人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

進歩という幻想

2018-08-24 04:32:47 | 哲学・思想
"現代は過去よりも進歩している...過去から現代、又未来へと段々進歩して行くものである..."
多くの人は、現代という視点で、現代の水準(何をもってそう規定されるのかはともかく)から過去の事相を評価し、短絡的に時間の経過と共に進歩して行くものと捉え勝ちになるようです。
なるほど、技術の進歩などを見ても、昔とは比ぶべくもなく発達してきているのは、疑いようがありません。
この技術は、科学の進歩に負っている部分が大きく、多くの人には進歩と言えば"科学文明の進歩"と認識されているものと思われます。
何かが進歩すれば何かが向上するものらしい...然るに改めて述べるまでもなく、何故現代ではかくも人心の劣化、自然界の崩壊といったことが叫ばれなければならないのでしょうか?
何かが進歩すれば、何かが後退、失われてしまうことこそが認識されねばならないでしょう。
"文明、人間の叡智は常に上へ上へと成長し続ける...一体我々の何が進歩、向上して行くのか? かつてのスローガンに「人類の進歩と調和」というのがあったが、それは調和というものと伴っているのか? その目指すものは何なのか?"
いや、人類存亡の危機まで取り沙汰されているくらいで、もう進歩向上の行き先は究極の下落、その終焉しかないようではありませんか?
この進歩の楽観主義は、精神世界にも浸透しており、"現在、人類は飛躍的霊的進化の目前にあり、次元上昇に入らんとしている..."というご存じの言説も根強く信奉され、個々においても、たゆまぬ信仰、修行を続けていけば霊的進化の道をまっしぐらに進むものと捉えられているのです。
そこに揺るがぬ根拠、全身心を揺さぶるような確信がある訳ではないのに...ただ、何となくいつかは目指すべきところに到達出来ると信じられているだけのようです。
これはしかし、今に始まったものではありません。昔から宗教、スピ界隈にはこうした短絡的な信仰は付き物なのです。
人間精神の、科学文明の進歩というものもこの短絡的楽観信仰と同じ軸にあるのでしょう。
今日の抜き差しならない諸々の危機的状況は、この何処にも行き着きそうにない進歩信仰に胡座をかいていたからと言ってもいいでしょう。
それでも私は、今日多くのスピ関係者が述べているように、我々の精神のある面ではかつてなかったような、ある直接的なその変容の道が開かれているのを感じざるを得ません。
しかし、それは我々の飛躍的霊的進化によるものとは感じていません。
ある面何かは確かに進歩しているには違いない...しかし、別の面でそれは同時に行きどころのない末期症状を呈しているとも言えるのです。
人類はそれ自体が発達、進歩して行くものなのでしょうか?
楽観的進歩信仰が見落とし、蔑ろにしているものは、そのうわべの、上向きの進化に隠れた"深化"であり、平安、調和と相まって進行、浸透してゆくあるものでしょう。
後者と切り離された進歩というものは、元より進歩とは言えません。
そして、それは我々自らの力によって求められ、獲得出来るものと捉えられるのなら、短絡的進歩信仰と何ら変わらなくなってしまうでしょう。
我々のうわべの、上向きの思いに隠れた、見えざる思いもよらぬもの、そう在らしめるハタラキにこそ、進歩と調和の源泉を見出だすべきなのです。
人類は単純に過去から現代、未来へと進化して行くものでなく、調和と共にあるものであり、その裏には、そのものが我々を通して顕現しているということが隠されているのではないでしょうか?
今日の状況は人類の進化か、退化か、あるいは終焉が迫っているのかは観方、感じ方によるでしょうが、そのものの顕現が著しくなってきているように感じられます。








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする