人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

センチメンタル・クリオージョ

2015-10-31 12:53:49 | 映画・音楽など
「お前は一体なんなんだ!主義は!信仰は!”あいでんちちい”ってのはないのか!」
かつての私はどれだけ、こういうことを言われて肩身の狭い思いをしたことでしょう。
私は主義や信仰なんぞが有って生きてる訳じゃない! 仏教やキリスト教や左傾や右傾など、特定の何ものかにならないと生きられないのですか?
私はその時に応じて無主義、無信仰でもあるし、特定の主義、宗教を借りる場合もある。
でも私は多く混成的なものによって育まれてきたと言わざるを得ません。日本人なんです! ”あいでんちちい ”なんて取ってつけたようなモノサシなんかなくたってノホホンとここで生きてますよ…

南米ペルーでは、10月31日はクリオージョ音楽の日なんだそうです。
今の今までちっとも知りませんでした。今日がそんな得難い日だったとは!
要するに毎年この日は、私にとって好きな音楽を聴きまくる日なんだ!
今朝たまたま聞きましたよ。ロベルト・フィルポ楽団による1920年代のタンゴ「センティミエント(センチメンタル)・クリオージョ」を…
クリオージョとはラテンアメリカ生まれの白人のことです。欧州スペインの純粋な白人から、”土地っ子”とやや侮蔑的なニュアンスで、区別してそう呼ばれていたのでした。
でも厳密には中南米は混血文化であり、どこまで純粋な白人かということは判然としません。
実際、私は例えばラテン系ボクサーの顔など見ても、白人か混血かどうか区別できません。
むしろこの混血ということを抜きにして、ラテンアメリカのことは語れない…混血であることが主流なのです。
その彼らの文化から生まれた音楽…それは、絶対的に私の好みの音楽に違いありません。何十年も愛聴してきましたから…
ここで取り上げたボレロとかタンゴなどはその代表と言えます。
中南米の人種は大きく分けて先住インディオ、白人、黒人ですが、音楽もそれぞれの特徴を表しながら形成されました。中南米音楽というのは殆どが何らかの形でのそのミックスです。どの人種の音楽の影響の度合いで、その音楽の性格は顕著に変わってきます。
クリオージョ音楽というのは別に定まった形が有る訳じゃないですが、インディオ、黒人音楽の影響を微妙に受けた白人の音楽と言っていいでしょう。
もう一つ重要な点を挙げれば、それらは都市文化によって生まれたものだと言うことです。ブエノスアイレス、リオデジャネイロ、リマ…中南米各国の主要都市で発達したのです。
それにしても、この微妙なスパイス加減によってか、その調べは何と哀愁、センティミエントに満ち溢れていることでしょうか…
私はこの味というのは(一説ではインディオからもたらされたと言いますが)クリオージョたち独自の都市生活の哀歓から熟成されたものだと思っています。
そしてこの味は今では求むべくもなくなった感のある、”ワビ、サビ”を持った日本人の感傷にも訴えるものと信じて疑いません。

oRoberto Firpo/Sentimiento Criollo
我が国で親しまれてきた30年代のロベルト・フィルポの四重奏団から。

oJesus Vasquez/Enganada
中南米各国でワルツが伝わりましたが、ペルーでは特にヴァルス・ペルアーノといわれ国民歌謡として発達しました。ヘスス・バスケスはその女王と呼ばれた歌手。

oJulio Jaramillo/Naufrago De Amor
エクアドルの音楽はわが国ではほとんど知られてません。この曲の形式はパシージョといわれ、隣国コロンビアの代表的音楽とされてますが、国民的歌謡として定着したのはこちらの方です。フリオ・ハラミジョは同国出身ですが、メキシコなど各国でも人気が有りました。それにしても実に旧?日本人向きの旋律ではないですか…








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座右の書

2015-10-27 19:37:58 | 人生の裏側の図書室
読書の秋です。
最近はネットを通じてあらゆるものを読める時代となり、本を買って読むこともめっきり減っているようですね。
でも、私は画面を通じてだとジックリ味わって読むという気がどうしてもしてきません。
読書というのは実際に本を手に取って、その重みとか肌触りを感じ、ページをめくっていくという一連の儀式ともどもから醸し出されてくるものじゃないかと思います。
精神とかスピ系の関連ですと、それらは形ある文字を超えた直観的領域にも関わるので、書物という存在も軽んじる傾向もあるようです。
”本なんか読んでたって、意識が目覚める訳でもないだろう”と感じてる人も多いことでしょう。
しかし、活字というものの役割が絶対的とも言える現代世界では、それが見えるものと見えないものの媒体ともなり得ると思います。
この意味で、私には仏教学者玉城康四郎先生が語る驚愕のエピソードが忘れられません。
先生が学生の頃大学の図書室で、何気なく「十地経」というお経を読んでいた時、爆発的目覚めに預かったということです。
私は試しにその本を読んでみたところ…眠たくなってきました(笑)。何か難しくて…
こういった話は他にもいくつか触れていますが、読み手と書き手と不可知のもの?との縁次第で起こるものだと思います。
世に言う座右の書というのは私にとり、この意味で揮発性に富んだものです。俗に言う名著と誉高い本など一冊もありません。
世間で評価されているから、評判だから読むのではありません。
手に取った瞬間、”待っていたゾ!”とばかりに迫るものを感じるから読むのです。

小池辰雄「無者キリスト」、ベルジャーエフ「精神と現実」「わが生涯」、M・M・ベイン「心身の神癒」「解脱の真理」、「日月神示」、謎の団体D会の聖典「三千冊」…

これらについては、いずれも昭和54~55年にかけて巡り合ったものです。勿論座右の書との出会いはこの時期に限ったものでは無いですが、この時期というものが私に特別な意味を想起させるのは、ある種の内的感覚がともなっていたからです。
見えざる導きというものを身に覚えていたのです。前述のように迫るもの…”読まずに死ねない”と感じるものに促されて入手し、読み始めるといつも、その独特の高揚感がもたげてきて、頭がボーッとなり、何をどう読んでいるのやら分からなくなってきてしまったほどです。
書かれている内容も、スタイルも違いますが、この感じそのものは同じです。
つまりは私のこの時期に知った座右の書というのは、異なる著者、教師たちとの関わりのみならず、見えざる導師との関わりと共にあった…という事なのです。
そこにどういう事が書かれているか、ということよりあの感覚によって印象づけられているのです。
その高揚感に浸っていた間は、何だか別世界に移行していたみたいでした。
それは数十年もの年月を超えて在るものです。
今から考えてみても、こうした読書経験から何かが爆発してしまう、という事も有り得たと思います。
事実、それに限りなく近い暴風雨に見舞われたことも有ります。
あまり知的理解というものに偏らず、共感共鳴ということに重きを置いていると、そういう事もあるかもわかりませんね。
考えてみれば、これらの書物は座右の書というより、お経のような意味合いが有るようです。
絶版になって久しいものもありますが、折々個別に取り上げてみたいと思います。
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つなぎ

2015-10-25 14:05:07 | 哲学・思想
上よりの力に捉えられると、自分の意志と自分を超えたものの意志は一つになる…
これは、ひょっとすると神人合一の境地なんでしょうか? カカッ!
昔でしたら、何十年修行したらそんな境地になれるのかと思ったものでしたが、機根がないもんで志したことは特にありません。
となると…私は生まれながらにして神の化身アヴァターみたいなものなのか!
だのに、どうしていつも迷い続けなきゃならないのか? 一向に生活が良くならないのか?
分かり切ったことです!…相も変わらずしがない渡世に明け暮れているだけのことです。
自分という個人が悟ったり、神人合一の境地に至るって事じゃない…これがホントにホントに理解されない事なんです。
見た目の建物ばかり何とかしようとしたって、しっかり土台、基礎に支えられていなければ、マンションが傾くどころでは済まなくなりますよ。
土地というものがあっての建物なのです。
そして一応この世では、地主という何サマか分からないヘンな中間宿主の許可なしに勝手に建てられないことになってます。
元からあるものなしにどうなるってものじゃない…
一生懸命セミナーに通い、瞑想し、学び続ける…”一体いつになったら神と一つになれるでしょうか?”と言ったって永久になれそうにありません。
そのうち、神の国が到来するかも知れません。それでも修行し続けるのでしょうか?…
本当にそういうものが来たら、悟りは一個人に帰されるものじゃないという事が分かるでしょう。
所謂覚者も不覚な?人も、良い人も悪い人も、皆同じ土台にあることを共有するでしょうから…
悟りの境地に至るには何段階のレベルが有るのか知りませんが、限界を持った個人がやってる限り五十歩百歩でしょう。
この浮世はまるで天とも地ともつかない、何かのつなぎ、中有状態のようです。

私はこういう風に書いていて、ある時は非二元的なことを言い換えて述べているのかしらん…と思う事もあり、また二元的な神の超越性を強調したりで、何やらようわかりませんが、矛盾している様でもどっちもそう感じるので仕方ありません。
そして、いつも感じるのは例えば個としての人間はあるとか、ないとか言いきってしまって、この両面をつなげているもの…神的なものと人間的なもの、個的なものと普遍的なものを仲立ちさせているあるものが、曖昧なままになっているのではないだろうかという事です。
様々な観方が生まれるという事は、そう感じさせているものが有るという事なのではないでしょうか?
このつながりという事ですが、これは言うまでも無く自分自身とつながっていなければ、関係が無ければ、どんなに深遠な真理について語ろうとも、ただの机上の空論に終始するだけです。
最も肝心な事は神や真理と自分をつないでいるもの無くして全ては虚しいという事です。それは支柱であり、架け橋なのです。
それは一コの断片に過ぎないものからは如何とも出来ないが、ハタラキかけてくれるのはこの大いなるつなぎの方です。

これまで幾多もの宗教思想やイデオロギーが、人類の指導理念だとか絶対的真理だとか言って大手を振って幅を利かせてきたことでしょうか?
だが、それらはことごとくが限界ある人間の中途半端な、偏った言説の押し売りという他有りません。
”私はいない”という非二元論の台頭はこれまでの人間なるものの解体の予兆なのかもわかりません。
しかし、いつまでも中途のまま、ことの部分的な顕れのままという状態などありません。
そして今までの人間が変質し出したこの今の現実に、人間を人間たらしめていた隠れたものが顕わになるでしょう。
そうなると、大手を振っていられなくなるのは地主とか所有管理に携わる人たちでしょう。
この世のものは全て仮のものであり、元からの主から借りているという事が明らかになるでしょうから…
全てのそうだとされている学説も仮説として見直され、神様にでもなったつもりで教説を垂れていた宗教家、教師は沈黙の声の前に黙るしかなくなるでしょう。

この我々のどうしようもない中途半端さも裏を返せば、元々つなぎを表すものとして備えられているからではないでしょうか?












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逆説的自由意志論

2015-10-24 22:01:25 | 哲学・思想
非二元論によれば人間には自由意志など無いそうですね。
論点は違いますが、二元論的なプロテスタントの宗教改革を推し進めたルターやカルヴィンもそういう事を主張していました。
ルターは、やはり宗教改革に関わった人文主義者エラスムスの「自由意志論」に対し「奴隷意志論」で論戦しました。
私はどっちが本当かなど…興味ないです。あーでもない、こーでもないと、面倒くさいです…。
ただ、当たり前にこの世に生きている者からすれば、エラスムスの方がずっとマットウに思えます。
ルターは言う”罪を背負った人間には、自由意志など無く悪しか選択できず、善なるものは神の恩寵によってしか導かれない…”
さらにカルヴィンは”人間が救われるかどうかはあらかじめ神によって定められている…”と予定説を唱えました。これは仏教のカルマ論にも似ていますね。
こうした言説に触れると、私は神に聞いてみなきゃ分からないようなことを何故決めつけたこと言うのだろう…と思ってしまいます。
それに自由は無く、全てが決まっていて支配されている…何が楽しいのか!…
だからと言って、私は人道的なエラスムスの人間の英知とか努力への楽観に全面的に首肯出来ない部分もあります…。

毎日毎日、終わりなき日常に追われ続ける我々には、なかなか自由でいられる実感など持てないかも知れません。
又、そもそも自由意志などと言っても、ある行為は諸々の刺激などの条件に反応しているだけであって、どこまで本当に自らの意志によって為されているのか分からないです。。
仕事から解放されても、例えば酒場などでグダグダと愚痴ばかり言っていたりする人を見ていると、とても自由でいるようには見えません。
単なるウサ晴らしとホントの自由の実感とは違うようです。大体そういうの聞かされている方は不自由極まりません。

私が自由を実感出来るのは、自分が引っ込んでしまうような時です。
それに伴い自分でない何かがジワジワっともたげてきます。この自由さというものはチッポケな自分からは来ないものです。
そして極めつけは、自分を超えたものに捉えられてしまった時です。そこで身体的にも精神的にも自由が効かなくなります。
”ハア…一体そのどこが自由なの? それは自己の自由が抑えられて、得体の知れないものに服従させられているってことじゃないの?…”と思われるかも知れません。
宗教などでは当たり前のように、自分を虚しくして、捨てて、神の意志に従わなければならない(いつ神がそう言ったのか知りませんが)…と説かれ続けてきました。”神の意志か然らずんば人間の意志か、どっちか…”ってわけです。(これが二元性の何たるかなんだ!)
でも、私はその時神の奴隷になる訳でも、自分の意志を断念して神の意志に従う訳でも無いのです。
成程、そこでこれまでの生き方、考え方の転向のように思える事も起こり得るかも知れません。
だが、そこには自己の意志と自己を超えたものの意志の二つは有りません。
自分を捨てて、そっちに従うということではないのです。かと言ってチッポケな自分の意志を通しているということでもありません。
何か自分の人格を挙げてそっちへ無条件に赴くという感じです。
自由意志というのは”我ならぬ我”に淵源があるという他有りません。
そもそも自分の意志で自分を捨てるとか、別の意志に従うことなど出来ないのです。
これはルターのように恩寵によってそうなるとも言えるでしょう。
だが、それは何かの教え、ドグマを信じ込むこととは全く関係ありません。
何故なら、そういうことはドグマへの隷属であって全く自由なことではないから…
つまり、この逆説的自由に預かるには、外的権威から自由であるべきなのです。
そして、心身が不自由な状態になっている時、いつも声なき声がこうささやくのです…”お前は自由だ!”と…











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罪と許し

2015-10-22 14:14:21 | 哲学・思想
ーどうしたら覚醒出来るんですかあ?
「何故、覚醒してみたいなんて思うんですか?」
ーだって、そうなるって事は人生を左右するほど、素晴らしいことなんでしょう?
「あなたはそうなったことが有るんですか?」
ー無いです…
「じゃ、どうしてそんなこと分かるんですか?」
ーだって、そういうものなのでしょう…

数年前、ある人ととのやり取りの一端です。この人は覚醒というものをこんな風に認知していました。
何かの本で読んだか、誰か(私?)から聞かされていたのかもしれません。
大事なことは、それがどういう経緯からであれ今現在その事に意識づけられているか、どうかということです。
私が感じたのは、その人においてはハッキリそうなっていたという事です。
これは私自身の言動にあるスィッチが入ることからでも分かります。
”手をのばせば、届くようにそれを認知しながらも、何故この人は一歩踏み出さないのだろう…”と思ったのですが、その人の前に立ちはだかっているのは、罪の意識だという事が見えてきました。
これはその人に限らず、あらゆる人の精神の根底にあるものです。
ことに根強いのは神の愛よりそのことに執心のキリスト教徒でしょう。
”人間は罪深い、イエスを信じなければオソロシイ裁きが待っている…”私はそういうクリスチャンに突っ込みを入れた事が有ります。
”あなたは神に裁かれた事が有るんですか? 神の愛に触れることとどっちがお望みですか?”
私は勿論無いです。ただ御多分に漏れず罪意識というものに苛んだことはあります。
じゃ、人生の裏側に初めて踏み入れた時、神のみ前で罪が暴かれ、悔い改めて、ついに許されて…という具合に…
いや、実際の場面ではそんなストーリーは知らないですね。テレビの法廷ドラマの方がずっと面白そうです。(あくまで私の個人的な経験ですが…)
むしろ、そこで”私をどうか許してほしい”と声なき声で訴えていたのは、見えざる現臨の方でした。
ただ、この許すというのは、ありのままを認めてほしい、受け入れて欲しい…といったニュアンスです。
で、”私の罪はどうなるんだ”という事が脳裏をかすめたのですが、”そっちじゃない、こっちだ!”というシグナルが…
そしてつぶさに感じました。罪意識とは神が我々に課していることじゃなく、意識の中で積み重ねられているものだと…
それはアレコレの悪いこと、やっちまったことに対するものというより、根本的な命に覆いをかけ、フタを閉めてしまっていることが本質的なものだと思います。
こういう事実に対して神は…死よりも恐ろしい裁きを持って断罪するかも分かりません。そういう事を頑なに信じ込んでいる向きには…
神のみ前に立つっていうのはそういうことじゃありませんか?…全てが明るみに出されるんですよ!
神の現臨に預かる…人生を左右するものらしい…それは世にも恐ろしいこと?…世にも素晴らしいこと?…
もうお分かりですね。起きることは同じなのです。意識がどう向いているか次第で、起きる事に色付けがなされるのです。
自分の運命を決定するのは神じゃありません。自由意志っていうものは実に重いです!
そして我々自身はどう感じているかはともかく、神は我々の魂にとって絶対的に善きことしかなさろうとしないでしょう。
魂はみんな知っているのです。”私はまだ目覚めていない”何て言っても、魂の次元では皆目覚めているのです。
”元々みんな悟っている”という主張もこの意味でその通りでしょう。
覚醒したら幸せになれると思っている人も…そんな話をした途端顔が青ざめる人も…神を信じないと地獄に落ちると信じ込んでいる人も…意識の扉が開いたら何が有るか…ただ我々の積年の思いが屈折を作り出すだけです。
何かしないと神は許してくれないと思っている人は、神と出会っても多分許しても、救ってもくれないでしょう。
神は何もしてくれないだろう…あなたに出来る事はただ現前にある…という事しかないでしょう…つまりあるがままを見るしかない!
でも、その事自体が許しであり、救いなのではないでしょうか?…覚醒とか悟りということでなく、神と共にあるという事が…











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