人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

もう一つの手島郁郎像

2016-04-30 13:49:35 | 人生の裏側の図書室
手島郁郎先生の次男で、哲学者、聖書学者の手島佑郎さんが「わが父・手島郁郎を語る」という本を出されました。(七つ森館刊)
これは実に得難い!…貴重な証言と言わねばなりません。
先生の伝記的な書物はいくつか出されていますが、いずれも先生を美化したものしか伝えていない中で、本書は肉親だからこそ、書き得たであろう、ありのままの、もう一つの手島郁郎像を浮き彫りにしています。
沈滞したキリスト教界にあって、数万とも言われる信徒数を誇る原始福音・幕屋の創始者手島先生は紛れも無く、日本宗教史上類を見ないカリスマ的指導者でした。
その一端は先生の信仰日記を集めた「地路歴程」(キリスト聖書塾刊)という書物にリアルに記されています。
全く休む間もなく伝道、集会に奔走する日々…使徒行伝さながらの聖霊の業の生ける証…
”この世に有りながら、超越界の命にひたぶるに生かされるとはかくなるものか!”と、誰しも驚嘆してしまう事でしょう…。
しかしながら、聖者、預言者と言えど人間には変わりません。欠点も弱みもあります。
何人かの人を躓かせたりもします。
人間そのものは神では無い、その営みも完全では無い、そうしたものを通して、底に流れる言葉に表せない、生命の息吹を受信していく事が大切ですね。
ことに我々の常識的判断を超えるような人智を超えたカリスマ的な力が働く時こそは、実際に媒介となっているのは生身の人間である、という事を見極める事が大切です。カリスマというものには良し悪しが有るものです。
私はこれまで、いくつかの宗教的なグループとの関わりの中で、”カリスマ的人物、強力な指導者待望”の声というものを聞きました。
これは言い換えると”自分たちは無力で、信頼するに足らない、だから特定の人物を仰ぎたい…”と言っているようなものです。
自己信頼という事を離れて、意識が内なるものから外に向けられるのです。(そこから健全性というところから逸脱する契機も生まれます。)
そして、それはグループを大きくし、強めたい、という欲求と結びついています。
それは、カリスマとグループの成長との相関というものを示唆していますが、それは手島先生の生き様にも反映されていることでしょう。
晩年、先生の終生の親友だった小池辰雄先生に「マクヤを大きくし過ぎたかなあ…」と漏らしていたそうですが、集会が大きくなるにつれて、運営とか維持などの問題も起こり、原初にあったものとは異質な現世的な力が否応なく働き始めるものです。
又その大集団の指導者ともなると、統制力を強めて行く必要も出て来ます。
弟子の前では絶対的威厳、対外的には自派の自負、といったものを示すことも顕著になってきた、と本書で隠さずに述べられています。
ことに先生の激昂しやすいという欠点が招いたであろう、愛弟子の離反(造反では無かった!)事件の真相などは、”神の人と言えど聞く耳は持てないのだなあ…”という事を滑稽にも思い知らされる件です。
又、先生亡き後の幕屋の変質ぶりにも触れていますが、著者自身がこのグループを離れた経緯も詳しく述べられています。
教会権威に依拠しないというところから出発した幕屋集会も、いつしか人間臭い権威主義がはびこり出したのです。
私は大阪で二度ほど日曜集会に行った事が有りますが、何か宗教特有の個人を覆ってしまうような集団的な力を感じて、あまりいい気持ちはしませんでした。
でも、そうした事から離れても手島先生は、私にとり初めて上よりの恩寵の光の存在、それに預かることにより人生が一変してしまうことを知らしめてくれた恩人です。
マクヤから小池先生の集会に転じてきた方に、「手島先生っておっかない人なんでしょう…」などとお聞きしたら…「いやあ、愛そのものの人だったなあ…」と言っていたのが印象に残っています。











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当たったあ!

2016-04-28 12:06:35 | 回想
内山が負けた!
一体誰が想像したでしょう…
巨人は阪神に大勝! ピンチにゲッツー、エラーを貰う、ホームランは出る…5回が鬼門の投手(田口!)が初完投…何をやっても上手くいく展開…
して、ボクシングでは内山の弟分の田口(!)が、KO負けを知らないタフな挑戦者をバッタバッタと倒しまくって棄権勝ち…
河野もダウンを奪って持ち味を発揮して大差の判定勝ち…
おや?…やけにメインイベントの放送時間が延びてるぞ…ハハーン、こりゃ早く試合が終わっちゃったってワケ?…そうだろう、あの内山だ、相手はパンチ無いし、負ける要素など考えられない…
ゴング! ヤヤッ、意外!挑戦者が前に出てきたぞ! 結構いいのを貰った…しかし、いつも一Rは様子見の内山のこと全然気にしてない…という事は…次で決まったんだな…で、何?…信じられない!…内山の方が天を仰いじまったあ…これは効いた、どうにか立ったがフラフラしている、これで試合がストップしてもおかしくない痛烈なダウン、事実上これで決まってしまった…
最後にこういう結末が待っていたとは…スイスイ行かないもんですね物事は…昨夜は寝つきが悪かったです。ボクシングの恐ろしさを改めて思い知らされました。
約五十年前の昭和42年4月末、この夜とは違う空気に導かれましたが、会場が一瞬同じようにざわめきに包まれました。テレビ放映の解説では ”あ、当たりませんねえ…ダメです、当たりません!”と…次の一瞬、”あ、当たったあ!”映画俳優のようなイケメンで”不倒の男”と言われたチャンピオンが”ドタッ!”と顔から倒れたではありませんか!
世界ジュニアウエルター級(現スーパーライト)戦。チャンピオン、イタリアのサンドロ・ロポポロ。ロ-マ五輪の銀メダリスト、決して弱いボクサーじゃないです。少なくともこの試合までは…
全く絵を描いたように対照的に見える、無精ひげの挑戦者は日系ハワイ人の”ハンマーパンチ”藤猛です。
おそらくこれまでの日本人ボクサーで、(体重差無しで)もっともハードパンチャーだったのは、私見では彼か内山じゃないかと思われます。
当然のことながら、戦前の予想は”当たれば勝てる”で、そうなったのです。
その一撃はまた強烈、全く昨夜と同じ感じ、ロポポロ足を引きずってる。事実上、それで決まったも同然でした。その後のレフェリーの処置が悪く、哀れにもロポポロはロープを背に、何発もそのハンマーを浴びてしまうことになりました。おそらく彼はそれでボクサー生命が縮まってしまったことでしょう…。
試合後、藤はリング・アナからマイクを奪って”岡山のオバアチャン、観てる…ボクシングはヤマトダマシイネ…”と何を言ってるのか分からないメッセージ。これは流行語となり、一躍時の人となりました。
初防衛戦は半年後、峠の過ぎた欧州のボクサーにKO勝ちしたものの、翌年秋、ハンマーはついに当たらず…一発はおろかカスリもせず、挑戦者の正確無比のジャブ!を再三浴びて棄権負けしてしまいました。(ジャブでKOが決するというのも記憶に無いです)
これはちと相手が悪すぎました。アルゼンチンのニコリノ・ローチェ。私が観た中で、こと防御に関してはナンバーワンです。(何がスゴイって、フットワークをほとんど使わない、ベタ足のままあの手この手のテクニックでかわしまくるのです。井岡一翔に土をつけたアムラットという黒人みたいなタイのボクサーがこれに近いか…)
こういうネタを書いていて、ちょっと複雑な気持ちです。
昨夜の結果が無ければ多分書いてないでしょう…しかし、まざまざと思い出してしまいました…。まさかそういう展開になるとは…
昼間、同年代くらいの仕事仲間に「藤猛って知ってる?」「ああ、居たねえ…」と、当時の戦慄の試合展開を迷?解説していたのです。(何せヒマだったもんで…)
そして、頭のどっかにふと過りました…近頃想定外のことが多いな…とはいえ、こんなネタ書くことも…”あるかもね”と…。
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万人の道

2016-04-25 13:34:49 | 独語
”この教えしかない、このメソッドに勝るものは無い…”って言うけど…
僕には何一つ”これしかない”ものなど身に付いちゃいない!
そういうフレコミのものは沢山知っているよ…
でも、ほとんどスルーされるだけだ
覚えようという気にもならない…
いつも僕はこんな感じで促してくるものを受けていた…

”お前はどんな道でも教えでも自由に楽しむことが出来る…
だが、それを決めこむ道は与えられていない!”

僕は余程何かを決めつけたり、固めたりすることに懲りている様なんだな…
決めたがる人は好き好きで決めてみたらいいんだ
それは全くもってその人の問題であって、他の人には関係無いことだ
だのに、何で又人に押し付けたり、押し広めようとしたり、
余計なマネしたがるんだろう…
僕にそれを押し付けようものなら、もうタダじゃ済まなくなるゾ!
爆弾投下の許可をもらうことだって出来るんだ!
そんな僕でも、誰もが通らなけりゃならない道、
誰にでも平等に与えられている道というものは知らされているよ…
それは他でも無い、私の道であり、あなたの道だ
いや私が、あなたが道そのものなんだ!
誰もこの道を避けて通ることは出来ない!
逃げられやしないんだ!
その門の前で立ちふさがっているのは…
夢に描いた通りの光眩い神サマかも知れない、
いつも敬愛してやまないマスターかも知れない、あるいは…
醜くて顔をそむけたくなるようなエゴの塊なのかも知れない、
地獄からやって来たドエライ悪魔かも知れない
どっちにしろ、それは私やあなたと別のものじゃない
だから…
エゴだろうと、悪い、ダメな自分だろうと、真我だろうと…
受け入れるしかない! 丸ごとの自分を!
正しい自分、より高い自分、神に等しい自分のことなど、
あなたに一体何が分かるというのだろう…
上っ面の観念論なんかの話じゃないんだゾ!
自分というものは、良くも悪くも無い…
ただ、在るという事を許されているだけ…だから門は開かれるんだ!
”光か闇か”か ”天国か地獄か”
どっちみち、そこがあなたの世界…そこにしか行きようが無い!
そうとも、行きようが無い…開かれた方にしか…
何と多くの人たちは、アカの他人の教えとかアダシ神に騙されていることか!
教えも道もそれぞれの好き好き、
されど、万人の道は一つ…



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自己信頼とカルト

2016-04-24 17:06:03 | 人生の教師
誰の人生でも育った環境、時代相などの縁によって大きく左右されるものですね。
度々言いますように、私の精神的な歩みについては新宗教との関わりというものが大きかったのです。
とりわけ五井昌久先生によって、初めてそうした道を開眼させられたのです。そういう人は他にも少なくないでしょう。
広く、大衆に精神的道を知らしめるという事が五井先生の役目だったのでしょう…。
ただ、これはもう新宗教というものには付き物の問題とも言えることですが、そうして教線を拡大し、組織化するにつれ、本来の宗教の本筋から逸脱して行く傾向も顕れてきてしまうようです。
これはどうしても現世的な側面に関わるため、本来とは別のエネルギーが動き出すためでしょう。
五井先生は、自身について次第に”救世主になった”とか”五聖者が合体した”とか宣言するようになりましたが、果たしてこういう事を言う必要があったのでしょうか?
私は約一年間ほどの付き合いでしたが、この種の尾ひれがついた話というのは違和感を感じてしょうがなかったのです。
それからもう一つ、こうしたことと関連していますが、霊界、前世、宇宙人…といったオカルト的な色の掛かった話の数々…
確か先生はこう言う話は捉われになるからと慎重にされていたと思いますが、時折講話などで漏らしていたのも事実です。
これは、五井先生が育ち、修行させられた環境が大本教に起源を持つ、心霊的な側面を強調する団体だったからでしょう。
見えない世界というものを分かり易く説明するために、霊界とか幽界とかの話を持ち出したのです。
ただ、こうした傾向は先生から、というより周囲には瞬く間に色がさらに強く、多様化して広がっていくものです。大衆というものは感染しやすいものですから…
今日、ネット上では、五井先生で検索するとこの種の記事が沢山有ります。今や一教団というものを離れて、先生に縁のあった銘々が発進しているのです。例えば…
”世界平和の祈りをさせまいとする闇の勢力が有ると言う…
その祈りをして、敵対勢力を阻止し、善良なる霊団の守護を受けるのだと言う…(一体どういう念力か)
世界の破滅を乗り切るには、この祈りをし続けるしかないと言う…”
こんな話を聞かされたら、そう言っている向きは一種のカルトとしか思えないでしょうね…。
カルト的話というのは、自分たちはさも一大事のように興じていても、自分たち以外の人間には、全く何の問題にもなりません。
今、世界平和に何が必要かといったら、カルト思考を”消えてゆく姿”にする事でしょう!
私が知っている五井先生ってこんなこと言っていただろうか?
先生が忌み嫌っていたのは、かかるクサイ人間だったハズです。
先生によって精神的な道に開眼されたものとしてもう、悲しくなってしまいます。
祈りをする、しない、ということは善良なる、あるいは闇の勢力の霊団といったもの如何によるのですか?
全くもって自分次第なんじゃないですか?…自分の人生なんだから当たり前のことです!
こうなるともう、自己信頼の欠如、主体性の放棄、思考停止です! これが容易くカルト思考に結びつくのです。自己といっても、それは”これは正しいんだろうか…悪魔の誑かしじゃないだろうか…”とかごちゃごちゃ考え、迷い続けてる何野誰ベえの事じゃないです。とはいえ”こういうものです…”とも言えませんが、”我ならぬ我”みたいなものです。
それは、そういうものに出会ってみないと分かりませんが、その気の無い人には縁の無い話です。
それ以前に自分以外の誰かの教えに依存する思いや、自分自身の現実とは全く関係の無い霊だの高次元だの前世だのといったものにまつわる思いをどうかする必要が有ります。つまり自分を愛し、自分を信頼し、向き合うという事です。
まあ、カルト思考にはこういうことも闇の勢力の誑かしにしか聞こえないかもわかりませんけど…
五井先生は常に宗教の本質は”本心を開くことに有る”と言っています。
私はそのことを前提に書いているのです。
「神とか宗教を信じるとか、どうかじゃなくて自分を信じられなきゃあダメですね…自分を信じられたら宗教なんて要らないんです…」
五井先生の信者にはとても気に障ることをツラツラ書き過ぎてしまったようです。これも先生のことを思ってのことなんですが…
何故だか何かが乗り移ったように書かされてしまいました。




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善と悪の鏡

2016-04-23 14:33:23 | 人生の教師
「女子の身魂は、世界がこういうことになりて居るという事を、実地に見せて罪をとりて、人民をたすける御役であるから、人民の眼からは悪に見える事もあるぞよ。善に見える事もあるぞよ。」
(大本神諭 *女子とあるのは、出口王仁三郎の身魂の位格変性女子のこと)

宗教の教祖とかスピ界の教師というと、ことにその信奉者からは何でもかんでも美化して語られるものです。
当然ながらいくら生き神、聖者、覚者と称えようと彼らとて一人間であり、欠点も短所もある訳です。
新宗教の教祖さんでも、私は直接見聞きしている方もいますが、大体は壇上の特別な人といった風です。ただその新宗教のルーツ、大本教の出口王仁三郎聖師からは、全くそういうイメージは浮かんできません。
それでもいまでも出口聖師は、内外で救世主のように美化して見る向きも多いようです。
聖師については、こうした一面的観方からは、その生前の言動、事績がどういう事を示したものか、真実のところは見えてこないと思います。
大本は善と悪の鏡を出す役目があったという事を忘れてはなりません。
(間違ってはならないのは、善と悪…といってもそれはあくまで役目のことであり、人間自身がそうだ、という事では無いという事です。聖師さん自身は私にとりどこまでも訳の分からないオッちゃんです。)
”大本に起こることは日本に移写する…”聖師の主な事績から日本の、大日本帝国の動向が見えてくる…それは善にも悪にも見える…
例えば、聖師の大正時代の満蒙行脚の中で”諸宗教の道義的一致”という眼目のもと、世界宗教連合が発足しましたが、それは大本主導で行われていた面も拭い去れません。あたかも後に民族協和を掲げた満州国が日帝の傀儡になってしまったように…又この動向に呼応するように日帝の侵略思想のスローガンそのままのようなこんな歌も残しています。
「亜細亜とは葦原の意義あし原は わが日の本の国名なりけり」
「満蒙支那神代の領土なり とり返すべき時いたりつつ」
ただ、こうしたトーンで日本が推し進めた大アジア主義というものが、戦後アジア諸国が西欧の植民地からの解放の契機となったのも事実でしょう。

昭和に入ると聖師は周囲の反対を押し切って、軍隊を思わせる独裁的政治結社”昭和神聖会”を結成し、これが空前の弾圧の引き金となって、大本は壊滅に追いやられました。同じように日本も軍部の独裁化を強め、破滅的運命へとなだれ込んでいったのです。
ただ国家転覆を企図したものと思われていた、その結社の主たる目的は当時貧窮に喘いでいた農村の救済にあったのでした。これは戦後改善されるに至りました。

宗教家としての聖師について見ると、大本教の主な分派教団はこぞって、大衆への教線獲得を目指し、文書伝道、派手な宣伝活動などを通じてその布教戦略を踏襲していました。後に新宗教の有り様をイメージ出来るものの基礎を造ったと言えるでしょう。
それは広く大衆に神信心を浸透させましたが、如何にも内省を欠いた、浅薄なものに流れて行く傾向も造ってしまったようにも思えるし、それまで隠されていた古神道などの密教的な面をも大衆化させたという側面も伺えます。
いずれにしても、その宗教という仮の精神共同体は、官憲による弾圧により、撤廃させられる型となる運命にあったのです。
宗教大本の壊滅は、そのまま日本の敗戦、軍部の解体へとつながっていきます。
宗教、軍事力いずれも本来の人間の理想社会実現の障壁なのです。
これを知らずか、今日でも新宗教教団諸派は、教線拡大、宗門の勢力争い、分裂など、ほとんど宗教の本筋から外れた様相を呈し続けています。
そして新宗教の教祖の中には、自ら救世主などと称している者もおりますが、聖師はあちこちで、自身が救世主、キリストの再臨であるかのような事を匂わす微妙な発言をしたかと思うと、キッパリ否定したりしています。
「今、大本にあらはれし変性女子はニセモノじゃ、誠の女子があらはれてやがて尻尾が見えてくるだろ…」
又、生身の人間を生き神の如く奉ることの愚かさについて、現人神天皇崇拝、自身のことに託けていたのか、こんな発言もしていました。
「ほんとうの存在を忘れ、自分の都合のよい神様を偶像化して、これを国民に無理に崇拝させたことが日本を誤らせた。…とくに日本の官・国幣社の祭神が神様でなく、ただの人間を祀っていることが間違いの根本だった。…」
目に見えるものと見えないもの、限りあるものと無限なるもの、捉えられるもの、捉えられないもの…聖師の周囲には今もこれらのものがが交錯しているようです。
出口聖師というと、大預言者、カリスマというイメージで語られるようですが、私にはその反面自らを媒体とする役目に徹していたように感じます。
正に千両役者という感じです。それがどう映るかは、その人の身魂の因縁次第でしょう…。



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