「喜びと悲しみとか、明るさと暗さとか、積極性と絶望というものは、車の両輪のように両方あって人間なんですね。...私たちは喜びというものをちゃんと知るために悲しむということを知らなければならない」(五木寛之「自分という奇蹟」/PHP文庫)
最近、「暗愁」という言葉を始めて知りました。
五木寛之先生の本に書かれていたのですが、夏目漱石が愛用していた言葉だそうで、明治の頃は様々な人に使われていたそうです。
それが大正、昭和を経て、富国強兵の道を進むことなどにより、日本人の気風が変わり、悲しみなどの感情はネガティブなものとして、忌み嫌われるようになり、暗愁という言葉も忘れ去られるようになったそうです。
暗愁...実に心の奥に染み入るような言葉じゃありませんか?
哀愁と言った方が私にはピンと来ますが、私の人生では、単にそういう風情に浸るというような心持ちを超えて、何か野良猫が鳴いているだけで涙がこぼれて来るようにも、そういう思いが私の世界を覆うような精神状態にまで導かれてしまうことがしばしばありました。
それは忘れた頃にやって来る...こう書くと奇異に感じる人も居るでしょうが、本当は私の思いを超えたものから来る、と言った方が適切なことなのです。
“それはあの現臨感覚のようなものか?“...そう、そういう意味では相通ずる意識状態と言っていいでしょう。
ただ、現臨感というものは、いつも書いているように、意識的になることですぐ開かれるものに対して、それは本当に、私の方からはそのように導かれることは無いものだし、そのことを私の意志想念でもたらそうとするのも、とてもズレたことと言わねばなりません。
“ああ、そうしてその暗愁のようなものに私の思いは支配されてしまう...“
そのネガティブな心の状態になると、それから逃れる術は無い!...どうやってこの苦境から逃れたらいいのか?...って、何で逃れる必要があるのか!
それは、悲しみを帯びたものではあるけれど、決して苦しいものでは無いのです。
そして、私が本当に神の愛というものを切々と身に覚える時というのは、明るい、喜ばしい精神状態よりも、正にそういうネガティブと言われるような状態なのです。
いや、それはネガ、ポジの状態を超えていると言うべきものでしょう。神的なハタラキを受けるというのはそういうことなんです。
そう、そうなることは幸福なことに他ならないのです。何で逃れる必要などあろうか!
あの悲しみは喜びと一つのものなのです。表の感情では確かに喜びとしては感じられないですが...
あの自然に流れる涙をどう説明したらいいのか?...私には言葉が見つかりません。
私の思いを超えている!...それは本当に恩寵と言ってもいいでしょう。
自覚している限り、最初にそれが私に訪れたのは中学三年の卒業間近の春でした。
勿論、その時は神の愛、ハタラキといったものは知る由もありませんでしたが、私はそれ以降の数度のその不思議な訪れを通して、胸を締め付けられるような、愛そのものとしか言いようのないものが私の中から呼び覚まされるのを、知らずに覚えていたのです。
八年くらい前にも“世界は悲しみが覆っている“ような感じになりましたが、その頃からより意識的になったのか、常住にハートの辺り(チャクラでは無い、多分?)にその対象の無い、愛そのものが働いているのを感じるようになりました。
喜ばしいことばかりが幸福なのでは無い!...いやより深いところから感じられるものは、その暗愁というものを通して来るのではないか?
五木先生が常々、私たちが蔑ろにしている、失っている大きなものは、悲しみに向き合うことだ、と言われる通りです。それは哀、愛そのものを取り戻すことに他ならないのです。
それは、我々の思いを超えて恩寵として、そのことを天来に知らされることもあるのです。私だけではあるまい!...
あなたには感じられないだろうか?...猫、小鳥...動物たちを通し、夕暮れの空を通し、あの悲しみを帯びた、思いを超えた響きが真実に我々が失ってならない、もっとも大事なものを呼び覚ましているのを!...
最近、「暗愁」という言葉を始めて知りました。
五木寛之先生の本に書かれていたのですが、夏目漱石が愛用していた言葉だそうで、明治の頃は様々な人に使われていたそうです。
それが大正、昭和を経て、富国強兵の道を進むことなどにより、日本人の気風が変わり、悲しみなどの感情はネガティブなものとして、忌み嫌われるようになり、暗愁という言葉も忘れ去られるようになったそうです。
暗愁...実に心の奥に染み入るような言葉じゃありませんか?
哀愁と言った方が私にはピンと来ますが、私の人生では、単にそういう風情に浸るというような心持ちを超えて、何か野良猫が鳴いているだけで涙がこぼれて来るようにも、そういう思いが私の世界を覆うような精神状態にまで導かれてしまうことがしばしばありました。
それは忘れた頃にやって来る...こう書くと奇異に感じる人も居るでしょうが、本当は私の思いを超えたものから来る、と言った方が適切なことなのです。
“それはあの現臨感覚のようなものか?“...そう、そういう意味では相通ずる意識状態と言っていいでしょう。
ただ、現臨感というものは、いつも書いているように、意識的になることですぐ開かれるものに対して、それは本当に、私の方からはそのように導かれることは無いものだし、そのことを私の意志想念でもたらそうとするのも、とてもズレたことと言わねばなりません。
“ああ、そうしてその暗愁のようなものに私の思いは支配されてしまう...“
そのネガティブな心の状態になると、それから逃れる術は無い!...どうやってこの苦境から逃れたらいいのか?...って、何で逃れる必要があるのか!
それは、悲しみを帯びたものではあるけれど、決して苦しいものでは無いのです。
そして、私が本当に神の愛というものを切々と身に覚える時というのは、明るい、喜ばしい精神状態よりも、正にそういうネガティブと言われるような状態なのです。
いや、それはネガ、ポジの状態を超えていると言うべきものでしょう。神的なハタラキを受けるというのはそういうことなんです。
そう、そうなることは幸福なことに他ならないのです。何で逃れる必要などあろうか!
あの悲しみは喜びと一つのものなのです。表の感情では確かに喜びとしては感じられないですが...
あの自然に流れる涙をどう説明したらいいのか?...私には言葉が見つかりません。
私の思いを超えている!...それは本当に恩寵と言ってもいいでしょう。
自覚している限り、最初にそれが私に訪れたのは中学三年の卒業間近の春でした。
勿論、その時は神の愛、ハタラキといったものは知る由もありませんでしたが、私はそれ以降の数度のその不思議な訪れを通して、胸を締め付けられるような、愛そのものとしか言いようのないものが私の中から呼び覚まされるのを、知らずに覚えていたのです。
八年くらい前にも“世界は悲しみが覆っている“ような感じになりましたが、その頃からより意識的になったのか、常住にハートの辺り(チャクラでは無い、多分?)にその対象の無い、愛そのものが働いているのを感じるようになりました。
喜ばしいことばかりが幸福なのでは無い!...いやより深いところから感じられるものは、その暗愁というものを通して来るのではないか?
五木先生が常々、私たちが蔑ろにしている、失っている大きなものは、悲しみに向き合うことだ、と言われる通りです。それは哀、愛そのものを取り戻すことに他ならないのです。
それは、我々の思いを超えて恩寵として、そのことを天来に知らされることもあるのです。私だけではあるまい!...
あなたには感じられないだろうか?...猫、小鳥...動物たちを通し、夕暮れの空を通し、あの悲しみを帯びた、思いを超えた響きが真実に我々が失ってならない、もっとも大事なものを呼び覚ましているのを!...