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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

世間虚仮唯仏是真

2025-06-09 03:56:31 | スピリチュアル
「世間虚仮唯仏是真(せけんこけゆいぶつぜしん)」

この言葉は、聖徳太子がこの世を去ろうとした時、最後に残されたものと伝えられています。
世の中のことは、善いことも悪いことも仮のものであり、空しく消え去ってしまうものであるが、ただ仏の世界だけが真に実在しているのであるという。
これは、五井先生が「この現世の諸々の相対的な事象は、消えてゆく姿であり、神だけが実在しているのである」と述べていたことに相通ずるものでしょう。
改めて感じることは、この“仏“という一語は、ブッダその人を指すものでもあり、我々に内在している仏性を表すものでもあり、大日や阿弥陀如来のような帰依される超越者のことだったり、神という一語よりも多義的な響きがあるということです。
勿論、私がよく使う神という言葉もそういう響きを持たせているものですが、一面的に捉えられてしまうこともあったりで、中々含みがあることを一言で表しているなあ、と感じ入った次第なのです。
それはともかく...この言葉は、ただ先人が残した教えとして、抽象的に理解しているだけでは何にもならないでしょう。
そうですね...五井先生のそうした教えを私は、何十年も前に聞きましたが、最初はあまり深く理解出来ず、そういうものかなあ、というくらいにしか感じられなかったものです。
しかし、神は命の親であり、愛そのものであるという教えなどは、とても心に刺さったのか、ずっと私の心の内奥に残っています。
そう、もう他の先生の様々な教え、直接聞いたもの、宗教書、哲学、精神世界の本から受けたもの...そりゃ数え切れないくらいありますよ。
善いことも悪いことも...いいや、善いことしか残っちゃいません!
それらに触れて、いずれも幸福感を覚えたのです。そういうものしか残っていない!
中には前世のこととか、霊界の種々層のこととか、現実には真偽の確かめようの無い、表層的な興味を掻き立てるようなものもありました。
しかし、そういうものには本当に幸福感を感じることも、言うまでもなくリアリティというものも感じることは無かったのです。そういうものは世間虚仮のようなものか、上辺で一時的に浮き立つことはあっても心の奥には何も残っていません。
その多くは、頭脳知で思い描いたものでしか無かったからです。そんなものばっかり追い求めたってしょうがないでしょ!
愛、幸福、リアリティ...これらはほとんどが神、仏、私に内在しているものと切り離されたものからは来ないものです。(それが感じられるか否かということは、実に大きいと言わねばなりません)
この意味で、“神、真我しか実在しない“、“唯仏是真“と言えるのです。
この現実世界での幾つかの宗教、精神的な道との関わりには、あまり本質的でない、私には必ずしもいい印象を残さなかったことも多々あるのです。それは全くそう思って、そう感じちゃったんだからしょうがありません。そう、それはあの時のことも、この時のことも、相対的な思いの移り変わる世界の様相のことなのです。
神、真我に直結した世界というのは、それらに隠れてあの時もこの時も、時間的な記憶を超えて、一つの連なりとして現在に息づいているのです。
それは、その時は気が付かなったけれど、そういう思いを超えて、意識的には覚えられているということです。
もう、有難い、感謝しかありません。私のすべての人生にはこれがある!
それも、おそらくは世間虚仮だからこそ、唯仏是真というものが一層ありやかに映し出されるのでしょう...。




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直にあるもの

2025-05-19 05:35:10 | スピリチュアル
私には特別な信仰も修行も身についていません。
数多にそういうものがあるということは、相対的になっているということです。
私の信仰、私の修行...それらは常に私そのものと別在している、私と二つになっている...その意味でも相対的なものです。
それらは、取る、得る、手に握れるもの...即ち囚われるものです。
そういう信仰や修行を追い求め続けて、幸福、悟り、神...何であれ、いつかそのうち、その求めているものが得られ、求めている境地に到達するのでしょうか?
直にあるもの、今、ここにあるもの(これは存在論的にある、ということではありません)、直に私そのものと一つになるもの...第二義的でないもの、相対的でないもの...他の如何なるものとも代えられないもの...それが私の第一義的な問題なのです。何故、特定の信仰、修行というものが問題となろうか?...
それは、この一コの私からは求められないものであるのは分かっています。絶対的なものは絶対者自ら、私に直に働き、入って来なければ...だから、祈るしかありません。
それを信仰や修行のことにしても何にもなりません。何故、二義的、相対的なものに落とさなければならないのか?
直に祈る、真向かいに祈る...ああ!、私は何を言葉にしているのだろうか?
私自らが直に、真向かいに祈ることなど出来ないではないか?!
おのずとそうなってしまう!...相対を絶したもの自らがここに臨んで来る!...
祈ることは、ゆだねるしかない...おのずからなるものに任せるしかありません。そこに簡単だとか難しいということはありません。あなたが思い、為す、何ものも無いのだから!
何故、かように直にあるもの、直接的なものが問題になるのでしょうか?
宗教、哲学、霊性の道では、そこを徹底すること、生き尽くすことがしばしば問題にされて来ました。
“まだ、それは自己と分かれていて、究め、尽くされてはいない!“とか。
ある段階を超えると、自分の思い、力が及ばなくなるにも関わらず...そういう思いがいつしかエゴ.マインドに取って代わってしまうにも関わらず!...
それでも二義的なものに留まっていてはならない、徹底されなければならない!
何故か?...分かりきったことです!...目の当たりにするということは!...
しかし...至福、愛、リアリティ、神と一つになること...どう言葉に表そうとしても言葉になりません!
あまりに私そのものであることというのは!...
私そのものというのは、全く私を超えているとしか言いようがありません。
私は本来神と一つ?、神、真我しか実在しない?
そういうことを信じ仰ぎ、何かを為そうとしても何にもなりませんよ。
何故、分からないのだろうか?
こんなにも私と直にあるものなのに!...






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朝の目覚めと恩寵

2025-05-11 05:21:28 | スピリチュアル
「目覚め、夢見、眠りの三つの状態すべての中で、あなたはあなた自身の真我としてとどまるのだ」(ラマナ.マハルシ)

度々書いている、朝の目覚めのあの至福の時のことですが、それは全き静寂としか言いようの無いもので、思考が後退して、純粋意識が顕わになることがそれをもたらすのです。
私は考えている私だけで存在しているのではない、自分を超えたものと切り離されない、神の現臨と共に在る!...
真我というその実体は分からないが、“私は思われた私ではない“ことを示されることにより、その自己実存が開かれるのを実感せざるを得なくなるのです。
いつもそうなる訳では無いですが、それは、眠りにあって、夢を見ている時も、熟睡していて夢の記憶も無い時にも、その愛、平安、リアリティに与っているのです。そして目覚めた後も!...それは夢、眠りの記憶では無い!...一つの意識状態なのです。
驚くべきことは、それは、祈りや瞑想などの何らの修練、工夫を通さずにもたらされるということ...それは恩寵としか言いようがありません。又、そうした修練によって、そうしたものに与ったことは一度もありません。
それに与る度に私は切に願いたくなります。“ああ、この状態がずっと続いてくれたなら!“、と...
大体は、その目覚めから二度寝をして、又目覚めた時には元の黙阿弥になっています(笑)。
そうなると、思うことは一つではないか?...その状態をキープしていたら良いということになるでしょう?
しかし...その具体的な方法があるのかどうかは分かりませんが、私はそれを試みたことは一度もありません。
何故ならば、それは、そうした意志想念を用いる、人為的なものを介入させるということなのだから!
私はそれを自然な、全き恩寵として受け入れたいのです。
もっとも意志想念ということでなくとも(微妙な言い方になりますが)、いつも意識的になる、神的なものに意識を向けるようにする、ということはあるかもしれません。
霊性の道では、“こうすれば必ずこうなる!“、という方法など無いと考えた方がいいと思いますが、眠りに就く前に祈り心地になるというか、そういう意識で居たなら、それに導かれる可能性は高いということは言えるでしょう。
肝心なことは、“そうしたい!“という自分の意志的な思いを引っ込め、あくまで上からの恩寵を待ち望むという、ゆだねる心持ちで居ることでしょう。
有り体に言って、“朝目覚めたら、私の思いを超えたところでそうなっていた!“、という、実際そうとしか感じられないのだから、天に任せているようなことでいいのでしょう。
それで修行が足りないとか何とか言われようが構いません。修行してそうなったことがないのだから!...私の場合はね。
この記事を読んで何かの参考になったかどうかは分かりませんが、何かを試みたい人は自由になさったらいいでしょう。(くれぐれもあまり妙なことに囚われて、ヘンなことになりませんように!...)
あなたのことは、あなたの神が一番よく知っているのでしょう!






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神に意識が向けられる理由

2025-05-10 06:15:40 | スピリチュアル
いつも言うように、霊性の道においては神、自己(真我)を明らかにしない道は無い、と言っても過言ではないでしょう。 
大まかに言って、神については祈りが、自己については瞑想がその方法として対応していると言えるでしょう。それぞれ神に、自己の内面に意識を向けるということがある訳です。
私の場合、その二つのものがどうしても一つのものにならざるを得なくなってしまうのです。切り離すことが出来ません。だから祈りと瞑想は切り離せるものでは無いのです。
正しいとかダメだとか、何らの色づけされない、自己そのものに意識を向ける...すると直ぐに自己を超えた、神的なものに意識が向いてしまう。又、神に意識を向けるとそこにそうした自己が顕わになって来るという具合に...
しかし私の場合、現実には最初からずっと自己の内面に意識が向けられるということはほとんどありません。常に神に意識が向けられてしまう。これは自然に、無為的にそうなるということなのですが...
神に意識を向けても、自己に向けてもどちらでもいい、と言えばそうなのですが、どちらでもいいということには又ならないのです。
これには大きな理由があります。神と自己には欠くことの出来ない秩序といったものがある!...
それは、ずっと自己だけに、真我を明らかにするために意識が向けられる、ということは言ったように、おのずからそうならないのですが、人為的に意志想念を働かさなければそうなりません。
つまり、思いを超えた方(神)に意識が開かれないということなのです。
自分はいくら思われた自分でない、真我に意識を向けているつもりでも、思考マインドは中々超えることは出来ないのです。
そして、こういう看過出来ない問題も起こって来ます。それは、自我は容易く真我になりすまそうとするということです。私は真我になりたい、悟りたいというのは自我マインドなのです。
勿論、私は自我は無くさなければならない、なんて出来もしないことを言うつもりは無いですよ。
ただ、思いを超えた、神的なハタラキを頂くことが無ければ、人間は自我的なものとならざるを得ないということは言えるのです。
その思いを無化するハタラキが無ければ、思考マインドと、それを超えた純粋意識の識別がなされないのです。
自己は、神を超えることは出来ないのは自明なことではありませんか?(だから、真我は神を超えたものだ、なんて全く中身の無い、顚倒した言説に囚われたりするのは、実にサタン的な、救い難い思いの在り方と言う他ありません)
霊性を開くには、神、自己(真我)に意識を向けてもどちらでもいいでしょう。しかし真我というものは、思いを超えたところに顕わになるものです。神と一つのものというのが自己の本来性なのでしょう。
だから、神と切り離せないという意味でどちらでもいいのでしょう。







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神の像、真我の像

2025-04-02 06:31:53 | スピリチュアル
「人間は神の真の似姿であって、神はそれをこの上なく愛し、自分自身の本体であるこの似姿のうちに自らを顕わにする」(ヤコブ.ベーメ)
「神は人間存在の意味である」(ベルジャーエフ)

創世記に、“人間は神の似姿として造られた“とあります。
似姿というのは、それを映し出すもの、像のようなものでしょう。
人間は、神を映し出す像、元より神性を内に宿しているものである...これが多く西欧などでは、“人間は本来神の子である“、と説かれる典拠となっているようです。
近世ドイツの神秘思想家ヤコブ.ベーメがこのことを強調し、後進の幾人かの哲学者、文学者、宗教家などに影響をもたらしましたが、取り分けベルジャーエフにより掘り下げられ、受け継がれました。
一者である神は、自身を直接見ることが出来ません。故に自身を見たいと望まれ、それを映し出す像として人間を創造しましたが、それは自身の性質も写(移)すということを意味するものでしょう。
だから、人間の内には神と等しい性質が秘められている訳です。
といっても、そういう“人間の思いを超えた“ような神話めいた話は、神など信じなくとも自由に思い、為して生きていける(と思っている)一コなる人間には、信じることも受け入れることも出来ないものでしょう。その限界を知らされない限りは!...
人間、この私自身、私の人生とは、そう思われたものだけのものなのか?...本当の私とは何なのか?
それは、いわゆる信仰ごと、人がそう信じ従って言っている言葉を信じるだけのことからは、充足出来ないものであるはずです。人間だけで生きているという限界を知って、自己実存に目覚めた人間であるならば!...
この自分は、鏡を通して自分の姿を見ることが出来ます。しかしそれは、先の人伝に知ることと同じで、直接自分を見ることとは違います。
私は、一度も鏡に映し出された自分がそのまま自分そのものと思ったことは、“相変わらずさえない顔してんな“と感じることはあっても、本当には一度もありません。直接見ていないのだから!
すぐ壊れてしまう、ガラス細工のものに映った姿が本当の自分なのだろうか?
本当に映し出されるものとは、自分を超えたものに映し出されたものではないか?
それが思っているだけの自分を超えた、真の自分の姿なのではないだろうか?
そして、真に自分が超えられた時、直に自分自身に向き合わされるのです。
言うなれば、真我の像を通して!...それは鏡を見るように見る像ではありません。内なる目に映じられるものです。
それは神的なものと一つのもの...神が自らを見たいと望まれた、その像が如何なるものかは、あまりに超越的である故に分からないが...そうした神の像があるのであれば、我々にはその真我の像があるということなのではないでしょうか?
人間は自分を超えたもの無しに自分を見、知ることは出来ないのですから!...
いずれにしても、このことは一者が一者のままであるならば、生起されて来ないものでしょう。
一者は超え出る!...ここに神と人間の二元世界が生まれるのですが、それは分離したままということを意味するものではありません。
そして人間も思っているだけの自分を超え出て、神と一つになることが出来るのです。
神の像、人間の、真我の像を通して!...
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