人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

ワカルということ

2024-06-30 09:28:28 | 詩的文章
ものが分かるとはどういうことなのか?
分からないとならないものなのか?
そうでないと生きてゆけないのか?
一体、何が分かるというのか?
分かるというのは、分けるということではないのか?
それで分かったことになるのか?
分かったつもりになるのか?
ただ、分別がついたというだけではないのか?
それにもっともらしい理屈をくっつけて!
分けられたものは分かっても、分けられないものは?
分けられないものは分からない!
分けることが出来ない!
分かったもの、分けたものには分からない、分けられないものが付いて回る...
そいつを又分かるようにする...
分ける!
分裂、分離...
どこまでいっても、まとまらない!
私が分けられていくだけ!
てんでばらばら...何も分からない!
どこにも着地出来ない、つながらない!
分けられたままの私は、どうにかなりそう...
宇宙のチリとなるだけなのか?
しかし、どうにかなりそうだということが分かったら...
どうにかなるだろう!
どうにかさせるものがある!
分けられたままの、分けられるだけの私、それだけの私などどこにもいない!
分かろう、分けようとする私と分かち難くある
分かろう、分けようとしない、一つになろうとする私...
私は分からない、分けられないということが...
ワカった!

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感じたことを言うこと

2024-06-29 09:52:31 | 雑感
精神的な道では、意識の表層から深層へと深くなるにつれて、決めつけたような言語表現が適応出来なくなるのが普通です。
これは、思考の領域から段々離れてゆくことと連動していると言えるでしょう。
例えば、死後の世界とか霊界、第何次元、アストラル界...これらのことは、考えられて表されたものだと思うのです。
そういう決めつけた言葉自体、既存の知識に依っているのは誰にも分かることだし、そうでなくとも思い描かないと、そういう表現は出来ないものでしょう?
あるいは、霊能力者なんかは、私の知らない有り様で、実際にそういう世界を見て、感じて言っているのかもしれませんが、そうでない普通の人間には確かめようもないことなので、そのことを考えたり、(気が向けば)信じたりするしかありません。
こういうことを蔑ろにした一方通行の対話というのは、他者のことを無視したウカツな言葉に終始するだけで、私は全く付き合う気など起こってきません。
観念に浮いた、どこにも立脚しておらず、どこにもたどり着けない言葉のキャッチボールなんかしてたってしょうがないでしょ!
第一、それは、先入、固定観念から自由でないということであり、意識の内奥が開かれない状態になるだけではありませんか?
有り体に私が感じていることを言います。内奥では、何次元だとか段階だとか、そのように見たり思い描いたりすることは何も感じられません!
よく言われる、時間、空間を超越しているとかそういうものは、確かに感じられます。
あるいは又、私のこういう表現自体に、先の決めつけた表現というものを感じてしまう向きもあるかもしれません。
しかし、私は何も人に信じてもらいたいなんて思ってなどいないのです。大体、分からないでしょ?、私にも何だか分からないことなんだから!
ただ、感じたことを言う!...
もし、分からないけど、言葉では伝わらないものが伝わったというのなら!...おお、それでいい!...ベリグ~!
この場合、要するに分からないことは、分からないと言えばいいのです。そう感じたのなら...分からないことを前提にして、“私が思うに、感ずるに...“とか言えば(相手に伝われば)話はつながります。
然るに、何で分かったようなこと言うかなあ?
思考を超えた世界のことは、感じたことしか言えないはずなのです。
とはいえ、言うまでもなく、言葉というものは、思考に依らなければ、それを借りなければ表せないものですが、感じたことから切り離されたら生きたものにはならないでしょう。
そこでは、通常、思考と区別されること無い、内省とか洞察といった感性を伴った“別なる思考“が生きてくるのです。
そういう思考表現での他者との交流では、ウカツな言葉など言えない状況に自然になったりします。
だからね、“霊界というのは、神は、悟りは...“な~んて分かったような物言いは、彼方の世界で、生きているのかどうか分からない異界の人間とやっていたらいいのです。...
なんて、エラそうに言ってるけど、私は何度か場違いなことを言った経験があるからこういうことが言える訳でして!
それは、あの安らぎ、リアリティに与ることを妨げるものだから場違いなことなのです!
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正直者は勝つ!

2024-06-27 09:28:51 | 雑感
乃木坂のかっきーはウソをつかない(つけない)人間だった!
乃木坂工事中の動画で、ジャンケンゲームをやっていて、他のメンバーから「何を出す?」と訊かれたので「チョキを出す」と言って、それから色々掛け引きがあったけど、やっぱり出して負けてしまいました。他のメンバーからもそういう人間と思われていたのでした。
“それでいいんだ!、かっきー!、キミはゲームには負けたけど、勝ったのだ!...きっと何かを得ているはずなんだ!“
私だったら?...狡猾な私は、チョキを出すと言っておいて、勝ちを確信したように、ジャンケンの直前、握り拳をつくってガッツポーズみたいなことをする...これがグーを出すサイン?...そおしてからのチョキ!
ひっかかったヤツはパー...やったぞ!、チョキはそのままVサインだ!
“ふはははっ!、言ったじゃないか!、オレはウソはつかない男なんだ!“(“お前、何を出す“と訊いてくるヤツは最初から負けてるんだ!)
そうです!、私は狡猾な男、平気で人を欺きます。だから私の言っていることなんかウカツに信じたらダメですよ!
本当に自分が一番信じられるものを信じたらいいんです!...あなたにとってそれは?...
あなたは自分が信じられますか、信じていますか?
私は人は欺いても、自分は!...自分が信じられなければ何も信じられなくなりますよ!
どうしたって、自分にウソをつき、誤魔化すことは出来ない!
しかし、もし、自分が信じられなかったら...
その自分を認め、受け入れたらいい!...これが逆説的ですが、自分にウソをつかないことなんです!...一体誰の目を誤魔化そうってんですか?!
私は何もここで、他人にも自分にもウソをつくことは悪いことだから、やめろと言っているのではありません!
何が悪い?...まあ、信用されなくなるだろうけど...
自分を超えたものからのあの至福をもたらすパワーに与ることが出来ない!...もう、これに尽きる!
ウソが無い、誤魔化しが無いとは、そのまんま、ありのまんまということです。
ありのままの自分を受け入れることは、自分を超えたものを受け入れるということ...そこからの恩恵に与ることなんです!
人生の諸々の勝負ごと(に思えること)などに負けたっていいじゃないですか?
あなたが心の底から望んでいるものは、“これ“じゃないんですか?
いつも自分を偽り、自分を正しく、強く見せようとしている人には絶対に分からないでしょう。
こういうことはもう、自分は自分を超えたものと共にある、ということを前提にしないと言い表すことが出来ません。
そう、書いているだけで、何かパワーが!...
暑いからか?...今後もっと暑くなるとますます増して来るのか、減退してしまうのか?
正直、何だか分からない!
分からないものは分からない!...ウソじゃないだろう!...
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神との接触

2024-06-25 10:03:20 | 求道、探究
神学者、哲学者の滝沢克己先生は、神と人間の関係は、神と共にある、不可離のものである(インマヌエルの関係)と説いていました。
これは、神を信じようと信じまいと、誰しもがそういう原態的な構造を持っているとされ、それを第一義の(神との)接触と言い、精神的な道を歩み出し、何らかの気付き、などを通してそのことに目覚めたりすることを第二義の接触と説いているのです。
しかし、よく考えてみると、後者はともかく前者は、あくまでそういう人間の原態についての存在論的な説明に過ぎないと言わざるを得ないでしょう。
言うまでもなく、私は生まれついた時から神と共にあることを感じて、生きて来た訳ではありません。
そのように我々は、宗教、スピなどと関わり、修行や覚醒体験などで直接示されない限り、そういうことが明らかにされることは無いのです。
つまり、一も二も無い、神との接触を通じてしか、それを分かりようが無いのです。
しかしながら、その界隈には実に“人間は本来神の子、神と一つのもの“、といった、先入観念を植え付けてしまう信仰ごとが越境して語られることが多いのです。
そういう教えに触れ、共感したとして、そのことを神に直接ゆだね、聞くという実存的、主体的な心的態度というものが必要でしょう。
そうでないと、本当に身についたことにならず、生きたものとはならないですよ!...
というようなことを書いてみたのですが...共感?、う~ん!...
言葉に触れて、元々自分の中にあるものが呼び覚まされるということもあるものです。
又私は当たり前のように、“神に聞けばよい!“何て言っちゃってます。あなたにはあなたの神が居るだろうということを前提にしたみたいに...私だからそういう風に言うのかなあ?
この場合、共感する、神と言わずしても、自分を超えたものに意識が向けられることがもう、先の“接触“と言ってもいいでしょう。
そこには、単なる言葉による刷り込みでは説明がつかないものを感じます。
初めは漠然と感じているだけでも、ある契機にアリアリと目の当たりに直感されることもある...かもしれない?...これを現臨にある状態と呼んでいるに他なりません。
この意味で初めの方を第一の接触、後のを第二の接触と言ってもいいかもしれません。これはしかし、すべての人に当てはまるのかどうかは分からないですが...
接触があって初めて分かるものには変わりはないでしょう。考えている一個なる自分だけからは!...自分は自分だけで生きてはいない!
これが分かった人は、接触もなにもそうなっているのが分かるだけでしょう。
それは、あたかも空気と接触しているようなことなのでしょう。
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神の手に捉えられる自由

2024-06-23 09:22:45 | 覚醒
私がよく“現臨にある“意識状態と言っているものは、思考機能は後退こそすれ、考えられなくなることはなく、普通に日常生活を送ることが出来、又私にはごく日常的に起こることなのです。
しかし、“神の手に捉えられる“状態というのは、それがもっと意識の中へと深まり、何かもう全身がしびれたようになり、思考機能はマヒするに至るのです。こんなことが日常的に起こってはたまったものじゃありません。
そんな自由を奪われてしまうことなど誰が望むだろうか?...って、そりゃとんでもない、バチ当たりなことですよ!
これは、そうなった人にしか分かりません。第一こちらが自分の思いでそうなろうと望んだってなれる訳じゃない。といって、心の底から望まないと叶わないようでもある...要するにそれが思いを超えた事態ということで、思い、為すことだけが自分のすべてと思っている人間には絶対に分からないことなのです。
そうして、自由に思うことを奪われてみて初めて分かる!...何とそれまで思考に縛られ、囚われていたということが!...
逆説的ですが、かくも自由というものを実感することは無いのです。そして自分の思いの外では、心からこれを望んでいたということが分かるのです!
この状態には、例えば、自分が後生大事にし、囚われている信念、信仰、主義といったもの、勿論ネックとなる悩みごと、疑いごとなどあらゆる思考のしがらみ、絡みから自由でなければ、与ることは出来ません。
だから、自らそういう思いのトラワレ状態に身を置こうとする、所謂狂信者には開かれることは無いと言えるのです。そのトラワレの苦しみを自覚することが出来ないのだから!
その自覚のある人は、心の奥の声を聞くことが出来るでしょう。
ですからね、神の手に捉えられる、という恩寵に与る条件は、思いから自由であることなのですよ!
って...あれ、おかしいな!...神に捉えられるから思いの縛りから解放されるんだった!
これは、それでも思い、為そうとする、悲しいサガを持った人に譲歩してそう言ったまでです。
私は何も思考すること自体を否定している訳じゃないのです。考えたら分かるでしょ!
思考が無ければ普通に日常生活を送れない、人生を生きることは出来ないのです。
しかし、思い、為すことだけが人生じゃないのですって!
人生のどこかで、何も考えられなくなるほど魂が揺さぶられ、生の燃え上がるような輝く瞬間に出会うこともある...その時は自由に思考する力を失い、その掴んでいた手を離さざるを得ないことになる...ということは、人間誰でも心のどこかで思って...否望んでいるのではないでしょうか?
神の手に捉えられる自由は何人も侵すことは出来ません。
神の手がかかれば何人も逃れることは出来ないのだから!

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