何かをやらかしちゃった時など“ああ、私はなんてダメなんだろう、至らないんだろう...“と、クヨクヨといつも思い煩っていることが長い間私のクセだったのですが、最近は自然とそういう思いから離れてしまうようになりました。
ということは、至らないものを至るものにしようとしない...つまりは反省が足りないのでしょう?
しかし、いくらそのように直そうとしたり、反省したりしても、一向に至ったりしないのですからしょうがありません。
かえって自責の念に苛まれて、余計に思いを引きずったりしてしまいます。
そうすると、“引きずられては、トラワレてはいけない!“と切りが無くなる訳で!...そこへ、いつの間にか、そういう思いはそのままで、思いを超えたものが臨み、自然とそういう風になって行ったのです。別段そのような意志的な努力をした訳でも無いのに!
ところで、何故そういう神経症のように思い煩ってしまうのでしょうか?
言うまでもないでしょうが、自分にトラワレているからでしょう?
だけど、多分多くの人は気付いていない!...その自分とは、純粋に自分のことじゃない、ということを!
それは、世間の目、他者の目、声、評価などに照らされてみた自分なのです。
これが、自分のことで頭がいっぱい、自分地獄の正体なのではありませんか?
では、本当に自分自身に意識を向けるとはどういうことなのでしょうか?
他者の目を通さない自分自身。しかし、やろうとして出来ますか?...何か取っ掛かりみたいに掴めますか?...いや、そもそもそれが何か分かりますか?
だから、他者の目を借り、その声を仰ぐのではありませんか?...そんなイイカゲンなものあるか!?
しかし、この猛暑の時など、否応無しに自分自身に意識を向けざるを得なくなることもあります。
それは、熱中症。...そうなったら、他者、世間の目なんか思ってなど居られなくなりますよ。
思考自体が飛んじゃうんだから!...しかし意識が無くならない限り、意識はあります。“ああ、何も考えらんない!“と意識はしている。逆説的に言えば、こうなっている時、より自分が何かは分からなくなってしまうのです。
そうなると、きっと思い煩いから解放されるだろう...な~んて、ワザと炎天下にぼ~っと立ったりして、バカな真似はしないでくださいよ!...命あっての話ですから!
そうなって、要らんことで悩むことは無くなりますが、やっぱり本当の自分が何かは分からないでしょう?...それより頭痛やら吐き気で苦しくてそれどころじゃないのですよ!...医者を、助けを呼べ!
それらが居なかったり、自分地獄で苦してどうもならない時は、神を、思いを超えた助けを呼べ!
すると、神に捉えられる!、かもしれない?
以前にも書きましたが、これは全く熱中症と隣り合わせの事態なのです。違うところは苦しみを感じないこと、それに代わって安らぎがもたらされることです。
これが本当の自分に会うということなのか?...そうかもしれませんが、私には分かりません。
しかし、これだけは言えます。世間が言っている私より、はるかにリアルに私自身を感じているということを!
リアリティがある、実存的である...そして何よりも愛、安らぎがある!...これを欠いたら本当の自分が何か、ということなどどうでもいいことなのです。
そして、誰しもが、本当に苦しい時は、神を、何かわからないけど自分を超えたものに意識が向かわされるのではないですか?
何か自ずからそうしむけられるようにも!
双方から惹きつけるものがある...会わずにおれないようにも!
ということは、至らないものを至るものにしようとしない...つまりは反省が足りないのでしょう?
しかし、いくらそのように直そうとしたり、反省したりしても、一向に至ったりしないのですからしょうがありません。
かえって自責の念に苛まれて、余計に思いを引きずったりしてしまいます。
そうすると、“引きずられては、トラワレてはいけない!“と切りが無くなる訳で!...そこへ、いつの間にか、そういう思いはそのままで、思いを超えたものが臨み、自然とそういう風になって行ったのです。別段そのような意志的な努力をした訳でも無いのに!
ところで、何故そういう神経症のように思い煩ってしまうのでしょうか?
言うまでもないでしょうが、自分にトラワレているからでしょう?
だけど、多分多くの人は気付いていない!...その自分とは、純粋に自分のことじゃない、ということを!
それは、世間の目、他者の目、声、評価などに照らされてみた自分なのです。
これが、自分のことで頭がいっぱい、自分地獄の正体なのではありませんか?
では、本当に自分自身に意識を向けるとはどういうことなのでしょうか?
他者の目を通さない自分自身。しかし、やろうとして出来ますか?...何か取っ掛かりみたいに掴めますか?...いや、そもそもそれが何か分かりますか?
だから、他者の目を借り、その声を仰ぐのではありませんか?...そんなイイカゲンなものあるか!?
しかし、この猛暑の時など、否応無しに自分自身に意識を向けざるを得なくなることもあります。
それは、熱中症。...そうなったら、他者、世間の目なんか思ってなど居られなくなりますよ。
思考自体が飛んじゃうんだから!...しかし意識が無くならない限り、意識はあります。“ああ、何も考えらんない!“と意識はしている。逆説的に言えば、こうなっている時、より自分が何かは分からなくなってしまうのです。
そうなると、きっと思い煩いから解放されるだろう...な~んて、ワザと炎天下にぼ~っと立ったりして、バカな真似はしないでくださいよ!...命あっての話ですから!
そうなって、要らんことで悩むことは無くなりますが、やっぱり本当の自分が何かは分からないでしょう?...それより頭痛やら吐き気で苦しくてそれどころじゃないのですよ!...医者を、助けを呼べ!
それらが居なかったり、自分地獄で苦してどうもならない時は、神を、思いを超えた助けを呼べ!
すると、神に捉えられる!、かもしれない?
以前にも書きましたが、これは全く熱中症と隣り合わせの事態なのです。違うところは苦しみを感じないこと、それに代わって安らぎがもたらされることです。
これが本当の自分に会うということなのか?...そうかもしれませんが、私には分かりません。
しかし、これだけは言えます。世間が言っている私より、はるかにリアルに私自身を感じているということを!
リアリティがある、実存的である...そして何よりも愛、安らぎがある!...これを欠いたら本当の自分が何か、ということなどどうでもいいことなのです。
そして、誰しもが、本当に苦しい時は、神を、何かわからないけど自分を超えたものに意識が向かわされるのではないですか?
何か自ずからそうしむけられるようにも!
双方から惹きつけるものがある...会わずにおれないようにも!