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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

主の臨在と永遠の時

2025-08-24 04:17:07 | 現臨、ハタラキ
「生きた深い信仰の光のもとに、自分のうちにある至聖所に主が来られるのを見る目をもった人は幸いです。この主の来臨とはどういうことでしょうか。前には一度も来られたことなく、いつも全く初めてのように来られるのです。というのも主の来臨は、時間に関係なく永遠の今のうちになされるからです」(三位一体のエリザベット~伊従信子著「神はわたしのうちにわたしは神のうちに」/聖母文庫)

23歳という短命で人生を全うしたフランスの女性神秘家、三位一体のエリザベットの本を初めて読んでみたのですが、そこに実に神、主の現臨とはどういうものかを端的に言い表されておりました。
それはまず、何度もそういう恩恵に与ることはあっても、いつも初めて与ることのように新しいものとして感じられるということなのです。
そこには形式化とか慣習に流れるということは一切ありません。
私はここで、何回この現臨について同じようなことを書いてきたか分かりません。しかし、それはいつも初めての体験のように感じられるのです。(読んでいる方は飽きてしまうかもしれませんが、私には全くありません。主のみ前にあって、なんでそんなことがあり得ようか!)
ということは、この恩寵の体験というものは、如何なる人為的な、自力行的なそれを得るための方法論、メソッドというものには依らないということが言えるのです。
ただ、それを待ち望む祈りというものはあるのです。
自分の思いを超えたものの来臨を待ち望む。この臨在のあるところ、思いが超えられているのは言うまでもありません。それは時間を超越していることを物語っているのであり、それは又空間をも超えていることも意味しているのです。
それは実にこの本のタイトル「神はわたしのうちにわたしは神のうちに」という言葉に表されています。
私はどこに居ようとそこは、私の周りにも私の内にも主が臨在している、そういう霊的な磁場のようになる...
ああ、もう考えようとすると気が遠くなりそうです!(思いが超えられているのだから、考えられないのだった!)

私は何度も主の臨在の恩恵に与った...あの時もこの時も!
あの時、この時?...あそこで!...どこで?
今に、ここに!...
今、ここに一つの主の臨在しかないのではないか?!
私はどこから来て、どこへ行くのか知らない...
私が究極の境地とやらに行けるのかどうかも知らない!
そんなことは知る必要もない!
主のあるところにしか私は在ることは出来ない!
他のことは来ては去ってゆく...
もう、気が遠くなりそうだ!
(これは、暑いせいではないだろう!...)
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すべてを超えたハタラキ

2025-07-16 06:24:23 | 現臨、ハタラキ
“神は抽象的、観念的に考えられ、信じられるものでなく、生きたものとしてアリアリと感じられるものである。現実に臨むものである!...“、私はかく主張せずにおれません。
神のハタラキは、具体的に感じられる...どう感じられるかと言うと、ある種のバイブレーション、波動...私は“ジンジンしてくる感じ“、と言ったりします。
私が関わった宗教的(いづれも宗教ではない、と主張していましたが)団体、例えば「ラティハン」という霊的な修法を伝える「スブド」では、“それは神から来るバイブレーションである“、と言い、又、シンプルな瞑想を伝える「元祐波動会」では、“元波動“と言い、そして又、「大調和協会」では“みわざ“、ズバリ、“ハタラキ“と言っておりました。(私が“ハタラキ“と呼んでいるのは、ここから借りているのです)
各々感じ方は、微妙に異なりますが、一様にバイブレーション、波動と言い表せるものは感じられたのです。
“神的な現臨“、“臨在感“というのは、ほとんどこの感覚を伴ったもの、そこから導かれるものに他なりません。
このハタラキ無くして、“思いが超えられる“ということはありません!
この場合、私は思いを無化する、“無のハタラキ“と呼んでいます。
ですから、“神とはハタラキである!“、と言って...いや、そうは言い切れないでしょう?
私は、一時期そのように理解していたこともありましたが、どうしても神を非人格的なエネルギーといったものに帰してしまうことは出来なくなってしまったのです。
といって、いつも言うように神は人格を有しているかどうかは分からないのですよ。神なんだから人格というのはおかしいようだし...神には人格があるとするのも、非人格的なものとするのも、どちらもそう考えられているにすぎないのではないか?
そういう理屈はともかく...とにかく、“神はハタラキである“と決めつけてしまう思いを超えたものなんだ、すべての思いを超えている、どんな属性にも帰されないものなんだ、ということを言いたいのです。
“神にある“ことは、愛、平安、リアリティに与ることです。特にこの愛というもの...これを理学的なハタラキ、エネルギーといったものだけから感じられるものでしょうか?
“神に在る“ことは、“私が在る“こと、私の実存と切り離されないものである(神を非人格的なものに感じらないことは多くここから来るのです)...それは私が居て、そういうハタラキ、エネルギーといったものを受けるという、あまりにも私自身でありすぎるもの故に、二元性を超えたものではないか?
もっとも、このように感じられる一切のことは、その具体的なハタラキからもたらされるものには違いないのですが!...
それは、神の無限定、無制約的なものを開示させるものなのでしょう。それは、理学的なエネルギーを超えたものと言う他ありません。
というか、このハタラキ、愛、安らぎ、リアリティ...それらはバラバラに感じられるものでなく、神の実感と結びつくことによって、それらが一つにされたようなその真相、真態が顕わになるのではないか?
この私そのものも一つになるように!...




コメント (7)
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暗愁と幸福

2025-05-25 06:38:45 | 現臨、ハタラキ
「喜びと悲しみとか、明るさと暗さとか、積極性と絶望というものは、車の両輪のように両方あって人間なんですね。...私たちは喜びというものをちゃんと知るために悲しむということを知らなければならない」(五木寛之「自分という奇蹟」/PHP文庫)

最近、「暗愁」という言葉を始めて知りました。
五木寛之先生の本に書かれていたのですが、夏目漱石が愛用していた言葉だそうで、明治の頃は様々な人に使われていたそうです。
それが大正、昭和を経て、富国強兵の道を進むことなどにより、日本人の気風が変わり、悲しみなどの感情はネガティブなものとして、忌み嫌われるようになり、暗愁という言葉も忘れ去られるようになったそうです。 
暗愁...実に心の奥に染み入るような言葉じゃありませんか?
哀愁と言った方が私にはピンと来ますが、私の人生では、単にそういう風情に浸るというような心持ちを超えて、何か野良猫が鳴いているだけで涙がこぼれて来るようにも、そういう思いが私の世界を覆うような精神状態にまで導かれてしまうことがしばしばありました。
それは忘れた頃にやって来る...こう書くと奇異に感じる人も居るでしょうが、本当は私の思いを超えたものから来る、と言った方が適切なことなのです。
“それはあの現臨感覚のようなものか?“...そう、そういう意味では相通ずる意識状態と言っていいでしょう。
ただ、現臨感というものは、いつも書いているように、意識的になることですぐ開かれるものに対して、それは本当に、私の方からはそのように導かれることは無いものだし、そのことを私の意志想念でもたらそうとするのも、とてもズレたことと言わねばなりません。
“ああ、そうしてその暗愁のようなものに私の思いは支配されてしまう...“
そのネガティブな心の状態になると、それから逃れる術は無い!...どうやってこの苦境から逃れたらいいのか?...って、何で逃れる必要があるのか!
それは、悲しみを帯びたものではあるけれど、決して苦しいものでは無いのです。
そして、私が本当に神の愛というものを切々と身に覚える時というのは、明るい、喜ばしい精神状態よりも、正にそういうネガティブと言われるような状態なのです。
いや、それはネガ、ポジの状態を超えていると言うべきものでしょう。神的なハタラキを受けるというのはそういうことなんです。
そう、そうなることは幸福なことに他ならないのです。何で逃れる必要などあろうか!
あの悲しみは喜びと一つのものなのです。表の感情では確かに喜びとしては感じられないですが...
あの自然に流れる涙をどう説明したらいいのか?...私には言葉が見つかりません。
私の思いを超えている!...それは本当に恩寵と言ってもいいでしょう。
自覚している限り、最初にそれが私に訪れたのは中学三年の卒業間近の春でした。
勿論、その時は神の愛、ハタラキといったものは知る由もありませんでしたが、私はそれ以降の数度のその不思議な訪れを通して、胸を締め付けられるような、愛そのものとしか言いようのないものが私の中から呼び覚まされるのを、知らずに覚えていたのです。
八年くらい前にも“世界は悲しみが覆っている“ような感じになりましたが、その頃からより意識的になったのか、常住にハートの辺り(チャクラでは無い、多分?)にその対象の無い、愛そのものが働いているのを感じるようになりました。
喜ばしいことばかりが幸福なのでは無い!...いやより深いところから感じられるものは、その暗愁というものを通して来るのではないか?
五木先生が常々、私たちが蔑ろにしている、失っている大きなものは、悲しみに向き合うことだ、と言われる通りです。それは哀、愛そのものを取り戻すことに他ならないのです。
それは、我々の思いを超えて恩寵として、そのことを天来に知らされることもあるのです。私だけではあるまい!...
あなたには感じられないだろうか?...猫、小鳥...動物たちを通し、夕暮れの空を通し、あの悲しみを帯びた、思いを超えた響きが真実に我々が失ってならない、もっとも大事なものを呼び覚ましているのを!...
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私の本心、神に聞くとは?

2025-03-22 06:14:18 | 現臨、ハタラキ
自分の本心は?
本当の自分に聞いてみる、というような時、私は私の神に聞くようにしています。
なーんて...ちょっとぶっ飛んだ言い方みたいですが...
大体、自分からは本心とか本当の自分なんて分からないものですね。
普通は、考えている自分が何が本心か?って、あーでもない、こーでもない、と考えているのではありませんか?
そう神、私の神のことも本当は分からないのでした。
でも、私はすぐ、自然にそっちに意識が向いてしまうのです。その何か分からない神的なものに...
意識を向ける、とか私はよく言いますが、本当はそれも自分からは掴みようのないもので出来ないことなのです。私は意志努力で向けよう、向けよう、というようなことを言っているつもりはありません。
それは、ほんの取っ掛かりとして、意思することはあるけれど、そのように自ずと向いてしまうということなのです。
そうすると、いつの間にか、神的なものが臨んで来る...その現臨に聞いてみるということに他なりません。
その時、何か自分が、考えている自分が(と言ったらいいのか)...頭から、肉体から出て行くような感じになります。
神は思いを超えている、といつも言っていますが、これは空間的に、存在的に自己を超えてしまうということを言っています。同時に思いも超えられる訳なのですが...
だから、本当の自分(らしきもの)は、自分の現前にある、という感じになります。(神が現前している!)
そんな、自分が自分から離れてしまう神などにゆだねてしまうようなことでは自分の主体性が無くなるではないか、と思われますか?...これはとんでもないことですよ!
それは、本当の自分は自分の中に、自分の頭の中にある、という固定観念から来るのでしょう。考えている自分は、本心は自分の中にあると思うのでしょう。(ややこしい言い方ですが)そういう自分は自分の中に向けられないはずですよ。
これも意識が自分から出ることにより向けられるようになるのです。頭の中は関係ありません。
こうなると、自分の外も中も無い感じになります。肉体という壁が超えられてしまう!...
要するに、本心、本当の自分とは、そう考えている自分のことではない!、ということなのです。
だから、私の神に聞くという次第なのです。本心と一つのような神に!...
朝目覚めた時などは、向けるとか向いちゃうということも無く、そういうようなことになっていることもありますよ。きっと寝ている間に臨んでいるのでしょう。
ん~、又出る、出る...自然にそうなる。いつの間にか身についてしまったようです。
これはですね、日頃の祈りの修行の成果なのです...ってそんなことあない!
でも、いつも祈り心にあるということはあります。それも自然にさせられることのようなのです!...



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神の現臨無しには...

2025-03-01 05:56:41 | 現臨、ハタラキ
私の精神的な歩みというのは、五井先生の教えの通りに導かれたと言ってもいいのです。
それを意識していたという訳では無かったのですが、思い返せばそういうことになっていたのを感じざるを得ません。
例えば、いつも祈りをし続け、神を呼び起こし、自分からどうこうしようと思わなくとも、神に導かれるようになり、諸々の思いは神の中に入れて消してゆく、というように...
祈りを通して、主我的なものの主導でなく、神的なもの主導になってゆくようなことです。
ただ、それは五井先生が説かれる、その言葉の通りということでは必ずしも無いのです。
例えば、私は神的なものを“守護霊、守護神“という存在としてはあまり捉えてはいませんでした。そういう導きがあるには違いないのですが、段々そういう実体あるものという感じ、思いからは離れて行ったのです。
又、五井先生の、“神と言っても、普通の人には捉えにくいものですが、世界平和なら誰もが願っているのだから、世界平和の祈りを通して近しく感じることが出来る“、というような説明は私にはあまりピンと来ないのでした。
神を身近に感じるには、神は自分自身と切り離されないもので、神は自分のまわりにも中にも働いている、というように導かれることではないか?...少なくとも私の場合はそうだったのです。
神を意識することは、自己実存を意識することと一つ...
これは、端的に言えば、神的なものが自己に臨む、神の現臨ということを通して実感されることなのです。
私の精神的な道、霊性の道はすべて、このように祈り、神の現臨によって開かれると言ってもいいのです。
神に思いを入れて、消してゆくということも、自分が為すのでは無く、それ自体によって為されることであるのは言うまでもありません。
先生の教えは、益々危機的状況へと進んでゆく世界情勢を背景に、徐々に世界平和の実現という方に教えの力点が置かれるようになったようにも思われます。
しかし、宗教の根本は、本心の開発なあることはずっと説かれていたのも確かなことでした。
一人一人の平安無しには世界平和などあり得ないものでしょう。(五井先生の教えの根幹はそういうところにあったとは感じていますが...)
これは、自分の思いを超えた神の現臨を感じたなら、自己と世界のことも一つのように感じられて来るものでしょう。
世界とか人類と言っても、抽象的な捉えどころの無いものでは無く、私に直に感じている神と切り離すことの出来ないもののように感じられて来るはずです。
神無しには世界平和の実現などあり得ないではありませんか?
この意味で、私にはどうしても神の現臨無しにはすべてのことは始まって来ないのを感じずにおれません!...
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