「生きた深い信仰の光のもとに、自分のうちにある至聖所に主が来られるのを見る目をもった人は幸いです。この主の来臨とはどういうことでしょうか。前には一度も来られたことなく、いつも全く初めてのように来られるのです。というのも主の来臨は、時間に関係なく永遠の今のうちになされるからです」(三位一体のエリザベット~伊従信子著「神はわたしのうちにわたしは神のうちに」/聖母文庫)
23歳という短命で人生を全うしたフランスの女性神秘家、三位一体のエリザベットの本を初めて読んでみたのですが、そこに実に神、主の現臨とはどういうものかを端的に言い表されておりました。
それはまず、何度もそういう恩恵に与ることはあっても、いつも初めて与ることのように新しいものとして感じられるということなのです。
そこには形式化とか慣習に流れるということは一切ありません。
私はここで、何回この現臨について同じようなことを書いてきたか分かりません。しかし、それはいつも初めての体験のように感じられるのです。(読んでいる方は飽きてしまうかもしれませんが、私には全くありません。主のみ前にあって、なんでそんなことがあり得ようか!)
ということは、この恩寵の体験というものは、如何なる人為的な、自力行的なそれを得るための方法論、メソッドというものには依らないということが言えるのです。
ただ、それを待ち望む祈りというものはあるのです。
自分の思いを超えたものの来臨を待ち望む。この臨在のあるところ、思いが超えられているのは言うまでもありません。それは時間を超越していることを物語っているのであり、それは又空間をも超えていることも意味しているのです。
それは実にこの本のタイトル「神はわたしのうちにわたしは神のうちに」という言葉に表されています。
私はどこに居ようとそこは、私の周りにも私の内にも主が臨在している、そういう霊的な磁場のようになる...
ああ、もう考えようとすると気が遠くなりそうです!(思いが超えられているのだから、考えられないのだった!)
私は何度も主の臨在の恩恵に与った...あの時もこの時も!
あの時、この時?...あそこで!...どこで?
今に、ここに!...
今、ここに一つの主の臨在しかないのではないか?!
私はどこから来て、どこへ行くのか知らない...
私が究極の境地とやらに行けるのかどうかも知らない!
そんなことは知る必要もない!
主のあるところにしか私は在ることは出来ない!
他のことは来ては去ってゆく...
もう、気が遠くなりそうだ!
(これは、暑いせいではないだろう!...)
23歳という短命で人生を全うしたフランスの女性神秘家、三位一体のエリザベットの本を初めて読んでみたのですが、そこに実に神、主の現臨とはどういうものかを端的に言い表されておりました。
それはまず、何度もそういう恩恵に与ることはあっても、いつも初めて与ることのように新しいものとして感じられるということなのです。
そこには形式化とか慣習に流れるということは一切ありません。
私はここで、何回この現臨について同じようなことを書いてきたか分かりません。しかし、それはいつも初めての体験のように感じられるのです。(読んでいる方は飽きてしまうかもしれませんが、私には全くありません。主のみ前にあって、なんでそんなことがあり得ようか!)
ということは、この恩寵の体験というものは、如何なる人為的な、自力行的なそれを得るための方法論、メソッドというものには依らないということが言えるのです。
ただ、それを待ち望む祈りというものはあるのです。
自分の思いを超えたものの来臨を待ち望む。この臨在のあるところ、思いが超えられているのは言うまでもありません。それは時間を超越していることを物語っているのであり、それは又空間をも超えていることも意味しているのです。
それは実にこの本のタイトル「神はわたしのうちにわたしは神のうちに」という言葉に表されています。
私はどこに居ようとそこは、私の周りにも私の内にも主が臨在している、そういう霊的な磁場のようになる...
ああ、もう考えようとすると気が遠くなりそうです!(思いが超えられているのだから、考えられないのだった!)
私は何度も主の臨在の恩恵に与った...あの時もこの時も!
あの時、この時?...あそこで!...どこで?
今に、ここに!...
今、ここに一つの主の臨在しかないのではないか?!
私はどこから来て、どこへ行くのか知らない...
私が究極の境地とやらに行けるのかどうかも知らない!
そんなことは知る必要もない!
主のあるところにしか私は在ることは出来ない!
他のことは来ては去ってゆく...
もう、気が遠くなりそうだ!
(これは、暑いせいではないだろう!...)