「世間虚仮唯仏是真(せけんこけゆいぶつぜしん)」
この言葉は、聖徳太子がこの世を去ろうとした時、最後に残されたものと伝えられています。
世の中のことは、善いことも悪いことも仮のものであり、空しく消え去ってしまうものであるが、ただ仏の世界だけが真に実在しているのであるという。
これは、五井先生が「この現世の諸々の相対的な事象は、消えてゆく姿であり、神だけが実在しているのである」と述べていたことに相通ずるものでしょう。
改めて感じることは、この“仏“という一語は、ブッダその人を指すものでもあり、我々に内在している仏性を表すものでもあり、大日や阿弥陀如来のような帰依される超越者のことだったり、神という一語よりも多義的な響きがあるということです。
勿論、私がよく使う神という言葉もそういう響きを持たせているものですが、一面的に捉えられてしまうこともあったりで、中々含みがあることを一言で表しているなあ、と感じ入った次第なのです。
それはともかく...この言葉は、ただ先人が残した教えとして、抽象的に理解しているだけでは何にもならないでしょう。
そうですね...五井先生のそうした教えを私は、何十年も前に聞きましたが、最初はあまり深く理解出来ず、そういうものかなあ、というくらいにしか感じられなかったものです。
しかし、神は命の親であり、愛そのものであるという教えなどは、とても心に刺さったのか、ずっと私の心の内奥に残っています。
そう、もう他の先生の様々な教え、直接聞いたもの、宗教書、哲学、精神世界の本から受けたもの...そりゃ数え切れないくらいありますよ。
善いことも悪いことも...いいや、善いことしか残っちゃいません!
それらに触れて、いずれも幸福感を覚えたのです。そういうものしか残っていない!
中には前世のこととか、霊界の種々層のこととか、現実には真偽の確かめようの無い、表層的な興味を掻き立てるようなものもありました。
しかし、そういうものには本当に幸福感を感じることも、言うまでもなくリアリティというものも感じることは無かったのです。そういうものは世間虚仮のようなものか、上辺で一時的に浮き立つことはあっても心の奥には何も残っていません。
その多くは、頭脳知で思い描いたものでしか無かったからです。そんなものばっかり追い求めたってしょうがないでしょ!
愛、幸福、リアリティ...これらはほとんどが神、仏、私に内在しているものと切り離されたものからは来ないものです。(それが感じられるか否かということは、実に大きいと言わねばなりません)
この意味で、“神、真我しか実在しない“、“唯仏是真“と言えるのです。
この現実世界での幾つかの宗教、精神的な道との関わりには、あまり本質的でない、私には必ずしもいい印象を残さなかったことも多々あるのです。それは全くそう思って、そう感じちゃったんだからしょうがありません。そう、それはあの時のことも、この時のことも、相対的な思いの移り変わる世界の様相のことなのです。
神、真我に直結した世界というのは、それらに隠れてあの時もこの時も、時間的な記憶を超えて、一つの連なりとして現在に息づいているのです。
それは、その時は気が付かなったけれど、そういう思いを超えて、意識的には覚えられているということです。
もう、有難い、感謝しかありません。私のすべての人生にはこれがある!
それも、おそらくは世間虚仮だからこそ、唯仏是真というものが一層ありやかに映し出されるのでしょう...。
この言葉は、聖徳太子がこの世を去ろうとした時、最後に残されたものと伝えられています。
世の中のことは、善いことも悪いことも仮のものであり、空しく消え去ってしまうものであるが、ただ仏の世界だけが真に実在しているのであるという。
これは、五井先生が「この現世の諸々の相対的な事象は、消えてゆく姿であり、神だけが実在しているのである」と述べていたことに相通ずるものでしょう。
改めて感じることは、この“仏“という一語は、ブッダその人を指すものでもあり、我々に内在している仏性を表すものでもあり、大日や阿弥陀如来のような帰依される超越者のことだったり、神という一語よりも多義的な響きがあるということです。
勿論、私がよく使う神という言葉もそういう響きを持たせているものですが、一面的に捉えられてしまうこともあったりで、中々含みがあることを一言で表しているなあ、と感じ入った次第なのです。
それはともかく...この言葉は、ただ先人が残した教えとして、抽象的に理解しているだけでは何にもならないでしょう。
そうですね...五井先生のそうした教えを私は、何十年も前に聞きましたが、最初はあまり深く理解出来ず、そういうものかなあ、というくらいにしか感じられなかったものです。
しかし、神は命の親であり、愛そのものであるという教えなどは、とても心に刺さったのか、ずっと私の心の内奥に残っています。
そう、もう他の先生の様々な教え、直接聞いたもの、宗教書、哲学、精神世界の本から受けたもの...そりゃ数え切れないくらいありますよ。
善いことも悪いことも...いいや、善いことしか残っちゃいません!
それらに触れて、いずれも幸福感を覚えたのです。そういうものしか残っていない!
中には前世のこととか、霊界の種々層のこととか、現実には真偽の確かめようの無い、表層的な興味を掻き立てるようなものもありました。
しかし、そういうものには本当に幸福感を感じることも、言うまでもなくリアリティというものも感じることは無かったのです。そういうものは世間虚仮のようなものか、上辺で一時的に浮き立つことはあっても心の奥には何も残っていません。
その多くは、頭脳知で思い描いたものでしか無かったからです。そんなものばっかり追い求めたってしょうがないでしょ!
愛、幸福、リアリティ...これらはほとんどが神、仏、私に内在しているものと切り離されたものからは来ないものです。(それが感じられるか否かということは、実に大きいと言わねばなりません)
この意味で、“神、真我しか実在しない“、“唯仏是真“と言えるのです。
この現実世界での幾つかの宗教、精神的な道との関わりには、あまり本質的でない、私には必ずしもいい印象を残さなかったことも多々あるのです。それは全くそう思って、そう感じちゃったんだからしょうがありません。そう、それはあの時のことも、この時のことも、相対的な思いの移り変わる世界の様相のことなのです。
神、真我に直結した世界というのは、それらに隠れてあの時もこの時も、時間的な記憶を超えて、一つの連なりとして現在に息づいているのです。
それは、その時は気が付かなったけれど、そういう思いを超えて、意識的には覚えられているということです。
もう、有難い、感謝しかありません。私のすべての人生にはこれがある!
それも、おそらくは世間虚仮だからこそ、唯仏是真というものが一層ありやかに映し出されるのでしょう...。