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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

暗愁と幸福

2025-05-25 06:38:45 | 現臨、ハタラキ
「喜びと悲しみとか、明るさと暗さとか、積極性と絶望というものは、車の両輪のように両方あって人間なんですね。...私たちは喜びというものをちゃんと知るために悲しむということを知らなければならない」(五木寛之「自分という奇蹟」/PHP文庫)

最近、「暗愁」という言葉を始めて知りました。
五木寛之先生の本に書かれていたのですが、夏目漱石が愛用していた言葉だそうで、明治の頃は様々な人に使われていたそうです。
それが大正、昭和を経て、富国強兵の道を進むことなどにより、日本人の気風が変わり、悲しみなどの感情はネガティブなものとして、忌み嫌われるようになり、暗愁という言葉も忘れ去られるようになったそうです。 
暗愁...実に心の奥に染み入るような言葉じゃありませんか?
哀愁と言った方が私にはピンと来ますが、私の人生では、単にそういう風情に浸るというような心持ちを超えて、何か野良猫が鳴いているだけで涙がこぼれて来るようにも、そういう思いが私の世界を覆うような精神状態にまで導かれてしまうことがしばしばありました。
それは忘れた頃にやって来る...こう書くと奇異に感じる人も居るでしょうが、本当は私の思いを超えたものから来る、と言った方が適切なことなのです。
“それはあの現臨感覚のようなものか?“...そう、そういう意味では相通ずる意識状態と言っていいでしょう。
ただ、現臨感というものは、いつも書いているように、意識的になることですぐ開かれるものに対して、それは本当に、私の方からはそのように導かれることは無いものだし、そのことを私の意志想念でもたらそうとするのも、とてもズレたことと言わねばなりません。
“ああ、そうしてその暗愁のようなものに私の思いは支配されてしまう...“
そのネガティブな心の状態になると、それから逃れる術は無い!...どうやってこの苦境から逃れたらいいのか?...って、何で逃れる必要があるのか!
それは、悲しみを帯びたものではあるけれど、決して苦しいものでは無いのです。
そして、私が本当に神の愛というものを切々と身に覚える時というのは、明るい、喜ばしい精神状態よりも、正にそういうネガティブと言われるような状態なのです。
いや、それはネガ、ポジの状態を超えていると言うべきものでしょう。神的なハタラキを受けるというのはそういうことなんです。
そう、そうなることは幸福なことに他ならないのです。何で逃れる必要などあろうか!
あの悲しみは喜びと一つのものなのです。表の感情では確かに喜びとしては感じられないですが...
あの自然に流れる涙をどう説明したらいいのか?...私には言葉が見つかりません。
私の思いを超えている!...それは本当に恩寵と言ってもいいでしょう。
自覚している限り、最初にそれが私に訪れたのは中学三年の卒業間近の春でした。
勿論、その時は神の愛、ハタラキといったものは知る由もありませんでしたが、私はそれ以降の数度のその不思議な訪れを通して、胸を締め付けられるような、愛そのものとしか言いようのないものが私の中から呼び覚まされるのを、知らずに覚えていたのです。
八年くらい前にも“世界は悲しみが覆っている“ような感じになりましたが、その頃からより意識的になったのか、常住にハートの辺り(チャクラでは無い、多分?)にその対象の無い、愛そのものが働いているのを感じるようになりました。
喜ばしいことばかりが幸福なのでは無い!...いやより深いところから感じられるものは、その暗愁というものを通して来るのではないか?
五木先生が常々、私たちが蔑ろにしている、失っている大きなものは、悲しみに向き合うことだ、と言われる通りです。それは哀、愛そのものを取り戻すことに他ならないのです。
それは、我々の思いを超えて恩寵として、そのことを天来に知らされることもあるのです。私だけではあるまい!...
あなたには感じられないだろうか?...猫、小鳥...動物たちを通し、夕暮れの空を通し、あの悲しみを帯びた、思いを超えた響きが真実に我々が失ってならない、もっとも大事なものを呼び覚ましているのを!...
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私の本心、神に聞くとは?

2025-03-22 06:14:18 | 現臨、ハタラキ
自分の本心は?
本当の自分に聞いてみる、というような時、私は私の神に聞くようにしています。
なーんて...ちょっとぶっ飛んだ言い方みたいですが...
大体、自分からは本心とか本当の自分なんて分からないものですね。
普通は、考えている自分が何が本心か?って、あーでもない、こーでもない、と考えているのではありませんか?
そう神、私の神のことも本当は分からないのでした。
でも、私はすぐ、自然にそっちに意識が向いてしまうのです。その何か分からない神的なものに...
意識を向ける、とか私はよく言いますが、本当はそれも自分からは掴みようのないもので出来ないことなのです。私は意志努力で向けよう、向けよう、というようなことを言っているつもりはありません。
それは、ほんの取っ掛かりとして、意思することはあるけれど、そのように自ずと向いてしまうということなのです。
そうすると、いつの間にか、神的なものが臨んで来る...その現臨に聞いてみるということに他なりません。
その時、何か自分が、考えている自分が(と言ったらいいのか)...頭から、肉体から出て行くような感じになります。
神は思いを超えている、といつも言っていますが、これは空間的に、存在的に自己を超えてしまうということを言っています。同時に思いも超えられる訳なのですが...
だから、本当の自分(らしきもの)は、自分の現前にある、という感じになります。(神が現前している!)
そんな、自分が自分から離れてしまう神などにゆだねてしまうようなことでは自分の主体性が無くなるではないか、と思われますか?...これはとんでもないことですよ!
それは、本当の自分は自分の中に、自分の頭の中にある、という固定観念から来るのでしょう。考えている自分は、本心は自分の中にあると思うのでしょう。(ややこしい言い方ですが)そういう自分は自分の中に向けられないはずですよ。
これも意識が自分から出ることにより向けられるようになるのです。頭の中は関係ありません。
こうなると、自分の外も中も無い感じになります。肉体という壁が超えられてしまう!...
要するに、本心、本当の自分とは、そう考えている自分のことではない!、ということなのです。
だから、私の神に聞くという次第なのです。本心と一つのような神に!...
朝目覚めた時などは、向けるとか向いちゃうということも無く、そういうようなことになっていることもありますよ。きっと寝ている間に臨んでいるのでしょう。
ん~、又出る、出る...自然にそうなる。いつの間にか身についてしまったようです。
これはですね、日頃の祈りの修行の成果なのです...ってそんなことあない!
でも、いつも祈り心にあるということはあります。それも自然にさせられることのようなのです!...



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神の現臨無しには...

2025-03-01 05:56:41 | 現臨、ハタラキ
私の精神的な歩みというのは、五井先生の教えの通りに導かれたと言ってもいいのです。
それを意識していたという訳では無かったのですが、思い返せばそういうことになっていたのを感じざるを得ません。
例えば、いつも祈りをし続け、神を呼び起こし、自分からどうこうしようと思わなくとも、神に導かれるようになり、諸々の思いは神の中に入れて消してゆく、というように...
祈りを通して、主我的なものの主導でなく、神的なもの主導になってゆくようなことです。
ただ、それは五井先生が説かれる、その言葉の通りということでは必ずしも無いのです。
例えば、私は神的なものを“守護霊、守護神“という存在としてはあまり捉えてはいませんでした。そういう導きがあるには違いないのですが、段々そういう実体あるものという感じ、思いからは離れて行ったのです。
又、五井先生の、“神と言っても、普通の人には捉えにくいものですが、世界平和なら誰もが願っているのだから、世界平和の祈りを通して近しく感じることが出来る“、というような説明は私にはあまりピンと来ないのでした。
神を身近に感じるには、神は自分自身と切り離されないもので、神は自分のまわりにも中にも働いている、というように導かれることではないか?...少なくとも私の場合はそうだったのです。
神を意識することは、自己実存を意識することと一つ...
これは、端的に言えば、神的なものが自己に臨む、神の現臨ということを通して実感されることなのです。
私の精神的な道、霊性の道はすべて、このように祈り、神の現臨によって開かれると言ってもいいのです。
神に思いを入れて、消してゆくということも、自分が為すのでは無く、それ自体によって為されることであるのは言うまでもありません。
先生の教えは、益々危機的状況へと進んでゆく世界情勢を背景に、徐々に世界平和の実現という方に教えの力点が置かれるようになったようにも思われます。
しかし、宗教の根本は、本心の開発なあることはずっと説かれていたのも確かなことでした。
一人一人の平安無しには世界平和などあり得ないものでしょう。(五井先生の教えの根幹はそういうところにあったとは感じていますが...)
これは、自分の思いを超えた神の現臨を感じたなら、自己と世界のことも一つのように感じられて来るものでしょう。
世界とか人類と言っても、抽象的な捉えどころの無いものでは無く、私に直に感じている神と切り離すことの出来ないもののように感じられて来るはずです。
神無しには世界平和の実現などあり得ないではありませんか?
この意味で、私にはどうしても神の現臨無しにはすべてのことは始まって来ないのを感じずにおれません!...
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裏側からの裏付け

2024-11-22 09:54:48 | 現臨、ハタラキ
私がいつも書いている、例えば“思考が超えられる、そこに神的なものが臨む“、というようなことは、言うまでもなくそれは、“ああだろう、こうだろう“とか、私が考えたことを書いているのではないのです。
元より言っていることに理論的裏付けなど無いし、それを求める必要もありません。
いや、私の理解も十分ではなく、表現も適切では無いのかもしれません。
しかし、そこには玉城康四郎先生が言われたように、表側の私でない“裏側“からの裏付けがあるのです。この裏側から来るものが正に思い、為そうとする私を超えた、神的なものに他なりません。
だから、私は“霊性を開くには思いを超えなければならない“、と言葉の上でそういう風に取れてしまう言い方をすることもあるかもしれませんが、現実にはそれは、裏側からのハタラキ無しには不可能なのです。
しかしながら、この思考次元を超えること“のみ“に関して、あるいはある種の修行方法によっては可能かもしれません。薬物の使用によっては現に可能な訳でしょう。
だが、私はそこにどんな危険、魔境が待ち受けているのかと思うと寒気がして来るのを覚えます。
又、悟り、覚醒を目指しての瞑想修行などでは、自己意識というか、“私は在る“という意識があるうちは中途の段階なので、そういう意識は超えなければならない、と説いている向きもあります。
一体彼らは悟りについて何を求めているのでしょうか?...幸福?、安らぎ?、それとも常人が到達し得ない、究極の悟りの境地とか?...
普通に考えてみれば分かるだろう!...自己というものが無ければ、それであらゆる苦しみも悩みも無くなるだろうけど、幸福、安らぎ、何かの境地に達する自分も無くなるということなのですよ!
これは、全くの人間としての在り方の終焉、死に等しいこと、廃人になる道という他無いでしょう?
私はこれまで、数回いづれも一過性のものでしたが(そうでなきゃたまったもんじゃないですよ!)、そういう“私はここに在る“という感覚が無くなりそうになった(完全に無くなったらどういうことになっていたか分かりません)ことがあるのです。(勿論自分が望んでそうなった訳じゃないですよ!、何かの経験としてそうさせられたのか?)
全く思考も感情も無い!...幸福、平安、リアリティというものも何も感じられない!
これは端的に言うと、神的な現臨の無い意識状態ということなのです。魂を持たないゾンビのようなものでしょう。
これでハッキリと裏付けられるのです。自己実存というものは、超越的な現臨あってのものだということが!
だから私は、悟りとか覚醒といった、煌びやかなイメージに幻惑されて、こうした危険な現実のことを考慮しないような心持ちは、所詮観念のお遊戯に耽っているだけのように感じてならないのです。
何よりも自分の力、想念意志によって悟りが開けると思うこと自体が幻想なのではないか!
だから、私は霊性は神的なもの無しには開かれないということを強調せざるを得ないのです。
又、そのことが危険な魔境的な状態に陥ることからあなたを守ることになるのです。
私はここで何度となく、霊性の道を開くには“祈ること“と言ってきました。
何かの瞑想でもいいでしょう。だけどそれには得てして、神的なものと結びつかない、ただ“超えることだけ“が独り歩きしているものもあるようです。
これはですね、先のアブナイ道に陥らないための道義的な意味だけで言っているんじゃないですが...
超えるといった場合、現実に思いを超えた、神的なものに意識が自然に向けられてしまうのですよ!...裏側からビシッと裏付けられる!
現実に、自然に!...そうなってしまうんだから仕方がない!...
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現臨感が深まると...

2024-11-05 09:24:32 | 現臨、ハタラキ
私がいつも書いている神的な現臨感というものですが、このブログを始めてからより顕著になってきたのは確かなことです。
これが、日常のどういうところに感じられるかというと、読書とかある文章を読んでいて、読むことに困難を覚えるような時です。
例えば、スピ系のものでしたら、死後の世界がある、前世というものがあると、あることを前提にした予見に基づく言葉で表され、又そういう世界を思い描かなければならないような時です。
これが思い描けない!...それはもう生理的なことと言ってもいいのです。
そういう風に思考回路が働かない、意識が赴かないのですよ。
そういうことを思おうとすると、それを遮断するようなハタラキを覚えるのです。
それはまるで“考えなくてもいいものは考えなくていい“、と告げているみたいに...
そして、“思いを超えたものとはこんなものだ、と言わんばかりにあの現臨の雲みたいなものが立ち込め(ユダヤ教ではこの感じを“シェキナー“と呼ぶ)、それに覆われるようになるという訳です。
だから現臨感があることは、思いから離れることなのです。(無くなる訳では無いですよ)
これは又、“ここ“に落ちないもの、離れたもの、どこにも行き着かない抽象観念のようなものは意識されることが無い、ということが示されるようです。
だから現臨感があることは、意識的な状態ということなのです。
だからと言って、こういう状態の時は思考が働かないということは無く、私は、コ難しい宗教哲学の本とか毎日のように読んでますよ。
ただし、その場合でもその著者のコ難しい表現の向こうにある、ある地点に行き着く、落ち着く場所に意識が向けられるのです。行き着かない、落ちないことは考えられません。
その行き着くところは、論理的帰結されるところで無いのは言うまでもありません。(論理に終始するような文章は、最初から生理的に無理です。頭ワルイもんで...)
そういう風にして、自ずからこの場合、書かれたものについてのある取捨の判断というものが生まれる訳ですが、それが正しいのかどうかは分かりません。
私はただ、そこに臨むもののままに導かれるだけなのですから!...
しかし、このように書いて来たことは、本当は私がそのまんま丸ごと、そのどっかに行き着く、落ち着くようなことについては、まだ言及していないのです。
そうなったら、本当に何も考えられなくなります。活字を読むことも不可能でしょう。
それは、私が“神の手に捉えられる“、と呼んでいる状態のことで、今の感じから言うと、普通に日常生活を送ることも困難になるのですが...そのうちある程度適応可能になるようにも感じています。(オレはまだ普通に人間として生きたいんだよお!)
そうなるかどうかは我が主のみ心次第なのです。
ただ、だんだんと深まって、落ちてゆく感じがする、この秋なのです!...






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