玉城康四郎先生は、不死の状態にも導かれる非日常的な、所謂覚醒、変性意識状態について、以下のように述べておられます。
「それはまったく意識ではないのだろうか。...明らかに意識であるということができる。意識として意識されていることは明白である。しかしながら、"意識されている状態"として観念化されることは不可能である。観念化はつねに過去的なものである。対象化され得るものであり、分節的なものである。
それに対して、ここにいう非日常的意識そのものは、過去も未来も、その意味では現在も消失してしまっている、絶え間なき現在であるということができよう。それは確かに意識されているものであるには違いないが、いささかの反省をも拒否する。停まり得ないもの、意識されつつある動態性そのものである」(生命とは何かーブッダを通しての人間の原像/法蔵館刊)
これは、今日のノンデュアリティで語られるものと多く重なるようですが、よくもまあ、こんな言葉に言い表せないことを的確に述べられるものかと、感嘆する他ありません。
それが、どうしても表現することが困難な大きな理由である、思考が超えられ、そのハタラキが及ばない事態のことをこのように代弁しておられるのです。
あるいは、絶えることのない生成、創造...捉えることが出来ないi...その様相もヒシヒシと伝わってきます。
別の意味で表すことが困難なのは、それがあまりにも"自分のことでありすぎる"からでしょう。
これは、我々の日常において"私"について認識されているものが、如何に私そのものと直接性を持たない、蓋然的なものの反映であるか、ということのパラドックスでもありましょう。
あまりにも自分に直接的なものは、対象化することが出来ず、相対化も超えられてしまうのです。
玉城先生はそれを「相関性を踏み越える全人格的なもの」(同書)としていますが、短絡的に受け取ってしまう人は、こうした変性意識状態というものは、日常的な、思われた自分がそのままでそうなるものと錯覚してしまうようです。
思われた自分は、どこまでも表層意識しか認識していない、部分的人格に過ぎないのです。
それは限りあるものであり、寿命が来れば死に絶えるしかないものであるのは言うまでもありません。
全人格は全く個我的認識の有り様では無いのです。では、これは真我、アートマン的なものなのでしょうか?
玉城先生によれば、観念化の抽象性を含む場合はそうでなく、「自己性の没滅している果てしなき命であると意識するならば、まさにそれはアートマンそのものである」(同書)とされています。
部分的人格は、明け渡しというプロセスを経て、始めて別なる全人格的な生の有り様に与ることが出来るのです。
この事実に昏いものは、飽くことを知らず強めて行く自我性にまかせて自滅の道をたどるしか無いでしょう。
しかし、この変性意識状態というものが、すべてこのような相対を超えた、描写的表現を超えた有り様かというと、そうも言えないものもあるのです。
根本的に言葉を越えているものとはいえ、私の経験では、"部分的"には、思い描くように言い表せるような意識状態というのもあったのです。
それはその相対を超えた、根本的な状態とは異なっていたのは確かだったと思います。
ただ、この相対性を超える(それは取りも直さず思いを超えるということです)事態が示されることは、精神的な道において決して、蔑ろには出来ないものでしょう。
「それはまったく意識ではないのだろうか。...明らかに意識であるということができる。意識として意識されていることは明白である。しかしながら、"意識されている状態"として観念化されることは不可能である。観念化はつねに過去的なものである。対象化され得るものであり、分節的なものである。
それに対して、ここにいう非日常的意識そのものは、過去も未来も、その意味では現在も消失してしまっている、絶え間なき現在であるということができよう。それは確かに意識されているものであるには違いないが、いささかの反省をも拒否する。停まり得ないもの、意識されつつある動態性そのものである」(生命とは何かーブッダを通しての人間の原像/法蔵館刊)
これは、今日のノンデュアリティで語られるものと多く重なるようですが、よくもまあ、こんな言葉に言い表せないことを的確に述べられるものかと、感嘆する他ありません。
それが、どうしても表現することが困難な大きな理由である、思考が超えられ、そのハタラキが及ばない事態のことをこのように代弁しておられるのです。
あるいは、絶えることのない生成、創造...捉えることが出来ないi...その様相もヒシヒシと伝わってきます。
別の意味で表すことが困難なのは、それがあまりにも"自分のことでありすぎる"からでしょう。
これは、我々の日常において"私"について認識されているものが、如何に私そのものと直接性を持たない、蓋然的なものの反映であるか、ということのパラドックスでもありましょう。
あまりにも自分に直接的なものは、対象化することが出来ず、相対化も超えられてしまうのです。
玉城先生はそれを「相関性を踏み越える全人格的なもの」(同書)としていますが、短絡的に受け取ってしまう人は、こうした変性意識状態というものは、日常的な、思われた自分がそのままでそうなるものと錯覚してしまうようです。
思われた自分は、どこまでも表層意識しか認識していない、部分的人格に過ぎないのです。
それは限りあるものであり、寿命が来れば死に絶えるしかないものであるのは言うまでもありません。
全人格は全く個我的認識の有り様では無いのです。では、これは真我、アートマン的なものなのでしょうか?
玉城先生によれば、観念化の抽象性を含む場合はそうでなく、「自己性の没滅している果てしなき命であると意識するならば、まさにそれはアートマンそのものである」(同書)とされています。
部分的人格は、明け渡しというプロセスを経て、始めて別なる全人格的な生の有り様に与ることが出来るのです。
この事実に昏いものは、飽くことを知らず強めて行く自我性にまかせて自滅の道をたどるしか無いでしょう。
しかし、この変性意識状態というものが、すべてこのような相対を超えた、描写的表現を超えた有り様かというと、そうも言えないものもあるのです。
根本的に言葉を越えているものとはいえ、私の経験では、"部分的"には、思い描くように言い表せるような意識状態というのもあったのです。
それはその相対を超えた、根本的な状態とは異なっていたのは確かだったと思います。
ただ、この相対性を超える(それは取りも直さず思いを超えるということです)事態が示されることは、精神的な道において決して、蔑ろには出来ないものでしょう。