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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

実存の光

2025-05-26 09:55:16 | スピリチュアル?
私がここでシツコイほど取り上げているあの反面教師画伯が自分のブログで書いている、“神の世界を超えたところに、実存、真我がある云々“、という妄言についてですが、これほど霊性の道にもとる表現は無い、それを愚弄しているとも感じているからに他ならないからです。
これは、自分が“神とも実存、真我とも縁もゆかりもありません!“、と自ら言い表しているようなものではないか?...
そうではあるのですけど、考えてみればこの御仁は、他人の言説を鵜呑みにして、お追従しているしかノウがなく、要するに実存意識のかけらも無い訳で、これまで全く読む気も起こらなかったのですが、その元ネタの宇宙全史では、例えば実存についてどんなことを言っているのか、“知らないとフェアじゃないな“と、試しに読んでみたのでした。
はは~ん、やはりと言うか、なるほど...肉体界、幽界、霊界、神界と来て“実存界“(!)となるんだと!...
実存というのは、見えない世界の段階構造の奥の方にある界層として捉えられていたのでした。全く私には何も見えません!
これでは、現実に生きている我々の実存とはかすりもしないでしょう。
根本的な問題は、実存という実体としては捉えられないものに、実体論として、又自己意識と切り離されない、その実存というものが、類的世界として捉えられていることに尽きるでしょう。
全くそういう神の世界をも超えた世界を空想するしかありません。だから又、そういうことを説いている教師の教えに追従するしかないのです。
こんな実存意識とかけ離れた教説などあるかってんです!...これでは我々の実存は、四大五元素のうちに分解してしまうだけでょう。
しかし中にはDさんという人が書いている文章には、エラそうに言いますが、比較的読めるもの、興味を引き立てるものを感じました。
そこには、やはりその教説に迎合した、定見、固定観念、観念に上滑りした表現も多々見られます。(“元ダマ“なんて言葉が唐突に出てきて何だかワカラン!、魂の元なのか?、分けみ霊?...どうでもいいことですが...)
しかし、少なくとも私には、そこに真摯に真理に向き合おうとする、自己実存に目覚めようとする心の姿勢を感じます。こういう人には私は絶対に茶化した言い方はしません。むしろ応援したくなるくらいです。 
その文章に、“実存は、こういうものだと言い表すことは出来ないものだ“、とあります。これは自身の実存感覚から出て来た言葉だと私は信じます。
私には、そこに彼が、あの実存とかけ離れた幻想世界から自由になる道を既に見い出している、その光を感じてなりません。それが実存の光とも言うべきものです。 
あのグループには教材?となっているような五井先生から学ぶのも、ニサルガ.マハラジ、ドン.ファンに学ぶのもいいでしょう。でも教材はそれこそ、神秘哲学、実存哲学とか外にいっぱいありますよ。この人はもっと学んで、もっと実存的に深められる人だと思いますよ。
あのグループは、カルト的な性格があるのは間違いないですが、洗脳集団のような組織だったものじゃないのは確かです。だから、ああいう教師と信者の共依存のナレアイの世界にはさっさとおさらばして、テキトーに踏み台にしときゃいいでしょう?(余計なことですが...) 
そうそう、T画伯という反面教師のいい見本も居るではないか?(ああなったら終わりなんだ!)
私は、もっともっと世の人が実存の光に目覚め、又その光を絶やさないことを願って、ついこんなことを書かずにおれなくなったのでした。
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負の感情が起きてきたら...

2024-09-13 09:43:50 | スピリチュアル?
いやあ、九月も中旬だというのに、いつまでも真夏の酷暑が続いてますねえ。
当たり前の話、肉体があるから暑いと感じるんです。
それを、短絡思考の宗教、スピの信者がいくら”人間の本体は肉体じゃない、霊身なんだ!”、と信じようとしても、現実に暑いと感じているんだから、それは誤魔化しようのないことで、認め、受け入れないとなりません。
又、普通に生きてる人間なら誰しも、気に入らないことでもあれば、”こんちくしょう!”、と不満を抱いたり、負の感情に囚われたりしますね。
先の人たちなんかは、こういうことにはなおさら、”人間は、本来神と等しい存在なのだから、そういう悪い感情は無いんだ!”と、それを認めまい、受け入れまいという感情に囚われてしまうものです。
特に長い間、信仰、修行をやり続けている人などは、”こんなにやり続けているのだから、そういう思いは克服されてないとイケナイ!”、と懸命に思おうとして、それを否定し、自己の内面に押し隠そうとするのです。
で、”本来悪は無い!”と自分の心の中の悪は否定したつもりになったとしても、世の中で悪いことに暗躍しているであろうような、正体の分からない、サタンや闇の勢力などに実体を思い描いて、その感情を投影していたりするのです。
ギラギラ照りつける太陽をどうすることも出来ないように、悪感情を自分の思いで否定し、消し去ることなど出来ない、自分でそれを克服することは出来ないのです。
私なんかは、これまで何一つ克服したことなどありませんよ!
とにかく、自分の思いで自分の思いはどうすることも出来ない、ってことぐらいは、分からなきゃダメです。現実にでけへんのやから!...
しかし、自分からは分からない...けど、分かるもんがある!...
これが分かるということは、”自分を超えたもんがある”ということが分かるはずなんです。
だから、自分にはダメな肉体感情、悪感情、負の感情があることが分かる、受け入れられるのです。受け入れられたら、消えるというか、少なくともその感情から離れられます。
そういうものは出て来る、感じてしまう、現実にそうなんだからしょうがない!、だけどこういうことで、そのことを引きずらなくなるのは確かなことです。
それを自分で克服しようとして、中々そう出来ない、そうならないことで、”ああ、ダメだ、ダメだ!、こんなことでは!”と、今度は、罪意識という負の感情が積み重ねられてしまうのです。
だから、負の感情が起きてきたなら、自分でダメな自分を克服したり、どうこうしたりしないで、”克服せしめる、超えせしめるもの”に意識を向けたらいい、そう、祈ったらいいのです。
これは、散々自分を変えようとして、どうにもならない苦しみを味わった、という私の経験から言えることなのかもしれませんが、一にも二にも、”神的なものありき”ということに尽きるのです。
これは、肉体がある、負の感情がある、ということよりもハッキリ感じられることです。だからそれから離れられるのでしょう。
増して、思おう、信じようとする、自分の信念みたいなことなんか涼風が吹けば、消え去ってしまうようなものではないか!...

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本来の“本来性“

2024-03-05 09:39:20 | スピリチュアル?
こんなことは、いちいち説明するまでもないことなのですが...
私は本来性に帰ることについて書いていますが、それは現実に人間の原始本来の姿に帰るということを言っているのではありませんよ。
例えば、例の反面教師画伯は、“不食“の実践によって、人間は本来食べないでも生きていける、という機能を取り戻せるとか自身のブログで書いていますが、それだったら人間は、原始の狩猟生活に戻らなきゃならないと言っているようなものではありませんか?(第一、飢餓という極限状態をしのぐことが、何で即本来性の回復につながると言うのでしょうか?)
この御仁は、あまりに本来性というものを肉体、物質次元に結び付け、囚われ過ぎているのです。だからもう言っている、やっていることが現実離れしていて、普通人の在り方から倒錯していると言う他ありません。
勿論、そうしたこと自体、身体の鍛錬とかの意味で否定さるべきではないでしょう。(これをやるかどうかは全く持って人の好き好きですが...)
そして彼は、信奉する五井先生の言葉を借りて、“人間は本来神の分霊“などと言及していることから、その“肉体、物質次元を超えたところから出されることと、それに囚われたことが、どうもごっちゃに理解されているようなのです。
要するに、この御仁、意識次元に開かれるということ、人間の本来性とはそこに根差したものであることがまるで分かってないようなのです。だから肉体を自分の力でどうにかしよう、とかこの“見た目“本来性から離れた現実世界をどうにかしよう、ということにずっと囚われ続けているのでしょう。
“人間の本来性を取り戻すことは並大抵ではありません!“、だと、あったりめ~だろ!...現実に出来そうも無いことなど!...精々最後まで努力精進したらいいでしょう。即身仏(生きたままミイラになること)になる日も近いことだろう...
私がここで言っている本来性に帰るということは、何ら無理の無いこと、自然にまかせることがあるだけと言ってもいいのです。
“意識的になる“という。それは誰しも“本来“から自然になされていることです。意識してみたら分かるでしょう?
何度も言うように、それは自分が思い、為すことではないのです。
それを超えて、在らしめよう、なさしめようというハタラキがあり、それにゆだねたらいいと言っているのです。
努力精進しないと回復できないもの、獲得しないとならないもの...それはここで言っている本来性とは何の関係もありません。
このありのままの自分から一時たりとも離れてあるものでは無いのだから...

前回書いたように、私の精神的な歩みの原点は、五井先生の教えにあると言っても過言では無いのです。
だから、普通に先生の本を読んだりして、共鳴して、何であんなヘンな方向にズレてしまうのかが、アタシャ、テンデに理解出来ません!
先生の教えの中心は、祈りと全託の道にあると言っていいでしょう。
私は普通に、自然にそのように導かれたのですが!...
何度思い返してみても、原点という意味合いでも、そこに本来性に帰らざるを得ないものを感じられてなりません。
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神のリアリティと事実

2024-02-03 09:43:07 | スピリチュアル?
神的なものと共にあることは、愛、平安、リアリティに与ることと言ってもいいでしょう。
しかし、このことは証明出来るものではありません。
愛、安らぎというものからしてそういうものであるのは言うまでもないですが、ここで言うリアリティというのは、普通“考えられている“、現実、事実とは違うもので、前のものと切り離されないもので同じことなのです。
言い方を変えれば、たとえこれらのことが証明されたとしても、あなたはそれに与ることは出来ないのです。
これが神的な、霊なるものと共にある、一つになるということなのです。
然るに、何故に宗教やスピ界隈には、神、霊なるものがあたかも証明出来るような事実として語られたりしているのでしょうか?
その存在性が証明されようと、あなたの内的実存とは何の関係も無いであろうのに!...
神のリアリティは、自己実存に照らせば自明のことなのですから!
この傾向の多くは、宗教的狂信者、カルト信仰などに見られるものです。
彼らは、信じている神、教え、陰謀論などの真実性を客観的事実に求めようと躍起になっているのです。
沈着冷静に科学的事実を証明しようとする学者たちに比べると、はるかに理性は飛んでしまい、肝心のその真実性のことも実はどうでもよくなって、ただ自分が信じたいこと、妄念のトリコになってしまうようです。
妄念とは、有るか無きか、分からないことを有ると頑なに信じ込むことであり、必ずと言っていいほどその出所は、自分が信じている誰かの言葉に過ぎないのです。
要するに、彼らは真実に神的、霊的なリアリティというものを知らず、それと伴う実存的意識というものにも目覚めていないのです。
だから、容易く他人の言動に追従、隷属してしまうのです。
観念に強固に囚われることにかけては、ある面で所謂唯物論者以上かもしれません。
ずっと理性的で、より内的に深まる可能性もある、実存的に神、霊を信じない人間も多く居るだろうから...
だから、たとえ神、霊のことが語られようと、観念の奴隷と化した者ほど、真の宗教、スピリチュアルの道に遠いものは居ないと言うのです。
彼らがどんなに瞑想を、祈りの行を、信仰生活をし続けようと、その形を真似ていても何にもならないのです。
出発点からしてズレてしまっているのでしょう。
このことに意識を向けられないのでしょうか?
言い換えると、ここでは神、霊なるものとは自分自身にとってどういうものなのか、ということを問うてみることです。そうすると、意識的になったりするのです。
自分が自分に...というのが難しいのであれば、そう、神に問えばいい!
勿論、誰かが言ってる神じゃなく、あなたの神に!
祈りも瞑想もこのことからズレてはあり得ないでしょう!



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囚われなければいい!

2023-12-02 09:28:47 | スピリチュアル?
瞑想修行などでは、クンダリーニと呼ばれる、ある種の生体エネルギーやチャクラと呼ばれる、そのエネルギーの焦点のようなもののことが取り沙汰されています。
それを意識すればいいのだとか?...私はそういうものに携わっていないのでよく分かりません。
ただ、一説ではクンダリーニは、寝ている間に自然に表れ、上昇するらしいのです。それにより体温も上昇するのですが、それ自体は、クンダ...云々ということでなくとも生体科学などでは普通に言われていることです。
そして、ある種のバイブレーションが発動することで、得も言われぬ至福感を覚えるのだとか?...単にストレスが発散するためだけではないらしい?
一方、チャクラというものに関して、それはエネルギーの共鳴が起こる場所なんだとか?
これは今も盛んに鳴り響いている耳鳴りなどは、正にそれらしいのです。
それは又、守護霊などが感応しているシグナルみたいなものだ、ということもスピの世界ではよく言われていることです。
こういうことは、私もずっと前から知識としては知っています。
“だから、そういうものに意識を向けていればいい!“...という訳ではありません!
むしろ、知ったらそうしないですよ!
だって、それは私が思い、為そうとすることでしょ?、意識するとか言うけど、自分の意志想念でコントロールしようとすることでしょ?
寝て起きたら、体が温まっている、体だけじゃない、霊体も?、いや何だか分からないけど、そういう分けられない一体的なものに暖かさを感じます。
そういう場合は勿論至福感が伴っています。これは間違いない!
そうでない場合は、冬でもないのにやたらと寒かったりします。悪い夢でも見たんでしょうか?
又、耳鳴りというのは(これは勿論、高音の“き~ん“の方)、意識がより明晰になっている状態のバロメーターみたいなものです。これも間違いない!
しかし、こういうことはあくまで付随的なことなのです。
そういうエネルギー的なものに意識を向けるのではありません!
神的なものに向ける(向けるというのは、やはり適切ではありません、向けられるんです!)...神はイコール、エネルギーではないのです!、もっと包括的なもののことを言っているのです。
まず、何よりそれは愛である。エネルギー自体は様々だし、常に愛が伴っているとは限らないし、どう変質するかも分かりません。
そして神は、意志想念で操作など出来ないのは言うまでもありません。
朝起きたら幸福感でいっばいだった、ということも、耳鳴りはその臨在の印であることも間違いないのは、そこに神的なものを感じているからなのですよ!
クンダリーニでもチャクラでも(名称は色々あるんでしょうが)本末を間違えなければ、とても参考にはなります。要するに囚われなければいいのです。間違いない!


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