人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

魂の望みと眩惑

2017-09-28 16:33:56 | スピリチュアル
前回の続きのようになりますが、ノンデュアリティというものには、"これが本当の..."といった、括りつけなど不可能なものでしょう。
だから、自称非二元論者がいっぱい居る訳ですね (笑)
"これが本当の..."と決めつけたら、そうでなくなる訳だし、"勝手に言ってれば"という他ないですね。
ただ、その究極の行き着く先には、本当に個的なものは、永遠の虚無へと解消されていってしまうものでしょう。
これを"究極の悟りだi"と言いたい向きもあるようですが、そう信じたいように悟ったという個人は永遠に居なくなるのです。
こういうのは、私という個人が無くなったように"感じたこと"を伝えているのです。つまり感じている人がそこに居なければならないのです。
これをぶっ越えて、本当に自分を消し去ろうと躍起になったりするのは、もう狂気の沙汰という他ありません。
そう駆り立てているのは、優劣の意識に捉われるなどして、究極のものに肖りたいというマインドでしょう。(私はネットか本で、そうした言辞に触れて、一気にノンデュアリティへの関心が冷めたことがあります)
そうなる手前で挫折するのは幸運というべきで、心身に異常を来すことにもなりかねません。
あるいは、表層では分からない魂の方が、そう望んでいるのかも分かりません。これは極端な例でしょうね。
もっとも我々は皆人生のあらゆる面で、魂が望むままに歩まされているのかも分かりませんが...

所謂ノンデュアリティの多くは、その境地に愛や幸福が満ちていることを伝えています。(でなきゃ誰も関心を寄せませんよね)
それは永遠の虚無というものとは全く違うニュアンスのものです。"幸福ある天国"の消息です。
くどいようですが、そう感じてる人が言っている訳ですが、その語り口からは、苦しみに満ちたこの現実世界からの解放という願望が感じられます。
私はある瞑想会で、瞑想に深く入り込んでしまって、爆睡なんてどころでなく、なかなか覚めない、起きないという事態になってしまった例に接したことがあるのですが、インド辺りでは瞑想に入ったまま、野垂れ死にしてしまうケースもままあるように聞いてますし、そういう例も少なくないようです。
そういう人というのは、どういう意識状態なのかは、なったことが無いので分かりませんが、(一概に言えることじゃないですが)あっちの世界に惹き付けられしまって、この現実に戻ることが困難になってしまうのでしょうか?
これとは違いますが、"戻れなくなるかもしれない"という契機にあったことはあります。人生の裏側に入り込んでしまった時のことですが、本当に"このまま果ててしまっても構わない"と感じたものです。
こういう話というのは、この現実世界の有り様に照らせば、実に危険な香りのするものですが、魂のレベルのことに照らせば、私には善悪、正邪の判断は決めかねるものがあります。
ミタマの因縁によっては、現世に戻らない運命を歩まされるものもあり得るのでしょう。
その場合では、表層意識では、避けられない運命のようなものとして示されるのかもしれません。
しかし、魂の内から来るものでなく、外からの惑わしであることもあり得ることで、今日では、自殺者の増加やノンデュアリティの流行などに伺えるように、現実世界から離れようとさせる見えない動きが強くなってきているようです。
私の場合、今こうして居られるということは、魂はこの世にとどまることを望んでいたということでしょう。
ああなっていた間、ずっと"見えざる導師"と言葉を越えた内的な交流がもたらされていたのですが、導師からは"(裏側の)ここに居れ"とも"(表側)に帰れ"とも促しを受けませんでした。私の自由意志にゆだねられたようなのです。
ただ、日常の意識が戻りつつあった時(これは私が望んだことに他なりません)、こう告げられたことは、強く魂に刻まれています。
"如何なる時も私につながっていなさいi、私がお前と共にあることを忘れないでほしい..."

今、ここに居る皆さんは、ここに生きていることにこそ、意味があり、魂が望んでいることに違いないハズです。
そのことをなおざりにして、いたずらにあっちの世界に眩惑され、委ねてしまうことは、自己の魂への裏切りになるでしょう。
頭の中のきらびやかなものでなく、ハートに尋ねることが大切なのです。
私にはそれは"身に覚えられていること"と共にあるものなのです。

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幸福なき天国

2017-09-26 16:53:17 | スピリチュアル
「厳の御霊の大神のみを認めて、瑞の御霊の大神を否むがごとき信条の上に、安心立命を得むとするものは、残らず高天原の圏外に放り出されるものである。かくのごとき人間は、高天原よりかつて何等の内流なきゆえに、次第に思索力を失い、何事につけても、正当なる思念を有し得ざるに立ちいたり、ついには精神衰弱して...餓鬼、幽霊のごとくなってしまふものである」(出口王仁三郎「霊界物語第47巻.愛と信」)

大本では、出口なお刀自が取り次いだ厳の御霊と、出口聖師が主として取り次いだ瑞の御霊という二つの神格を表しています。
両者が統合されたイヅノメの御霊(聖師が取り次いだ)というのもあったり、詳しく書いていくと迷路に入り込みそうになるのですが、単純に前者は霊系、後者は体系ということとされています。
これは我々が直接知ることの出来ない、神的ハタラキの側面を神話的表現を借りて言い表しているのでしょう。(こういうものは、伝えられていることに囚われないで、"借りる、仮のものとする"という心の姿勢が大切なのです)
聖書的に前者をエホバ、後者をキリスト(実際に聖師はそのように比定しているところがあります)をイメージすると分かりやすいかもしれません。父なる神、万有の主宰神、統治神と、母なる神(聖書の宗教には無いが)、子なる神、救世主、救済神の違いということになるでしょうか...
私はこのブログで神的なものを、愛、幸福、平安といったものと結びつけて語ってきました。
それは、神的なものが"私がここにある"という、私の真実と一点たりとも切り離されていないからこそ言えることなのです。
本当の疑うことなき実感というものはそこから生まれるのです。愛と平安の実感こそが救いというものではないでしょうか?
そこには宇宙の法則とか、ある一なる力の支配といったものへの直接的感受は出てこないのです。
もし、どうにも救いようのないこの私が、万有を治めている、宇宙法といったものに照らされるならば、愛と平安に預かることなど到底あり得なくなることでしょう。
私は愛なる神によって支配され、そのものにゆだねられるのですi 
そのものによらずば、私はどこにも導かれることもなく、もはやここに生きてなど居ないでしょう。
もし覚醒、エンライトメントというものが、そのものによらずなされるとしたら...(私にはそれ自体考えられないことなのですが)、おそらく今日流行のノンデュアリティでない、実質的な非二次元的領域に行き着くでしょう。
そこには、そう感受出来る自己も無くなるゆえ、苦悩も無ければ、愛も幸福も平安も無いでしょう。そして自称非二次元論者の標榜する、宇宙的全体、一なるものと一体になるといった境地すらも...
おそらく...(消えたハズのものが最近、元メイドさんによってそのブログが復活した)故エンライトさんはそこに踏み入れてしまったのでしょう。
彼が何度も自称非二元論者が、この辺りのことを曖昧なままにして、安易に"個は居ない、全体があるだけ..."と、空虚な天国へと誘導しようとすることに警鐘を鳴らしていたのはよく分かります。
それが実質的に行き着く先は、死人か廃人の世界でしょう。
これは、ことの善悪ではなく、この現実世界に生きている、生かされているという当たり前の見地から言っているのです。
愛や幸福というものは、この"私はここにある"という現実から離れてはあり得ないのです。
そしてこの世にある人間で、それを求めぬ者など居るでしょうか?
私が現臨と呼んでいるものが、直ちに大本で言う瑞の御霊なのかどうかは分かりませんが、言えることは、それはこの二元的現実と一元的彼岸、個的なものと普遍的なものをつないでいるものです。
このもの無くしてワンネスと一つになるということも無いのです。「私を見たものは父を見たのである」(ヨハネ伝第14章)
それは神的な愛の内にあるものです。この事が蔑ろにされ、空や無になることばかりが一人歩きする時、幸福なき天国、永遠の虚無への誘惑が忍び寄るでしょう ...。
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裁きの場へようこそ

2017-09-24 10:13:23 | 独語
あなたは一体何でこんなところに来てしまったんですか?
道に迷ってしまったんですか?
ここで何が行われているか分かっているのですか?
おや、震えてなさるようだ。ウスウスお分かりのようですね。
そうですよ。世にも恐ろしい裁きですi
世の裁きの場では、人に知られる限りでのものが明るみに出されるだけですが、
ここでは、あなたの人生の、あなたの全てのことが、ことごとくあの全てを見透す目に照らし出されてしまうのです。
あのやってしまった悪行の数々、恥ずかしいこと、汚いこと ...誰に顔向け出来ようか...
何処にも逃げ場所も、隠れ場所もありません。
あなたはこの恐怖に耐えられるだろうか...
だが...あなたには最後のチャンスが与えられている。
もうすぐ使いがやって来て、あなたを強制的に裁きの場へと送るだろうが、
それまでにあなたは、ありったけの力を振り絞ってその裁きを拒むことが出来るのです。
それが、あなたに残された最後の自由意志だ。自由意志というものの重みをいやというほど思い知ることだろう。
人間は絶対に刃向かうことの出来ないものにも刃向かうことが出来るのです。
あなたはそうして、今生で二度とこの裁きに会わないかもしれない...いや何度生まれ変わっても...永遠にないかも分からない ...
それがあなたにとって永遠の幸福になるのか、永遠の後悔になるのかは、あなたにしか分からないだろう...
しかし、あなたにはもう反逆の力は残っていないようだ。
あなたのその震えかたで分かります。
恐ろしさで気も遠くなりそうですか? あなたはそれでも前のめりになろうとしているのですね。
そうです。あなたは前しか向けなくなるi 真っ直ぐに...
そこにあなたの全てが映し出される...それはあなたが知っている全てとは限らない...
本当にあなたが前に見なければならないものは、あなたがずっと見損なっていたものだi
あなたが何かから逃れよう、隠れようとすることで、見えなくしていたものだi
あの目から逃げることが出来る...知られたくない悪、恥ずべきことは隠すことが出来る...
そうしてあなたは、今ここに見なければならないものをも隠してしまったのです。
あなたの恐れとは、それらが明るみに出されることではないですか?
だが...あなたの前には何処にも逃げ場も隠れ場も無いi
表側のことも裏側のことも全て見抜かれているのです。
そして...全てを知り尽くされていることほど、愛されている、許されていることはないi
ここは、隠しているものを明るみにして暴きたてる、この世の如何なる裁きの場とも違うのです。見損なわないで下さい。
だから...どんなに頑なな心も解き開かれ、全幅の信頼が生まれ、全てをゆだねることが出来るのですi
さあ、使いが来ました。もう何処にも逃れられません。
これがあなたの運命なのだi
この場はあなたが世の初めから望んでいたものなのです。
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運命と自由意志

2017-09-23 00:02:11 | 哲学・思想
"人の人生は予め決まっていた。起こることが起きるだけ..."

運命、宿命、前世からのカルマ...何でもいいですが、こういうことを平然と宣っているヒマ人も世の中には居るらしいです。
御大層にもOO論などともっともらしい装いなんかして...
何でイチイチこういう言説を振りかざしているのかというと ...ただ、言ってみたかっただけでしょう...余程ヒマなようだ(笑)
昼前に一生懸命そんなこと言い表していて、"さあ、昼だi"ってなった時、間違いなく言っていたことを忘れるハズです。
"今日の昼飯は、ラーメンにしようか、カレーライスにしようか..." 人生は好きにしたらいいだけじゃないかi
人の生は予め決まっているか、どうかは知らんけど、メシを食うこと以上の真実は無いi
外出の際は、起こるべくして上からカラスのフンが落ちてきますから気をつけてね...。(あ、気をつけようのないことも運命なんだったっけ? んなもん、付き合えるかi)
しかし、ヒマ人の戯論はさておき、私は直接知らないけど、本当に分かっちゃった人も中には居るかもしれません。
だけど、そういう"運命の人"は、間違ってもヒマ人のように戯論を振りかざしたりなどしないだろうと思います。
自分自身のことについても、他に向けて軽々しく発信してしまうことについても、フツーじゃないこと、コワイことでしょ...
又、誰でも"これは運命なのか..."、とか"運命的出会い"と感じる瞬間というのもあることでしょう。
要するに、そう感じたのなら、それでいいのであって、ことさらに"決まったこと"にしようとするからオカシクなるのですi

精神世界の周辺には、長年の思いの集積によるのか、高次元のことや、前世、未来のことなど何ら確証の無いことにトラワレ続けている人が居ます。
そういう人でも神的なものとの出会いとか、精神の覚醒といったことについても一応頭では望んでいるらしいです。
でも、私にはその人は内心では、そんなことなどちっとも望んでなどいない、ということが感じられます。(その又心の奥のことは知りません)
だからずーっと仮想現実的なものにトラワレ続けているのでしょう。
本当に知らなければならない、リアルなものから逃避しているかのように...
思考を超えた自己の内奥に意識が向かわない、神的リアリティーに開かれないようなのです。
これが積年の思いの集積のなせるものなのでしょうか? これは運命、カルマなのでしょうか?
何回生まれ変わっても、同じことを繰り返し、同じところをグルグル周り続けるのでしょうか?
いや、思うにどうでもいいことにトラワレていて、リアルなものに向かわない人というのは、単純にその気が無いだけではないですか?
昼前には"覚醒しなければ、神と一つにならなければならない..."と一応思ってはみたが、昼になれば、メシを何にしようかということで忘れてしまうでしょう。当人にその気が無ければどうしようもありません。
そういう人はともかく、本当に真摯に求めている人には、このような決定論は何の救いにもなりません。
しかし、空想事でなく神的なものに意識が向けられた時、それまでと何かが違う、という感じをもたれては来ないでしょうか?
特別な神秘体験にトラワレていたら、気がつかないものですが、そうなれば自ずと心が開かれ、理屈抜きにそのものに惹き付けられていくことが分かってくるでしょう。
その時から運命は変わるかもしれない。もし、現臨に捉えられでもしたら...これこそは運命的なものじゃないでしょうか?
何故ならば、運命というのは、表向きの自分の意志で動かすことの出来ないことなのではありませんか?
それはしかし、諸々の思いを乗り越えた、一瞬のある決断、コミットメントによってもたらされるのです。
それを望むか、どうかは全くもってあなた次第ですi
運命と自由意志の奇しきタペストリーがあるから人生は面白いのです...。


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主は一つ、道は一つ

2017-09-21 18:11:42 | 求道、探究
「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。すべてのものの父なる神は一つである。神はすべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいましたもう」
(新訳聖書.エペソ書.第4章)

私はこれまで幾つもの宗教、精神的団体と関わりがあったのですが、その教えであれ、修行方法であれ、その団体、グループにしか通用しないようなものは少しも身に付いたことがありません。
これは求道のごく初期の頃入信していた教団で、その独善的有り様に閉じこもることの愚かしさを身をもって知ったから、その事が"身に付いている"ためでしょう。
多くの教団、グループでは口では、"神はあなたの内にいます"とか、その教え、修行方法にさも普遍性を持たせるような言葉を盛ったりするものですが、どっかで"この教え、方法によらなければダメです"という、その団体本位の"本音"を忍ばせているものも少なくないようなので、見極めが必要です。
あなた自身に直接つながらず、示されることなく、常にあなたの外から言葉なり、メソッドなり、形あるものによって教導しようとするものは、どこかで直接性へとシフトされない限り、あなたの内なるものを開くことなく、外なるものに依存させるのみでしょう。
そういうものは身に付くことがないのです。心身に浸透してくることがない...だから身に覚えがありません。
身に覚えているものというのは、異なった団体においても、それを越えて発現します。
考えてみれば、前述のように多くの道で説かれているように、神は内にいまして、普遍的なものなのだから当たり前なことです。
神を信じ、つながると言うのなら、この当たり前のことを観念でなしに"自内証"されなければ虚しい事だと思われませんか?
私に初めて"気"というか、"生命エネルギー"、"バイブレーション"...そう、私の公用語?では"ハタラキ"が発現したある時、すごーく求道心が旺盛になっていたのですが、そのジンジンとした感覚とともに、このような声なき声を聞いた感じがしました。
"お前はどこへ行っても私にしか会わないだろう"

最初にそのハタラキを実感したのは、自己流の祈りや、宗教結社、道院に伝わる"先天の坐法"の実修が切っ掛けでしたが、瞑想的修練を伴うものに限って言えば、スブドのラティハン、元波動瞑想、クエーカーの沈黙の礼拝、野口整体...名称も説くところも違い、その実修課程には異なった展開もある(道院の坐以外には、自動運動が発現したりします)のですが、受ける感覚に微妙な差異はあるものの、あの感じの根本にあるものは同じなのです。
これらの修練には、特別な人為的"テクニック"に重きを置かず、自然に任せるという点が共通していると言えるでしょう。
この他、小池辰雄先生の福音集会や、大調和協会などにおけるある種の霊的感応にも通底しているものです。
そして、あの時...あの声なき声の主、すべてに通じた主の臨在をまざまざと知ったのです。
私の節操の無い遍歴は、わが主のあの声なき言葉に促されているところもあり、そこにはそれを確かなものにしてみたいという思いがあったのも事実です。
世の中には数多の宗教、精神的道があり、信仰があり、修行法があります。
あたかも名称が違えば神も変わるような錯覚も起きかねません。外なる神に依存していたらそうなるでしょう。
そこから離れてしまえば、人は神から離れてしまうのでしょうか? 真理から外れてしまうのでしょうか?
外なる神は頭の中にしか存在せず、数多の異なった道によって分裂しており、観念と共に消えていってしまいます。
私はわが主から、諸々の宗教、精神的道には、移ろいゆくものと永遠なるものが存していることを示されたのです。
私は色々曲折はあったものの、一度言葉を越えた命のハタラキが意識に根付いたならば、諸々の相対的事象を越えて、ずっと息づいているのを実感しています。
内なるものは普遍に開かれているのです。





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