私がここでシツコイほど取り上げているあの反面教師画伯が自分のブログで書いている、“神の世界を超えたところに、実存、真我がある云々“、という妄言についてですが、これほど霊性の道にもとる表現は無い、それを愚弄しているとも感じているからに他ならないからです。
これは、自分が“神とも実存、真我とも縁もゆかりもありません!“、と自ら言い表しているようなものではないか?...
そうではあるのですけど、考えてみればこの御仁は、他人の言説を鵜呑みにして、お追従しているしかノウがなく、要するに実存意識のかけらも無い訳で、これまで全く読む気も起こらなかったのですが、その元ネタの宇宙全史では、例えば実存についてどんなことを言っているのか、“知らないとフェアじゃないな“と、試しに読んでみたのでした。
はは~ん、やはりと言うか、なるほど...肉体界、幽界、霊界、神界と来て“実存界“(!)となるんだと!...
実存というのは、見えない世界の段階構造の奥の方にある界層として捉えられていたのでした。全く私には何も見えません!
これでは、現実に生きている我々の実存とはかすりもしないでしょう。
根本的な問題は、実存という実体としては捉えられないものに、実体論として、又自己意識と切り離されない、その実存というものが、類的世界として捉えられていることに尽きるでしょう。
全くそういう神の世界をも超えた世界を空想するしかありません。だから又、そういうことを説いている教師の教えに追従するしかないのです。
こんな実存意識とかけ離れた教説などあるかってんです!...これでは我々の実存は、四大五元素のうちに分解してしまうだけでょう。
しかし中にはDさんという人が書いている文章には、エラそうに言いますが、比較的読めるもの、興味を引き立てるものを感じました。
そこには、やはりその教説に迎合した、定見、固定観念、観念に上滑りした表現も多々見られます。(“元ダマ“なんて言葉が唐突に出てきて何だかワカラン!、魂の元なのか?、分けみ霊?...どうでもいいことですが...)
しかし、少なくとも私には、そこに真摯に真理に向き合おうとする、自己実存に目覚めようとする心の姿勢を感じます。こういう人には私は絶対に茶化した言い方はしません。むしろ応援したくなるくらいです。
その文章に、“実存は、こういうものだと言い表すことは出来ないものだ“、とあります。これは自身の実存感覚から出て来た言葉だと私は信じます。
私には、そこに彼が、あの実存とかけ離れた幻想世界から自由になる道を既に見い出している、その光を感じてなりません。それが実存の光とも言うべきものです。
あのグループには教材?となっているような五井先生から学ぶのも、ニサルガ.マハラジ、ドン.ファンに学ぶのもいいでしょう。でも教材はそれこそ、神秘哲学、実存哲学とか外にいっぱいありますよ。この人はもっと学んで、もっと実存的に深められる人だと思いますよ。
あのグループは、カルト的な性格があるのは間違いないですが、洗脳集団のような組織だったものじゃないのは確かです。だから、ああいう教師と信者の共依存のナレアイの世界にはさっさとおさらばして、テキトーに踏み台にしときゃいいでしょう?(余計なことですが...)
そうそう、T画伯という反面教師のいい見本も居るではないか?(ああなったら終わりなんだ!)
私は、もっともっと世の人が実存の光に目覚め、又その光を絶やさないことを願って、ついこんなことを書かずにおれなくなったのでした。
これは、自分が“神とも実存、真我とも縁もゆかりもありません!“、と自ら言い表しているようなものではないか?...
そうではあるのですけど、考えてみればこの御仁は、他人の言説を鵜呑みにして、お追従しているしかノウがなく、要するに実存意識のかけらも無い訳で、これまで全く読む気も起こらなかったのですが、その元ネタの宇宙全史では、例えば実存についてどんなことを言っているのか、“知らないとフェアじゃないな“と、試しに読んでみたのでした。
はは~ん、やはりと言うか、なるほど...肉体界、幽界、霊界、神界と来て“実存界“(!)となるんだと!...
実存というのは、見えない世界の段階構造の奥の方にある界層として捉えられていたのでした。全く私には何も見えません!
これでは、現実に生きている我々の実存とはかすりもしないでしょう。
根本的な問題は、実存という実体としては捉えられないものに、実体論として、又自己意識と切り離されない、その実存というものが、類的世界として捉えられていることに尽きるでしょう。
全くそういう神の世界をも超えた世界を空想するしかありません。だから又、そういうことを説いている教師の教えに追従するしかないのです。
こんな実存意識とかけ離れた教説などあるかってんです!...これでは我々の実存は、四大五元素のうちに分解してしまうだけでょう。
しかし中にはDさんという人が書いている文章には、エラそうに言いますが、比較的読めるもの、興味を引き立てるものを感じました。
そこには、やはりその教説に迎合した、定見、固定観念、観念に上滑りした表現も多々見られます。(“元ダマ“なんて言葉が唐突に出てきて何だかワカラン!、魂の元なのか?、分けみ霊?...どうでもいいことですが...)
しかし、少なくとも私には、そこに真摯に真理に向き合おうとする、自己実存に目覚めようとする心の姿勢を感じます。こういう人には私は絶対に茶化した言い方はしません。むしろ応援したくなるくらいです。
その文章に、“実存は、こういうものだと言い表すことは出来ないものだ“、とあります。これは自身の実存感覚から出て来た言葉だと私は信じます。
私には、そこに彼が、あの実存とかけ離れた幻想世界から自由になる道を既に見い出している、その光を感じてなりません。それが実存の光とも言うべきものです。
あのグループには教材?となっているような五井先生から学ぶのも、ニサルガ.マハラジ、ドン.ファンに学ぶのもいいでしょう。でも教材はそれこそ、神秘哲学、実存哲学とか外にいっぱいありますよ。この人はもっと学んで、もっと実存的に深められる人だと思いますよ。
あのグループは、カルト的な性格があるのは間違いないですが、洗脳集団のような組織だったものじゃないのは確かです。だから、ああいう教師と信者の共依存のナレアイの世界にはさっさとおさらばして、テキトーに踏み台にしときゃいいでしょう?(余計なことですが...)
そうそう、T画伯という反面教師のいい見本も居るではないか?(ああなったら終わりなんだ!)
私は、もっともっと世の人が実存の光に目覚め、又その光を絶やさないことを願って、ついこんなことを書かずにおれなくなったのでした。