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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

覚醒、悟りの理解

2025-06-17 03:41:03 | 覚醒
霊性の道の中には、所謂悟りには幾つか段階があり、覚醒とか一瞥体験と呼ばれるものは、中途の段階であり、その先に真の悟りというものがあるという意味のことが説かれる向きがあります。
まず、そういう段階のようなものがあるとして、それに囚われないことが重要であるのは言うまでもありません。
大体において、こういう段階を想定したりするのは修行の道、修行者から見た場合と言ってもいいでしょう。
私は何度となく、何が真の悟りか、ということはさて置き、ただ一つ大きな段階というのは、思考次元、思いを超えて、純粋意識が開かれることを言って来ました。
そこから先の段階を目指そうにも、自分の意志想念によって進めることは出来ず、その思いを超えた神的な導きにゆだねるしかないのだ、と。
いや、その思考から離れ、超える(無くなるという意味では無い)ということ自体からして神的な恩寵に依るものなのではないか?
その覚醒と呼ばれるものが、思考を超えて純粋意識に目覚めることであるならば、それは自力の及ばない恩寵の賜物と言っていいのです。
それはある場合、仏教学者の玉城康四郎先生が“精神的爆発、茫然自失“、と呼んでいた如く、人生が一変するような著しい感覚を伴うものもあり、“囚われるな!“という方が無理とも思えるくらいなのです。
その思考を超える大きな段階の初発には、こういった著しい体験を伴うことも多いようです。
そして、玉城先生も言われるように、それも数日後には元の黙阿弥になってしまうこともよくある話です。
先生は、それが又ぶり返し(二度目以降は“初発“の時よりも規模は大きくないのが普通)、又元の黙阿弥になることを何度も繰り返していたそうですが、これは本当は黙阿弥となって消え去ってしまう訳では無いということを物語っているのでしょう。何度もそういうことがある訳なのですから!
そこで消え去るように感じるのは、その体験そのものに囚われてしまうからでしょう。
私は一度意識次元に目覚めるならば、表層では分からないながらも意識の内奥では、それは種火のようなものとして刻印されるように感じています。(それが一時の幻想に過ぎないものか否かはそれで分かるでしょう)
要するに、それが一時の爆発体験で終わったように感じるか、ずっと内奥に息付くものとして
感じるかは、こちらの理解度、理解の深浅、それをどう受容したか、によるものと思われます。
悟りの段階を云々する向きは、一時的な覚醒体験とその先の持続的な、安らいだ意識状態は別個のものとして捉えられているようですが、私はそれは一連なりのものではないかと思っています。
何にせよ、それは神的なハタラキ、恩寵から来るものに変わりは無いのです。そういうものに中途だとか、もっと進んだ段階があるとか、こちらで何かはからいを交えて判断したりするのは、ズレているという他ないでしょう。与えられなければ最初から何も無いのですよ!
そういう体験が自分の意志努力で成されるものと思うならば、そりゃ幻と消え去るしかないでしょう。“出来た、得た、達した!“、と思うのが幻想に過ぎないのですから!
それについての理解、受容とは、正にそれは、我々の思い、力を超えた、神的なものから来る!、ということに尽きるのではないでしょうか?!
そのことと切り離された体験のように捉えるから消えてしまうように感じてしまうのです。
囚われるとは、思いに囚われるということであり、神のハタラキ、恩寵に与ることこそがそれから自由にされることに他なりません。
どこまでもその超えた方に意識を向け、思いを開いていることが肝心なのです。
所謂悟りの道には、思いを超えるという大きな関門の前には、幾つかの段階的な進路というものもあるかもしれません。
しかし、その超えられた先には、諸々の囚われを超えて、神への全託の道があるばかりなのでしょう!...

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悟りに至るただ一つの段階

2025-05-14 04:11:16 | 覚醒
悟りにはいくつかの段階があって、それを登りつめると、究極の最終解脱というものがある、と言う向きがあります。
一体、誰にそういうことが分かるのでしょうか? そういう境地に達したい、と思い描いている人は居るでしょう。無上の高きに、究極まで進んだ境地...それは正に思い描かれた世界ではないか?
度々書いているように、私は最終解脱とかいうものは、エゴ.マインドが作り出した幻想だと思っているのです。
ただ、悟りの道の中で、ある決定的な段階というものもあるのは確かなことでしょう。いや、段階というのはそれしかなく、そっから先は分からないのが本当じゃないかと思います。
それは思考、意志想念を超えた段階のことです。これについては何度も触れていますが、多くここで書いている、例えば神の現臨にある状態というのは、それだけでは、そう感じていても思考は後退こそすれ、思考機能が働かなくなることは無い訳ですが、本当にそうなってしまう、私が“神の手に捉えられる“、と呼んでいる、著しい意識の覚醒状態というものもあるのです。(こんなことがずっと続いたなら、普通に日常生活が送れなくなるでしょう!)
これは極端な例ですが、そうでなくとも思考が超えられる段階がある、ということは、特に瞑想修行の道では普遍的に知られていることでしょう。
こういう意識状態にあって、その上に、その先に高い、進んだ段階があったとして、あなたはどうそれに対処したらいいのか、何を為し得るというのでしょうか?
為そうとするのは、思考、意志想念から出て来るのですよ。それは、あの天来の神の一撃を受けてみたらハッキリ示されることなのです。
そもそもは、そういう思考、意志想念を超えた段階そのものが自分のそれを超えた、神的なもののハタラキによってなされるもの、ということを知らねばなりません。
あなたに為し得るものは何も無い!...瞑想修行はそこで終わるのか?
その意味で、この段階は、修行、探求の一応のピリオドとみることも出来るでしょう。(自分の力で為した訳では無いが...)
しかし、それが最終段階かどうかは分かりません。私を超えたもの、神がどう導くのかは分からないからです。それは分からない!...それは神にゆだねられている!...あなたはゆだねるしかないのではないか?!
悟りには種々の段階があるというのは、相対的に考えられたものであり、それが超えられた先には、絶対なるものに託されることがあるだけなのではないでしょうか?
だから、宗教、霊性の道には、神、仏、タオ、大いなる命...名称はともなく、真の意味での信仰、帰依ということが古来より普遍的に伝えられているのでしょう。だから又、祈りと瞑想は切り離されないものだ、と言うのです。
思い、為そうとする自分だけが自己なのでは無い。言うまでもなく、霊性とは、自己を超えたもの、内なるものを明らかにすることで開かれるものです。
それは、どこまでも、すべての私の主に尋ね、導かれるものなのでしょう!...



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誰のための目覚めか?

2025-01-08 05:37:47 | 覚醒
精神的な目覚め、覚醒、悟り...
それは誰のため?
分かりきったことじゃありませんか?
私やあなたのためでしょう?
ブッダはこう説いた、こう悟った...だからそれに従わないとならない...
ラマナ.マハルシの教えに従わなければならない...
勿論、そういうものは指針にはなるものだけれど、ブッダやラマナと私は置かれた環境も時代も違うのですよ!
私は私自身に目覚めるしか無いのです。
自己実存に目覚めること無しに、覚醒というものはあり得ないのです。
何段階かの階層を登りつめ、完全覚醒を目指すとか...そんなことは所詮他人事では無いか?
他人の言葉の受け売りに追従してるだけ!
段階的覚醒も完全覚醒も、私やあなたが目覚めることと何の関わりがあるというのでしょうか?
いくら他人の教えに従おうとしても、本当に自分に得心しなければ、自分の中に入って来ません、通ってゆきません。
いや、従うべき対象があり、従う自分が二つになったままではどこまで行っても得心することは無いでしょう。
目の当たりに自分自身にまみえるということが無いのだから!
何かになろう、何かの境地に至ろうとしている限りは!...
それはあなたがそう思っているだけということでしょう?
だから、覚醒というものは、他人事の世界の支配から目覚め、自由になることを置いてはあり得ないのです。
私が私自身に目覚めるだけ!
自分自身に向き合い、受け入れる気の無い者は、ずっと夢を見続け、幻想を追いかけているだけ!
自分自身を受け入れることは、一コの、考えている自分を超えた、全的、まるごとの自分を受け入れることに他なりません。
それは、ずっとここに在り続けるもの...
何故ここから離れて、別の世界に探し、求めなければならないのか?
何故、自分以外の何かになろうとするのだろうか?
いや、一コの自分を超えたあなた自身があなたを求めているのではないか?
ずっと、その手はあなたに差し伸べられているのではありませんか?
あなた自身の神に聞いてみられよ!
その気の無いものに、あなた自身の目覚めは決して開かれることは無いと知るべし!...

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生ける真なるもの

2024-12-18 09:34:11 | 覚醒
「真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネ伝第八章)

私は長い間、この聖句についてどうもピンと来ないものを感じていました。
真理を知ったからといって、そんなに自由になれるものなのか?、ちょっと抽象的では無いのか?、と。
それが最近、手島郁郎先生の最晩年の聖書講話「ヨハネ伝講話第三巻」(手島郁郎文庫刊)を読んで、“なるほど!“、と開眼される思いにさせられたのでした。
それによると、この真理とあるのは、ギリシア語の“アレーセイア“の訳で、“理“という意味合いよりも“隠されていない、アリアリとした、根底的な、疑うことの出来ない“真“、生きた真なるものというものを言い表しているとのことです。
何か対象的に向こうにあるような真理を追い求め、得ようとするよりも、生ける真の方が実存に切り込んで来て、顕わになるようなことを伝えているのです。
真にそれは、「“真理“を知るではありません。“真“を知るです」(同書)
これはもう、覚醒、悟りというか、エンライトメントに与るような状況を物語るものと言えるでしょう。
真にそれは、我々に自由を得させるものでしょう。
自由...それは、この世の諸々の縛り、思い込み、何よりも我々の自我性からの自由であろう!
真に、悟り、エンライトメントというものは、自分の思い、力に依るものでは無く、生ける真なるものにあって、それに与ることそのもののことであるのです。
アリアリとした、根底的な真なるものを真向かいにして、我々もどんな包み隠し、はからい、誤魔化しも無く、真の姿に在らしめられざるを得なくなる...それは真にありのままの自分、隠しようの無い自分で無くて何であろう!
如何なる覆いも無しに、ありのまま、映し出されるままであることは、どんなに自由で、幸福なことであることか!
これ、自分を常に正しくあろうと、進んだ、高きにあろうと、そう、悟ったつもりになろうと、自分を偽り、取り繕うとしている人間には、絶対に、永久に分からないことでしょう。
そういう人間は、悟り、真にあることとは、全く程遠いものであることを知らねばなりません!
一コの人間が、修行などを重ね、努力した末に真我になるのでは無い!
よく考えてみたら、感じてみたら分かるではありませんか?
誰が真我になると言うのか?
本当の自分とは、いつも自分を偽って生きている人間がいつも背を向けて、向き合おうとしない自分のことに他ならないのです。それは神の真に向き合うことと同じでしょう。
それは、生ける真なるものと離れてあるのでは無い!
そして、それは寸時も離れてはいないのでは無いでしょうか?...
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神無くして目覚めは無い

2024-11-06 09:09:29 | 覚醒
悟りや覚醒の道においては、神といったものについて触れているうちは、中途の段階であり、そういうものは越えて行かなければならないという向きがあります。
私はまだそんな境地に“達したことなどない“ので、達観したことなど言えないのですが、そういう人たちは一体どうしてそんな境地に達することが出来たのか、私には全く理解出来ないのです。
その神というものが、想像上のある実体を思い描いているものならばいざ知らず、考えている人間が自らその悟りの条件とも言える、思考から離れることなど不可能なはずですよ。
そのために瞑想修行などがある、とか言うのでしょうが、それでその越えせしめるもの、自己を超えたものそのものにつながるかどうかは分からないのです。
こういう観方、感じ方には私は、自分の意志想念、努力によってそういう境地を目指し、達しようとする思念に囚われているのをどうしても感じてなりません。
そもそも、古くから禅の師家なども説いているように、そういうものは断念されねばならないものなのではないですか?
私が初めて精神的目覚めらしきものに与ったのは、全く予期していない、思いがけないことで、勿論その境地に達しようなんて気持ちなど全然無かったし、又、その神的なものにそのことを祈っていた訳でもありませんでした。
ただ、その神的な現臨が予期せずに臨み、それが私のすべてを覆い、浸透するに任せるより無かったのです。
しかし、それはおそらく中途の段階だったのでしょう?...数日の内にその感じは消え去り、元の黙阿弥になってしまったのでした。
で、そっからは、それがあまりにも素晴らしく幸福なことだったので、そうです!...その境地を目指し、達しようとしたこともありました。
しかし、それで一度たりともそんな境地に達したことは無いのです。だから自分で達することは出来ないことを“悟らなければ“ならないのです!
又、その至福の状態に囚われることからも“解脱“する必要があるでしょう。
要するに体験、境地に囚われていてはならないということ!...それは、そうならしむるものあってのものだ、ということにならないでしょうか?
現実にそうなんだから仕方が無い!...その後も何度かそういうことになったりしましたが、そこには必ず神的な現臨が伴っているのです。これは祈り、それに意識を向けることで呼び覚まされるということはあるのですよ。
だから私には、神的なハタラキ無しに悟りや目覚めがあるなんてことは考えられないことなのです。
それは、人間は本来一個なる自分が生きているのでなく、それを超えたものとのつながりにおいて生きている、それが本来の在り方ということを意味しているのでしょう。
何より自然にそう思え、感じて来るし、そこに落ち着かざるを得ないではありませんか!?...
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