人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

生と死の間に

2018-08-12 12:39:39 | 雑感
人間は、死してなお生き続けるものなのか?
死後は如何?
この事は"生きること"と同じく、誰にとってもジッツに無視出来ない問題ですね。
大方の人は人間は死んだらそれっきりと捉えられているようですが、宗教やスピに関心を持つ人の間でも、永遠の生命というものは信じられているが、一方では個的な生命は永遠の無に帰すのみという教えもあるのです。
これは普通に考えられる、死のさらに向こうに、本当に実質的な永遠の死があるということを伝えているのです。
我々には肉体次元だろうと、霊の次元だろうと、"人間死んだらそれでオシマイ"という観方はずっとつきまとうようです。
こうした根源論、例えばブッダの涅槃に関する教えでは、死に関連してばかりでなく、元からして個的生命、魂というものは実態の無いもので"生まれる事もなく滅することもない"、"すべての苦悩は、この世に生まれたこと、生きることから生じてくるのである"というように説かれているのです。
しかし、これはブッダの生きた時代相、その置かれていた立場、背景というものを考慮する必要があるでしょう。
そこでは本当に生きることが、死んだ方がマシというくらい、苦しいことだったようなのです。その厳しい階級社会では、最下層の人間は、マトモな人間と見なされてなかったくらいです。
ブッダの涅槃論というのは、私にはその時代相に取り巻いていた人々の思いを逆手にとったもののように思えます。"そんなに苦しいのなら生きることを無理に考え、囚われなくてもいいのではないか?"と。
そして私にはブッダが"自分も無ければ、一切も無い"という、究極の絶対無を説いたとはとても思えません。
何故ならば、入滅に至れば"安らぎがある"と述べられていたからです。自分が無く、すべてが無くして一体どこに安心というものがあるでしょうか? 何も無いようで、安心というものはあるのです。
この安心というのは、それを失うことで苦悩に変わってしまうような、相対的な幸福の事でないのは明らかでしょう。
私はしばしば、裏側に踏み入れると、"自分で考えたり、為すことは不可能になり、ただ任せるより他無くなる"とか言っていますが、これは表側の有り様からすれば、"死"を意味しているのかもしれません。しかし、そこで"すべてが無に帰す"と感じたことはありません。
そうなってしまったのなら、ここでこのように書いている訳が無いi 全く幽霊にもなれやしないでしょうi
かと言って、そのように感じているのはこの思われた自分ではありません。私が私でないような、あるいはよりいっそう私になったような、私が有るとも、無いとも言えない別様の私が、ある意味別様の"生"を感じているとも言えるのです。
そして、その時私はあらゆる苦悩の要因であり、あらゆる悪というものの淵源ともなる、"死の恐怖"から解放されていたのです。
こうして考えると所謂臨死体験というものが、精神的目覚めと関連付けられる理由も分かる気もします。
人間精神の内奥にこそ、生と死が重なり合っているのです。生と死の間に裏側が開かれているようです。
そして自覚の有る無しに関わらず、人生の表側と裏側は重なり合っている...
そして又、ブッダの言うダンマ(何も無いのではない)とか、神的なハタラキが切り離された時、その恩恵を望まなくなった時、我々は本当の意味で無に帰してしまうのかもしれません。
でも、そういうことはそうなった人が伝えられるはずも無く、臨死体験にしても現実に生きている人が伝えているまでで、この記事ともども、死のことは死んでみなきゃ分からないとしか言いようがありません。
その意味でこれほど自分自身に則した問題は無いのかも分かりません。



コメント
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