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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

願うこと

2025-04-29 06:32:59 | 祈りと瞑想
宗教的な道では、これこれの信仰や修行をしなければならない、などと言われます。
数多あるそれらの中から自分で選んでそれに打ち込む...そこから始めなければならないのでしょうか?、そうして 霊性が開かれるのでしょうか?
如何にも何かを考え、やろうとする人間がそうするように...
私には、そこに肝心なことが前提として抜け落ちている気がしてならないのです。
それは願い、願うこと!...当たり前の話です。最初のことだから、自覚もあまり無いだろうし、漠然としたものとならざるを得ないでしょう。
“神のこと、本当の自分のことが知りたい!“...宗教的な道では、大体がこれらのことに関わるものでしょうが、微妙な言い回しながら、それが知識欲だけでなく、願いとして起こって来ることによって、その道が開かれるようになるのではないでしょうか?...否、もうそれは開かれていると言ってもいいかもしれません。
願うということは、既に考え、為そうとする自分を超えたものに意識が向けられている、ということなのだから!
これは考えている自分が何かの信仰、修行をしてみようか、などという行き方とは、根本的に違うことと言ってもいいでしょう。
それは、他人からそうしなければならない、と言われる筋のものではありません。全く自己の内奥からの、主体的な在り方なのです。これが無いならば、人伝の信仰、修行などがあっても何になるでしょうか?...何年、何十年やってても無駄でしょう!
願うということは、祈りの根本にあるものです。何の、何の宗派の祈りでは無い!...あなた自身の、あなたの神、主なるものへの祈りです。
私はよく意識を神に向ける、とか言っていますが、この言い方も先の“しなければならない“式に受け取られてしまうかもしれません。だからいつも“おのずと意識が向いてしまう“とか付け加えたりしているのです。こっちが本当なのです。
願うというのはそういうことなんです。それは神なのか?...何か分からないけど、人間は無神論者でも、自分に行き詰まったら、自分の限界に付き当たったら、何か願わずにおれないものでしょう。
願いを漠然と思うことでなく、もっと意識的になることでより深いものになります。
そして、そこから意識的にそのものにつながることもあるかもしれない...霊性が開かれるとは、このことを置いてはあり得ないでしょう。
それは、思い、為そうとする人間だけからは決して開かれない!
そういう自分の限界を示された者には、最初から開かれているのではないか?
そうとは知らずに知識としてで無しに、神的なものがどういうものかが示されているのです。
そこに願いを促しているものが感じられて来ないでしょうか?
自分の思いを超えた願いというものがある。これが親鸞さんが説いた弥陀の本願と関わるものでしょう。
願うことは、私の本心からの願いとわが主の願いと一つになることに他ならないでしょう!...




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名付けられない神は絶対!

2025-04-27 05:56:17 | 
私は在る...
私は肉体でも、精神でも無い
ただ、私という意識だけが在る
それは一コの私を超えている
私は、在りて在るものと共に在る
それは神だろうか?
それを信じる必要は無い
ただ、それが在るだけ...
何の神、何の信仰、宗教宗派も無い
何の相克も無い
平安あるのみ...
特定の信仰、思想、修行などはすべてそう考えられたもの
考えられたものは、すべて相対的なもの
何故、“これのみが正しい、これしかない!“、と固執しなければならないのだろうか?
そう考えている自分だけが在る!
そこに何を信じようと、何が語られようと神は居ない!
神に祈るという人間が“私が祈っているこの祈りしかない!“、と言う...
一体、何に、何を祈っているのだろうか?
相対的なものが絶対的なものに取って代わって、“これが絶対的なもの!“、と主張している
そこに神は生きていない!
神を全く知らない人間が神に取って代わる
絶対的な救いが絶対的な破滅に取って代わる...
考える人間のこの暴走を食い止めるものは...
相対世界には存在しない!
相対を絶したもの...
何の神ではない、名付けられない神!
在りて在るもの、私は在るとしか言い表せない神!
私の思いを超え、超えせしめるものは、絶対的にそれしか無いから!...









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真の精神性

2025-04-25 06:48:57 | 哲学・思想
宗教や哲学、スピリチュアル、精神世界...私はこれらを総じて精神的な道と言ったりしています。
しかし、ただ観念に浮いた言葉だけが上滑りしているような言説や、“私が信従している教祖はこう言っている、教典にはこう書かれている“、と主体性も無く、“お追従“を繰り返しているだけのものなどに精神性というものは何も伝わって来ません。私なんかはもう、そうしたものには生理的に受け付けない感じになっています。
そこには中身が、血と肉となるものが感じられないのです。この意味でそれらは、身体性から切り離されている、と言ってもいいでしょう。
切り離されている、通っていない...身体性と言い表しているものは、そのように生命が通ったものということなのです。
この精神の命となる、その立つ地盤、通る通路とは何か? 哲学的な“考え方“では、主体的に考えることと言ったりするのかもしれませんが、これはですから既に浮いた状態に陥りやすい、又陥った状態ともなるものでしょう。(哲学は、特に近代哲学は、コ難しい論理の追求ばかりに終始しているようですが、何が構築されて、何が解体されるのか分かりませんが、私にはどこにも立脚しない、通過しない哲学など、ヒマ人の知的遊戯のようにしか思えません!)
このもの無しには、精神性は生きたものにならない...いつもそれを前提として考えられ、具体的に感じているにも関わらず、それを言い表す言葉が無いとキテるではありませんか!
はっきり言えることは、それは思考を超えた、あるいはその根源にある、意識の領域に関わるものだということです。
しかしながら、これまで精神は、思考、考えることと同一化されて理解されていたのではないか?...言い換えると、如何に意識というもの、意識的になることに意識が向けられて来なかった(ややこしい!)、ということを物語っているということでしょう。
意識的になることは、霊性が開かれること(これが即ち思考が超えられること)につながります。(この霊性、霊の事態も意識的なものから切り離されると、“心霊的“なものに浮いてしまうという始末!)
このように思考だけの精神には、精神性は見い出されるべくもありません。この点、容易く思考と同一化されやすい日本語よりも、英語(ラテン語とか他の西欧の言語もおそらくそうでしょう?)の“SPIRIT“の方が、精神、霊の両義を伝えるものとして、本来性に根ざしたものと言えるでしょう。
要するに、宗教や哲学やスピがある、というよりもスピリチュアルでない、宗教、哲学、そのスピなんちゃらも無いのですよ!
ご存知のように、宗教には宗教的独善に伴う、宗教対立という問題があります。又哲学は先のように観念に上滑りし、スピの道も浮遊霊のように浮いたものになります。
精神は、固まるか、浮くかしてしまうらしい...そこに精神性など何も感じられない!
つまり身体性、霊性と切り離された精神性というものは無いのでしょう。
精神的な道とは、真の精神性を明らかにする道でなくて何でありましょうか?!...




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物質、精神、霊性

2025-04-23 06:19:56 | 哲学・思想
私は以前には、人間というものは肉体があって、精神があって...又宗教や精神的な道に関心を持つようになってからは、その奥に霊体のようなものがある、と普通に考えていました。(というより、そう誰かが説いていたことを真に受けていただけなんですが...)
そして、いわゆる物質主義、唯物論というものは、物質、肉体しか認めようとしない、それでは精神性、霊性に開かれることがないから、そっちに心を向ける必要があるのだ、とこれ又普通に考えていたのです。
しかし、よく考えてみたら、その物質主義、唯物論というものは、そのように“考えられている“思想的なものだ、ということが分かるのです。当たり前の話、それは精神の産物なのですよ。
ということは、唯物論というものがあれば、唯心論というものがある、精神主義というものもあるだろう...観念論とか。つまり考えられた思想的なものだったら、説かれることは違っても、出所は同じということなのですよ。
私の今の感覚では、唯心論、精神主義的な考え方というものは、唯物論よりもリアリティというものを感じません。観念論というか、観念に浮いたものには何にもそういうものは感じないのです。そう考えられ、言っているだけのものではないか?、と。
一方、唯物的な考え方というものは、普通の人間は見えるものしか、そこに“在るもの“を認識出来ないものだから、一理はあるように思えるのです。“霊とか神とか分からないものは持ち出すな、“っていうご意見もしごくもっともだとさえ思えます。
思想、観念に浮いたものは、全くどうともならないと感じてしまうのです。
しかし、私は宗教、精神的な道というのは、霊性に開かれることが重要であるのを疑い得ません。
これが先の物質、精神という捉え方の延長のように、霊性主義のような思想的なものに過ぎないものだったら、もう欺瞞にしか感じません。
物質、肉体があり、その奥に霊体があるという捉え方は、心霊主義と言われるものでしょう。(それを否定してる訳ではありませんよ!)
考えられた、主義化された霊性なんていうものは話になりません。それは(何度も言う)思いを超えたところに開かれるものなのだから!
それは、物質のように“モノがあるように“は感じられません。
しかし、この私そのもの、肉体として在る、考えている私も含めた私が、“ここに在る“ことを意識するならば、そうした限定された感覚は超えられてしまうのではないでしょうか?
そこには、肉体、精神というものに分割出来ない、丸ごとの私が感じれて来ないでしょうか?
そこに思われた私は超えられている!...霊性に開かれるということはこのことを言っているに他ならないのです。 そして、そこに霊なるもの、神的なものと仮に言い表すものは、それを開顕させるもの自体でもあるのです。
これは、観念に浮いたことでなく、実に具体的な感覚を伴うことを言っているのです。ある意味では身体的と言ってもいいかもしれません。
しかし、それは肉体に限定されることの無い、超越的なものと一つの実存感覚を内包したものです。
無限定である故に、私には霊体と言われるような“体“的なものは感じられませんが、具体的なものではあります。言葉に言い表せないものですが、強いて、便宜的に言えば、それは“統合体“のようなものでしょうか?
おおっと、あまり考えてはならないのでした。
意識するのです。感じるのです。そうさせるものを!...



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自己中心と自己実現

2025-04-21 06:06:58 | 求道、探究
自分自身を意識する
自己の内面に意識を向ける
ありのままの自分を認め、受け入れる...

こうした心的、意識的な在り方が如何に大事なことか、ということは何度も書いて来ました。
しかし、この自己、自分自身のことというのは言葉で言い表すととんでもない誤解をしてしまうものでもあります。
例えば、自分自身を意識する、意識を向けるというのは、自己中心になることなのか?、といったように...
意識的になっている人には、自明なことなのでしょうが、普通に言われるこの自己中心な在り方というのは、まったくそれとは正反対な在り方と言えます。
いわゆる自己中心的な人間は、自分の内面に意識を向けることは中々出来ないし、ましてありのままの自分を認め、受け入れることは尚更と言ってもいいでしょう。
彼らは(といっても、私も含めて誰でも自己中心性を背負って生きているのですが)真っすぐにありのままの自分に向き合うことが出来ず、正しい自分、進んだ自分...現実にそうなっていない自分の虚像をいつも思い描いているのです。
そこには常に他者の目が意識されています。他者からそういう自分を認めてもらいたいと思っている、だから現実の自分、ありのままの自分は知られて欲しくない...何故ならば内心はサンタンたる自分と思っているのだから!...
ですから、こうしたネットとか外向きに発信された場で、そういう承認要求を満たすようなことを言い表しているのです。
だけど、誰でも否応無しに自分だけの、自分として在る場というものは在るもの(ややこしい!)でしょう。当たり前の話…。
そう在ることが何の虚飾も無い、ありのままの自分であり、本当は認めるも、受け入れるも無いようなことなのですが...
そして、そのありのままの自分を意識している人なら分かるでしょう。その自分は自分が思っている、思おうとしている自分では無いということが! 正しい自分も悪い自分もサンタンたる自分も無いのです。
そして、そこに他者の目では無く、その自分を映し出している、ある自分を超えた光の照射みたいなものが感じられるはずです。それが自分の思い描いた虚像を粉砕してしまうのです。
自己中心的な人間は、それが何よりも恐ろしく感じているから、ありのままの自分に向き合えない...それは神に向き合ないということと同じなんだ!(神がそんなに裁き主のように恐ろしいものなのかどうかは向き合わなきゃ分かりませんぞ!)...彼らにも信仰的な者も居る...いや多くの信仰的な人と言ってもいいだろう...彼らの語る神を信じるという言葉は、思い描いた、口先だけのものでしか無いのです。
自分自身を意識する、ありのままの自分を受け入れるかどうか、ということは言うまでもなく、自己実存が開かれる、つまり自己実現がなされるかどうか、ということに尽きるでしょう。
自己実現は、自己を超えたもの無しには開かれない...自己認識と神認識は一つのこと!...
いつも書かされていることですが、この一つのことがいよいよ明らかになって来た(本当の最後の審判は近い?!)のを身に覚えて、そう書かずに、否在らずにおれないのです!...
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