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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

一なるものの顕現

2025-03-30 05:41:53 | スピリチュアル
神と一つになる...
“自己があって、向こうに神があって一つになる“、なんてことをイメージしてしまうものですが、それは我々が二元世界に生きていると感じているので、どうしてもそのような言い方になってしまうのです。
本当は思い、為そうとする我々がそうなろうとしてもなりようがありません。
神と人が統合するというよりも、思いを超えて元々統合された、一なるものが顕現するということがあるだけなのでしょう。
人間が在り、神が在るのでなくて、神人が在るだけである(ベルジャーエフ)
だから、我々が修行したりして、肉体を超え、思いを超えるということではない...そのものが顕わになることで、肉体があって、思考があって生きている(それは正にそう考えられているに他なりません)と感じなくなるのです。
だから、肉体を超えたら霊体のようなものが表れ、そういうものになるということも無いのでしょう。それが霊肉二元論というものでしょう。
霊肉に分離出来ないものに目覚める...
だからだから、我々は神というものを想定したり信じる必要は無いのです!...って話にはならないでしょう!
そうして、非二元スピで説いているように、我々は元々肉体を生きているんじゃない、神(と思われているもの)と一つなんだ!、ということを信じたりするのでしょう?
実際は、肉体が在ると感じているものを、殊更否定したりする必要も無いのです。
二元的なことを信じようが、一元的なことだろうと同じなのではありませんか?
だから、その3乗で、そういう思いを超えたものを頂かないとならないのです。
そのものに顕わになって頂く...自分から超えよう、それと一つになろうとする必要は無いのは言うまでもありません。
いつも言うように、そのことを意識するだけで、そのものが顕わになる、なって来る、開かれて来るのです。
一なるものが顕現する...我々がそれと一つになるのではなく、それにあって一つになる!...
一なるものが臨む...そこに切々とした“望み“を感じてなりません。望みは一つ!
それは、二つあるものが一つになる、ならしめられる...
一元でも二元でもない、愛そのものと言ってもいいでしょう...。


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日本の神人思想

2025-03-29 07:15:48 | 日本的霊性
禅を中心としながらも、枠に囚われない自由な視点からやさしく霊性の道を説いておられる、立花大敬先生は、特に幕末の時代に相次いで生まれた、黒住、金光、天理などの教派神道の諸教にも深い共感を寄せておられるところに私は興味深いものを感じています。
何故か、明治に生まれ、その教派の分類には外れていますが、明らかにその法統を継承していると思われる大本教のことはあまり取り上げられていないようです。
大敬先生の愛読書の一つは、金光教の教祖、金光大神こと川手文治郎師の伝記だそうですが、大本教は、金光教の一支部から分かれたもので、ご存知、その「金神」という神観も受け継いでいるのです。
先生は、この一連の神道教派の流れを日本的霊性のルネッサンスとし、私と同じように、鈴木大拙師が唱えた、鎌倉仏教だけが日本的霊性の発露では無いのだ、と捉えているようです。
私はその流れに又「日本的メシアニズム」の顕れを観ておりまして、そこでは、神は祀られてばかりでなく、顕現し、啓示して来る...親しく人間と関わり、交わり、あたかも聖書の世界で、旧約から新約に見られるメシアニズムのように、“救済神“という側面を強く表し、その救済の法途として経倫、神仕組みを打ち出すのです。
それは、大本の出口王仁三郎師の登場により、ハッキリとその性格が表れ、頂点に達したと言えるでしょう。
先の金光大神の伝記で金神は「氏子あっての神、神あっての氏子であるぞ」と文治(教祖)に親しく告げています。
この言葉など、19、20世紀ロシアの哲学者、ソロヴィヨフやベルジャーエフらが説えた、そのキリスト.メシア待望と結びついた、“神人思想“と全く相通ずるものが感じられます。
「人間に神が必要であるように、神も人間を必要としている」「神の国の成就は、神人の協調に拠る」(ベルジャーエフ)
いつも言っているように、独り人間が存在すること、実存することにおいても、それは自己を超えた、神的なもの無しにはあり得ないでしょう。それはそう在らしめるものがあるということなのです。
そういう響きを通して、私はそのように神が臨み、切々と“望んで“おられるのを感じずにおれません。
私において、神と一つになることは、私の“神の国の実現“に他ならないのです。
一人一人のそれが、我々の神の国の実現につながるのは言うまでもありません。
わが国においては、その幕末から明治にかけて派生した、一連の神道の流れは、救済神待望と同時に神人が相依り、相成す時代の到来を告げる、日本的神人思想の発現だった、と言えるでしょう。
それは、金光大神に告げた金神の啓示の言葉である、それまで“祟り神“として恐れられていた神が実は人間と切り離されないものであるようにも、直接つながるものであることに端的に示されています。
その点、大本開祖、出口なお刀自の“艮の金神“のお筆先の言葉には、“人民三分になるぞよ、どんなむごいことが出体してもしれんぞよ...」と裁きの神の側面も多々感じられますが、別の面でそれは神人の「持ちつ持たれつの世」の到来を告げるものであり、出口聖師に顕れ、働いた救世主神に和合したように、型は示されているのです。
神人協調の神の国の成就には、一人一人が恐れることなく、神と親しく、向き合うことから始まるのでしょう…。
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神の憐れみ

2025-03-27 04:02:33 | 
前回書いた、思いのがんじがらめ状態の苦境に陥った時というのは、実は私が初めて“人生の裏側“に踏み入れた、あの至福の瞬間から僅か一年と少ししか経っていない、昭和59年秋の頃から翌年春までの半年間のことだったのでした。
何で又、そんなことになってしまったのか?、ということはこれまで幾度か、色んなことを書いたのですが、今ではごく単純にハッキリ言えることがあります。難しいことは要らない!
それは、私の思いを超えた神からの恩寵に与ったことの他の何ものでも無い、ということなのです。
それで、今生で味わえないような、そういう悟りのような体験を得たことで、頭がノボセ上がったということはありましたよ。
しかしそれは、なんてこたあない!...その神からの恩寵というものを素直に、ありのままに受け入れていなかった、ということを如実に示しているのではないか?
どこまでも、それは私がどう感じ、思ったかということでなく、神にあってのこととして受け入れる他無いではありませんか?
そうして、あんなことが私如き人間に与ろうはずは無いのだ、とどっかで疑念がもたげ、打ち消そうとしたのでは無かったか?
そうして又、それに対して神が、“恩寵を受け入れようとしないなら、それから見放されることがどういうものなのか知るがよい!“、とそのような状態に私を置こうとされたのだろう、なんてことも思ったりもしたのでした。
しかし...その思いを遮るようにも、その私を超えたものへと、向き合わそうとするものがもたげて来るのです。
そこに、何か言い知れない、深い哀切に満ちた響きが伝わって来ます。神は、というよりわが主は、私が主から離れてしまうことをとても悲しみ、憐れむように、その声なき声をもってこのように告げているようなのです。...

“子よ!、お前はこの世の時間の世界に戻り、私から遠ざかってしまったのか?
本当にそんなことを感じ、思っているのか?
子よ!、私はここに居る!...いつだってここに居るんだよ!...私を見なさい!、受け入れなさい!...あの出会いの瞬間のように!
お前が目覚めていようと、再び眠りに着こうと、私は変わらず愛を与え続ける...
いつ、お前に罰を与えようとしただろうか、裁こうとしただろうか?
おお...こんなに真向かいにお前に臨んでいるのに、何故分からないのか、見ようと、受け入れようとしないのか!
罰とか裁きの思いは、お前が私から隠れよう、逃れようとする思いが作り出すのだ!
何故ありのままに私を受け入れ、わが愛に浴しようとしないのか?
感じるだろう、伝わるだろう!
そうだ、分かるだろう!...幸福は伝わるもの、交流するもの...お前が本当にそれを感じたのなら、それはお前を超えて伝わるだろう!
この私の臨在を通して!...“

誰がこれを読んで、幸福を感じるかは知る由もありません。
しかし、私はこのように書いていることが幸福でならないのです。
私が幸福であることは、何がしかの交流がそこにあるということに他なりません。
あの御方の臨在を通してそれが伝わるように...
だから、私は一コの私を超え出てしまうように、今日も性懲りもなく、こうして書かざるを得ないのです!...

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それだけを求めて

2025-03-26 06:17:15 | 回想
ここで書いていることは、精神的な道に関わることで、私が如何に素晴らしく変わったとか、成功を手に入れた、というようなことではないのです。
私は相も変わらず、ヘタレなダメな人間だし、しがない底辺の生活をしている人間にすぎないのです。
とにかくそのように自分の性格、生活を変えよう、自分をどうこうしようという気が無いということが根本的な問題、ダメなことなのでしょう。全然進歩の無い人間と言われても仕方ありません。
それで人生楽しいか、幸福なのか?、と言われたら...う~ん...楽しいですよ、幸福ですよ!
“幸福だなあ!“ということはやっぱりいつも書いてますよねえ...ほら、今だってこうして書いていることが幸福なのですよ!...でなきゃやりません!
それは、断じて私が自分からそのように変えようとしてどうなった、こうなった、ということでは無いのです。
私が本当に伝えたいことは、そのように変えせしめるものがある、それは全くこのちっぽけな自分を超えたものだ、ということなのです。
私という人間は変わらなくても、私の土台はいつの間にか変わってしまった、ということは言えるかもしれません。
思い返せば、私は昔から自分から自分を変えよう、克服しようとしてこなかったのです。
私には昔から、悩み苦しみがあるとずっとその思いに引きづられ、がんじがらめになるという鬱病のようなところがありました。
それは、今でもそういう性向はあるということなのですが、今ではずっとそのような状態が続くということはちょっと考えられません。
そういう苦境から何とか抜け出したいと、思い方を変えようとか行動しようとしなくても、自ずと思いは神的な方に向いてしまうからです。そっちからそうさせようとするものを感じる。
しかし、あの時はそうでは無かった!...それは熱心に精神的な道を求めるようになってからのそうした苦境にあったある時のことでした。
その時、神的なものの臨在、その恩寵というものを感じる、それに与るということは無かったのです。
それを切に求めるという気持ちはあったのですが...自分から自分を変えようという気持ちは無かったのです。それは今と同じだったのです。
これを思うと、当時の私のことを思うと、もう!...“お前はなんてヤツなんだ!、どうしてそんな苦しみを自分で抱えて、その苛みにひたすら耐え忍ばなければならなかったんだ!、そこから抜け出そうとしなかったんだ!“...と、当時の私に言いたくなるのですが...
私はね、自分をどうこうしようとするんじゃなくて、正にその神の現臨、恩寵、それだけを求めていたのです!
“そういうものは必ずある!“、と愚直なまでに信じていたのです!
“バカじゃないのか!、あるか無いか分からないものを信じてたって!...でも、どうしてもこうしてもそれはあると言うのか?...そこの世界中の苦悩を一人で背負っているような青白い顔した君!“
“あるだろ!、あったじゃないか!、そこの相変わらず見栄えのしない、変わり映えのしないオッサン!“
“ほ、ほんまや!...お前無しに今の私は居ない!...全くお前はなんてヤツなんだ!“

と...私はそういう人間だった、いや今でもなんですが!...“主よ!、どうして臨んで、現れてくれないのですか?“、と空しい祈りをしていたようなのですが、精神的な道に関わるようになって、どっかでその臨在、恩寵というものは覚えられていたのです。
いや、あの時というのは、それは覚えられていたのだけれど、いつの間にかそれを失ってしまって、しばらくしてからのことなのでした。“あれは感じられないではないか!、あれはもしかして幻想だったんじゃないだろうか?、でも私は信じるしかないんだ!“...というその強い信念のもとに...
その信念はどこから来るのでしょう。いや、それは私の信念なんかでは無い!、私の土台から来るのでしょう!
私はそういう人間ということなんでしょう。神の恩寵無しには全く何でも無い人間...
それでいいのか、悪いのかは分からないが!...こうなってしまったのだからしょうがない!...
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それでも太陽は東から上る?

2025-03-24 04:50:29 | 哲学・思想
先月初め、ここで「ホントの真理?」という記事で、“地動説という科学的真理は知ってるけど、私は地球が太陽の周りを回っていると感じたことは一度も無い!“、というようなことを書いたのでした。
そこで、そういう真理を知ることと、実際に感じていることは別のことだ、ということを言ったのです。
“万有引力の法則“でも、ガラスのコップが落ちて割れてしまったことを、いちいち引力でそうなったと思う人は普通は居ないでしょう?
それを、“それは錯覚なんですよ!、真実はね...“、な~んて“科学万能の法則“みたいなことをしたり顔で言われても、現実にそう感じちゃってんだからしょうがないですよ。それを無視してそれだけで通してしまうことは、別の観(感)点で錯覚というか、顚倒した在り方と言わねばならないでしょう。
頭では誰しもそういう真理のことは分かっているのですよ。それを否定するということではありません。
それを疑う人はあまり居ないでしょうけど、頭で分かって、頭で疑うことは出来ます。要するにそのように考えられていることなのです。
考えられていることは、ヘンな人なら否定したり、ネジ曲げることは出来ますが、現実に感じていることは誤魔化しようがありません。(だからこっちが真実だ、ということには勿論ならないですが...)
“現実に感じていることは誤魔化しようが無い!“...これは思考を超えた次元では絶対的なことと言ってもいいでしょう。といっても“絶対的真理“ということでは無いですが...その性質上、頭で知る真理というものは、直感的感性の前には後退せざるを得なくなるのです。
定理なんてものは、感じないので感じ方は人それぞれでしょうが、自己と自己以外の事物、世界との関係として、それは分離したもののように感じない、ということがあります。
私なんかは、世界は自分の周りを回っているように感じたりもするのです。
おそらくは、“ああ、今日も太陽は東から上る“、という感覚は、どっかでこの感覚が反映されているのかも分かりません。
自分が世界の中心なんだ、いや私が世界、宇宙なんだ!...自己中心!、悪いか?
私が“ここに在るから世界は在る、私が無ければ世界など無い!“、とは私が初めて人生の裏側に入り込んだ時、感じたことなのでした。
といっても、それは言うまでもなく、考えている“私だけ“という意味ではありませんよ。本当に、現実にそう感じられますか?
現実に、この生の真っ只中に感じられることは、そのここに在る私は、霊なる太陽みたいなところからのすべてを照らす光によって在らしめられている、それと切り離されては居ないということなのです。これは疑いようがありません。(その太陽のようなものは、東から上って西に沈むようには一度も感じたことは無いですよ。見えないし!)
このリアルな現実無しには、世界はリアルなものには映らないのです。
これが考えている私だけでない、裏側を含めたすべての私の真理なのです。というか、真理というものは感性と離れては無いのです。
そう感じちゃうんだからしょうがない!...

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