人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

扉の前で

2014-10-29 19:57:02 | 詩的文章
真っ暗だ

一体どうなってしまったのか?

頭の先からつま先まで何かが射抜いたと思ったら

体も心も機能を失っていく

僕の周りは何かバリアーのようなものが取り囲み

都会の喧騒から遮断した

するとどうだろう

信じられないような生きた現存が顕れて

僕を何かの扉の前に導いた

ああ…段々意識が遠のいていく…

このまま僕は死んじゃうのかなあ…

きっとその前にあの現存によって

恐ろしい裁きが始まるのだろう

現存は何か馴染みのあるような沈黙の声でささやいた

「この扉の向こうにお前を案内しよう」

そら来た!そこで僕の過去の悪行の数々を暴こうというんだな…

「さあ、扉を開けるからトクと見るんだよ」

ー嫌だ! 見れないよ!

「見なさい!」

ー嫌だ! 僕は裁かれるんでしょう?

「裁き? 本当のことを知ることが、裁きなのかね?」

―本当のこと?

「裁きなのかどうか見てみよ!」

段々気がラクになってきたようだ

着ていた鎧が外された感じだ

「どうだ、さあ、見なさい!ありのままを!」

彼の言葉が発せられる度に解放感が増していく

そこに有るのは…どうやらとてつもない歓喜の世界のようだった…

だが僕がそんな世界に預かるなど何かの間違いじゃないか?

ーぼ、僕はそれに預かるに値しないよ…だから見れないよ

「ハハハ、何を言うんだ、これはお前が望んだことじゃないか!」

―僕が望んだ?…

「そうだよ、懐かしくなってきただろ」

そうだった! 思い出した!

全てのアレコレのゴモクは涙の洪水によって洗い流された

そして扉が開かれた…























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こんなハズでは無い!

2014-10-26 18:26:08 | スピリチュアル
私は物心ついた頃から、この現実世界にある種の違和感を感じていました。
時折、現実に生きているという実感がよく分からなくなって、親に「この世界は本当に有るの?」などと意味不明のことを訊いて困らせたりしました。
生きているとは、一体どうゆうことなのか?本当に生きたものとはどんなものなのか?肌触りが分からなくなるのです。
5歳の時だったか、「死」という意味を父から初めて聞いた時、とても衝撃を受けて夜も寝られないほどでした。
「死んだら体も心も無くなっておしまいだよ!」
そんなバカなーッ!
平然とそんな言葉を話している父には血が通っているとは思えませんでした。
「そんな世界によく生きていられるものだ…。そうだ、きっとみんな夢を見ているんだ。」
人間を初め生き物は皆死んで、朽ちて、消え去る…
物という物は全てコンクリートで固められていて、我々を閉じ込めてしまうのか?
私はこんな思いを意識のどこかに巣食わせながら育ちました。
大学4年の頃、この霧がかかったような心の底部に光が差した事が有りました。
ロシア人の哲学者ニコライ・ベルジャーエフの「精神と現実」という本を読んでいた時です。
どこをどう読んだのか定かでは無いのですが、何だか読んでいるうち、ガタガタ震えて来ました。
その本には、この目に見える現実世界を取り巻いている幻想を浮き彫りにし、そこから顕わになる別なる本当に精神の生きた、リアリティの世界について書かれていました。
といっても通俗的な宗教書のように、たとえば霊界といった安易に想像を逞しくさせ、意識を現実から遊離させる表現で無しに、どこまでもリアルな筆致なのが新鮮に映りました。
人々は宗教に神、真理を見出そうとするが、それを形にしようとした途端、生命の無い紙に書いたようなドグマという模造にスリ変わる…
恋愛を永遠なるものにしようと夫婦、家庭を築こうとしたのに、行き着いたのは愛の墓場だった…
我々を取り巻いている世界には、こうした生き生きとした精神が硬化して死に絶えてしまうプロセスに溢れています。
ベルジャーエフはこうした過程を「精神の客体化」と表現しました。
それは我々の精神が、自分自身の本姓と切り離される事により生まれると言います。
という事は精神が本姓(神的自己)に帰るならば、世界は別なる様相で生まれ変わるという事を示唆しているのです。

「こんなハズでは無い」感…。
私が現実感というものを喪失していた時、本当に生きたリアルな世界というものをどこかで知っていたのです。
世界が夢のように思われた時、目覚めた世界を知っていたのです。
こうした気付きが数年後の体験とつながっていたのです。
言わば、予告です。
実際に沈黙の声が告げたようでした。
「ここに書かれているのはお前自身の事なんだよ!」
これは覚醒体験というものは特別なものとして、その事だけを切り離して語られるものでない、という事の一例です。
人それぞれの生き様、トレースに根っこのように息づいているものが有り、やがて花も咲き、身を結ぶという一連の仕組みのようなものでしょう。
それは個人の意志でどうなるというものでは有りません。
花は咲くべき時に咲くだけですから…
花は本来咲くように仕組まれているのです。
それが摂理です…。
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人生の裏側を垣間見たある俗人のたわごと(その2)

2014-10-25 21:38:32 | 雑感
今日はある交流会へ行ってきました。
10人くらいの小人数の集まりでしたが、様々な意見も飛び交い易く、私にはこのくらいの規模が丁度いいと思いました。
このような集まりが同時発生でアチコチに生まれ、やがて点と点が結ばれて…という展開になればなあ、と願っています…。
そこでの話の中でも、帰りの電車の中でも所謂覚醒体験、ワンネス体験といったものに触れたのですが、
前に「覚醒の一人歩き」のテーマで書いたことが、やはり現実に起きているのかなあ、と思わされました。
あまりにも安易に語られ過ぎている…
瞑想修行というものがそのことに焦点が当てられ過ぎている…
そこで私はどうしても次の様に言いたいです。
「覚醒体験すればいいってもんじゃないですよ!」と。
繰り返すようですが、体験そのものはスポット的なものに過ぎません。
それは物心ついてから、今日に至るまでの(あるいは今生以上の)全人生と切り離されて有るものでは無いのです。
言葉が出たついでに言えば、その眩い体験とは、その人生にスポットライトが当てられたようなものというべきでしょうか?
電車の中である人から「覚醒して貴方の人生は変わりましたか?」と聞かれました。
その場では明言しなかったのですが…
いやはや…これから目覚めようとしている方は読まない方がいいかも知れません…。
昭和58年の夏にそれは起こったのですが、翌年4月頃から一年近くまるで運命から見放されたような日々が続きました。
そうですね…恩寵から見放された人生がどんなものか、その一端が示されたようでした。
「こんなハズじゃないんだけどなあ…」と思ったってどうにもなりゃしません。
その頃私は同居していた猫を捨てたことがあったのですが、その報いかとも思いました。
又当時巷では、惑星直列だの富士山が爆発するだの、不穏な空気も漂っていました。
でも一番思い当たるフシは…あの体験を封印したからだと思っています。
「あの時熱でフラフラしてたから幻覚でも見たんだ…あれは無かったことにしよう」と…
それはしかし、その渦中に有った時とはまるで違います。
全く疑いの起こり得ない確信の中に有りましたから…
何で又そんな展開になるのかと言えば、全てはこの日常に戻ってきて、なンてこたアない世界を見てるうち、頭打ちにあったはずのエゴが活性化
したのが原因です。
何せ「悟ったゾ!」と有頂天になってしまいましたから…一方であの無力となって降参した事も鮮烈に身に覚えていて、それが歯止めをかけたのでしょう。
後から思えば、それも又摂理です。
未熟な私にはいささか早すぎた祝杯だったようです。
ロック状態が解除し、新たな気付きを受けたのは十数年後のことでした。(台風一過と地殻活動参照)
この間、全く不思議な事に何かもぬけの殻のように、元の木阿弥状態になっていました。
もし、あの体験で受けたことをそのままこの世的な頭での何の脚色もなしに受け入れることが出来たら、おそらくそんな回り道などする必要等無かったでしょう。
人生の表側に戻ってからの心の持ち様というものが如何に重要なものであるか…その体験が身を結ぶかどうかはその事次第です。
私はただぶっ飛んだ体験をしたわけでは無い、聖なる導きの中にあったのです。
トータルな全人生がそのものと共にあるのです。
過去の1ページでなく、今の今も…






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私の宗教

2014-10-24 20:59:58 | 宗教
「貴方は一体何教なのですか?」
と宗教について話している時など、時折こう聞かれたことがあります。
このブログを読まれた方もそう聞きたくなられるかも分かりません。
まあ「何教でもありません」と答えるのが一番無難でしょう…。
大学生の頃2年ばかし、ある新宗教に入信したことがあります。
本当の意味で特定の教団に依りかかっていたのはこの時だけだったと思います。
半分くらいは洗脳されていたのかも分かりません。
後の半分くらい、それは内心と言ってもいいかも知れませんが、その信者でいる事が苦痛で仕方ありませんでした。
何か教団の教え、決まりなどに雁字搦めにされて、精神の牢獄に入れられている様でした。
私にはこの2年間の経験が、その後の歩みに大きな影を落としたと言ってもいいと思います。
宗教の怖さ、愚かさといったものを知ったからです。
その教団をやめてすぐ,「やめた事でバチが当たるんじゃないか?」という不安を抱えながらも、喩えようのない解放感で心躍らせたことなど、
今でもハッキリ覚えています。
借り物の教えに過ぎないものなんかに心を支配されるなんて、そんな精神的不健全な思いはもう沢山!…
私の本当の精神的探究?はそこから始まりました。
宗教にはある意味懲りたのですが、何人かの宗教家から影響を受けたのも事実です。
そのような縁を受けたことはずっと感謝しています。
ただ、そうした縁からの交流を通して、冒頭のように私の不定見ともとられるような有り様に対し「?」に思われたことも有ります。
「この人はクリスチャンだと思っていたら、節操なく他宗教の事なんか話し出したりして、信頼して損した…」
「彼は根なし草のように漂ってるだけなんだ…」
「コイツの頭ン中にゃ一体どんな神サマがお在しますんだ…」
まあ、好きに言わしておけばいいのです。
私の信仰表明?からは、特定の宗教にしか通用しない言葉は出て来ません。
世の宗教にはそんな言葉で溢れているから…その教団特有の教義、特有の修行法…。
何故ならば、私の導師からはそのような事は何一つ伝えられたことがないから…
「あたかも神の国が訪れたかのように伝えなさい」というのが沈黙の声の促しです。
私の信仰表明には、特定の本尊もありません。
私の導師は姿、形も無くどんな相対も超えているから…
この教えには生まれる以前から入信していて、世の宗教の様に任意に改宗したり、離教する事は出来ません。
この教えの門は一端開かれたが最後、閉ざされることは無いのです。
どうやったら信者になれるかですって?
さあ、そいつは貴方の導師に聞いてくださいな…
信者は今のところ私しか居ないようです。
しかし、もし何時かこの世に神の国が実現したら、
全人類に及ぶかも分かりません…。


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生まれぬ前の我

2014-10-21 19:55:11 | 日本的霊性
「恋しやと思ふ姿を悟りなば生まれぬ前(さき)のわが身なりけり  (二宮尊徳道歌)」

十数年前、お盆の頃だったでしょうか、大阪の下町のとある神社でこの歌に接した時、私はジーンと胸にこみ上げてくるものを感じたのでした。
この歌とよく似たもので

「闇の夜に鳴かぬ鴉の声聞けば生まれぬ前の父ぞ恋しき (一休?)  

という歌も有りますが、鴉にはどうも思い入れが湧かないのと、禅問答みたいで意味がよく分からないということも有って、前の方がずっと印象に残っています。
この歌に触れて「ああ、日本人に生まれてよかったなあ…」としばし感慨に浸ることが出来ました。
我が国の神道では古来、産土(うぶすな)信仰と言うのが有ります。
人間に限らず,生きとし生けるものは土から産まれるということですね。
これは生まれた土地にある神社を崇敬するのですが、その祭神がその人の親神、守護神(先祖というのは、その裔でしょう)にあたるとされています。
生まれ故郷というのは誰もが懐かしく感じますよね。
この望郷の思いの深い部分には、実は生まれる以前からの魂の回帰へのいざないが隠されているのです。
本当の意味での魂の故郷がそこにあるという訳ですが、一体何人の日本人がこのような事に思いをはせているのやら…
これは何かの宗教的ドグマの様に、それを信じ込むことでなく、どういう事がそこに象徴されているのかを悟る、というのが神道の学び方かと思います。
こんな話を人に話しても、まるで外国人と話してるみたいで通じないんだから、A新聞に見るような国民をバカにしたでっち上げもまかり通る訳なのでしょうかね…。
ところでこの我々の悠久にわたる歴史的連なりですが、私に見えざる導師が働きかけてきた時、普通言われる先祖累々といった血縁的系統とは別の系統が存在するのを感じました。
それは必ずしも血の繋がりという訳でなく、より精神的、霊的なつながりが強く、
血統に対し、霊統とも言うべきものでしょう。
前に永遠なるものと連なった個的顕現という事を書きましたが、その事を強く感じさせるのがこの縦軸のつながりです。
(これに対し横軸は普遍性)
そして導師がより私と一体的になると、これらの私のルーツ(特に霊統)に自分自身が重なるようになってしまったのです!
新約聖書でイエスの言葉で「我は真の葡萄の樹、汝らは枝なり」とありますが、葉ッパは落ち、枝ももろく折れてしまうかも知れませんが、大丈夫!
ブッ太い樹もあるし、見えないけど根っこもある。そのすべてが自分なのですから…






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