性に帰るということは、何ら無理の無いこと、自然にまかせることがあるだけと言ってもいいのです。
“意識的になる“という。それは誰しも“本来“から自然になされていることです。意識してみたら分かるでしょう?
何度も言うように、それは自分が思い、為すことではないのです。
それを超えて、在らしめよう、なさしめようというハタラキがあり、それにゆだねたらいいと言っているのです。
努力精進しないと回復できないもの、獲得しないとならないもの...それはここで言っている本来性とは何の関係もありません。
このありのままの自分から一時たりとも離れてあるものでは無いのだから...

前回書いたように、私の精神的な歩みの原点は、五井先生の教えにあると言っても過言では無いのです。
だから、普通に先生の本を読んだりして、共鳴して、何であんなヘンな方向にズレてしまうのかが、アタシャ、テンデに理解出来ません!
先生の教えの中心は、祈りと全託の道にあると言っていいでしょう。
私は普通に、自然にそのように導かれたのですが!...
何度思い返してみても、原点という意味合いでも、そこに本来性に帰らざるを得ないものを感じられてなりません。
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