人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

暑いものは暑い

2024-07-30 09:14:38 | 独語
暑い!
とにかく...暑い!
最高気温38度!
多分、経験したことない!
熱中症になったらどうしよう...
とか、先のことは考えられない
なったらなったでしょうがない!
暑いのに、“暑くない“なんて思おうとしたり
心が動じないフリしたって...
何?...苦しい思いを感謝の思いに変えるのだと!
変わるか!
そんなのはただの変態!
顔は赤くなり、汗がしたたっているではないか!
それが現実...
受け入れるしかない!
暑いんだから暑いと感じるしかない
そう感じよう...
いや、思おうとしなくても感じているだろう...
思い方ではどうにもならない!
そのうち、気が遠くなったり、手足がしびれてくるかもしれない...
そうなったら、多分手遅れ!
そうなってみて初めて分かる!
考えている自分だけからはそうならないということが!
人生には、思いを超えたもので溢れているということが!
そしてもし、そこに苦しみを超えたものが感じられたなら...
そう思おうとしなくても...
苦しみは感謝に変わるだろう...








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それでも神は臨む!

2024-07-28 08:59:38 | 雑感
神的なものが臨む
それと共に意志想念が後退してゆく...

というようなことをいつも書いていて、読み手の中にはそれに異論を説なえる人も居るかもしれません。
勿論、一向に構いません!
どう読もうと、どう感じようと自由なのだから!
又その中には、科学的な哲学的なことから論証したりして、否定的見解を示す人も居るかもしれません。
それも一向に構いません!
私は、いつものその言説を論証して表したことは一度もありません。第一、それはしようのないことじゃありませんか?
だから、ホントはそれが正しいことかどうかということも分からないのです。
従って、その正当性を主張したり、自説に固執する必要もありません。否定されたって痛くも痒くもありません。何も困ることは無い!
だからだから、それを信じるのも勝手でしょうが、ウカツに信じるものでもありません。
ということは、それは私が考えた思想や信じている信仰などのことを語っている訳ではないということです。
これがヨーロッパ中世だったら、命がいくつあっても足りないかもしれません!
それでも、地球は回る、神は臨む!
ふ~ん、色々な意見というものはあるものだ!...しかし、そういうこととは関係なく、ああいうことは起きるのだ!...どうしようもあるまい!
しかしながら、私はそれを感じないという人には、ミもフタも無いことを言い過ぎているのかもしれません。
自己満足と言われても仕方ないのかもしれません。
それでも、私は言い続けたい!
神的なものが臨む!
論証も出来ないことなので、本当のところはどういうものかは分からないが...
私なりに感じたことを言う(表現のし方は人の数ほどあろう!)しかありません!
これは、本当に、ホント~に幸福に与ることなのだから!
理屈なんてものは、ホントにどうでもいい!
自分がそう感じていることを、他の人にも感じてもらいたいと思うのは自然なことではないでしょうか?
ということは、たとえ自己満足だろうと、私は一人で生きてはいないということなのです。
私だけからは出て来ない!
そうです!...私を超えたものからの促しがある!
だから、今日も言い続ける...
それでも神は臨む!...





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はからいを超えて

2024-07-26 09:48:25 | スピリチュアル
「自然というのは、自はおのずからということで、行者のはからいでなくて、そうならせるということばである。然というのは、そうならせるということばで、行者の方のはからいでなくて、如来の方の誓いであるがゆえにそういうのである」(親鸞「古写書簡」)

何度か書いていることですが、私に恒常的に神的な現臨感覚が定着したのは、26年程前からです。
一寸、意識的になるだけでそうなる...火種というか、そういう下地を持った意識状態になったということです。
こうなるまでには、それまでの長年の修行の積み重ねがあった訳でして!...って、そんなこたあない!
修行らしいことなどしてこなかったのは勿論ですが、むしろ、そういう状態、又その先に見据えられていた悟りといった境地を得よう、目指そうという気持ちを断念させられた、はからいを手放されたことに拠ると言ってもいいのです。
手放されたのです。頭の中にいつも思い巡らされていたもの、固執されていたものがスコーンと落ちたような感じになりました。
これは、そういう思いに囚われた自分からは手放すことなど出来ないのですよ。
これはですね、思わず手放してしまうようなものが現前しているのが感じられたからそうならざるを得ないということなのです。
つまり神的なものが現臨したのです!...得ようとしても得られないものが、諦める、放てきすることで得られるというのだからこんな逆説的なことはありません。
“お前が今、握りしめているものを手放せ!“...そういう声なき声の促しをハッキリ感じました。
神、如来、主なる御方の方が迫って来る!、私をその元につなげようと!
私に何やら安心が芽生えて来て、そのものにゆだねようと意識が動いたのです。
実は同じようなことは、それに遡ること15年前にもあったことなのです。
“そうだったのだ!“...私の内奥のどこかに刻印されていたものがアリアリとよみがえったのです。
神のみ手に捉えれなければ、そういうことには絶対になり得ないのだ!
神のハタラキに拠り頼むしかない!...もう、そうなると不退転である!
言うまでもなく、自分の力によってそうなるのではない!…神が臨まれるからそうなるまでということなのです!
こうした私の経験で最も言いたいことは、得よう、求めようという思い、はからいを手放せ!...ということではなく...(こういう物言いが何と多いことだろう!)
“神の臨在を求めよ!“、ということに尽きよう!
神や仏の存在が信じられないのなら信じなくてもいいでしょう。
それは、いたずらに観念ごとで頭の中をいっばいにしてしまうことにもなりかねませんしね!...
つまり、自分で出来もしないことを自分でやろうとしたり、信じられないものを信じようとしたりしなくてもいいのです。それがはからいというものでしょう。
ただ、自分に真向かいに現前しているものは、信じなくても受け入れるしか無いでしょう!...


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人生の苦難の意味

2024-07-25 09:31:06 | スピリチュアル
精神的な目覚めなど、人生で重要な契機に会う前には、大きな苦難を経なければならないとよく言われたりします。
私は、以前それを否定しているとも取れることを書いたことがあるのですが、それは、ある人がその直前に、例えばよく言われる、クンダリーニの上昇に伴う際に味わう、心身に直接関わるようなトタンの苦しみに合わなければならない、などと決めつけた物言いで書いていたことに対してのものだったのです。
私も始めて、そういうことに与った時は、全く一時的なものでしたが、発熱、頭痛(これは、クンダリーニと関係しているかどうかは不明)に見舞われたこともありましたが、以降全く健常態であった時にも与っているので、そのように書いたまでです。
私は、誰もがそんなオソロシイ思いをしなければならない、などと気持ちを萎縮させてしまうようなことは書くつもりなどありませんよ!
しかし、これがもっと大きなスパンの、人生苦というか、人生の歩みに伴う諸々の苦難についてならば、それはあると思うのが自然なことでしょう。というか、それを感じてない人って居るかってんですよ!
ああいうことに与る人というのは、より深い、内省的な苦悩を感じるものだと思います。
そうでなければ、意識が内奥に、あるいは思いを超えたものに向かうことは無いでしょう。
そういうものは、神がそうさせていると言われたりするようです。そうかもしれません。
本当のところは神に聞かないと分かりませんが、私はそれが神の定めた、元々の意志のようには感じられないのです。
神の本当の意志は、我々に苦しみを与えようとしているのではなく、我々を神に向かわせよう、つなげようとすることにあるように思えてならないのです。
そのために、あれやこれやと諸々の思いに囚われた我々の心が挫かれてしまうような、苦難を伴う事態に導こうとするのでは無いでしょうか?
又、神の意志とは関係なく、そうしてカルマが解消されるということもあるのかもしれません。ま、考えても分からないことは、追ってもしょうがないですが...
それでも、私ならどうしても神、私を超えたもの、真我でもいい、そういう方に思いが向かってしまいます。だって苦しいのでしょう?
向かわざるを得なくなるのは、自然なことではありませんか?
そうすると、いつの間にか心が安らぐ...愛に包まれる、リアリティに目覚める...
神、真我に目覚める前には苦難が待ち受けている?...それは何かの法則、絶対条件のようなものなのでしょうか?
だけど、何と多くそこには、このもっとも肝心なことが抜け落ちて語られていることだろう!
これがあるから、如何なる苦しみも受け入れられ、乗り越えることが出来るのではないか!
それが無ければ...私もフツーに人の子...ツラい苦しいことはイヤ、逃げたいです。
それでも、あの愛、平安、リアリティは他の何ものにも代えられない!
それは、最愛なるものとの邂逅でなくて何であろう!...人生の苦しみはこのためにあった!
神の愛は、何かと引き換えにではなく、最初から与えようとされてあるのを覚えずにいられません!...





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今日も文章は流れる?

2024-07-23 10:17:38 | 雑感
言葉というものは不思議なもので、それ自体は動かないものなのだけれど、読み方次第で動くもの、生きたもののように感じられてきます。
という訳で、私は流れるような、躍動するような文章に惹かれます。
滞らない、切れない...散文詩とかエッセイ風なものとか...コ難しい哲学論文でも、そのようなものを感じさせるものはあります。その場合、難しい言葉はあっても、全体的に流れている感じがあれば、さして障りに感じません。
いつも、自然とそういう文章を書かされ、又そう心がけるようにしているのですが、例えば“...“、“!“、といった記号を多様するのもその表れと言えるのです。
しかしながら、拙い文章力とて、満足行くように書けているのか?...どう読まれているのかは知る由もありません。
読む方に戻ると...やたらと、箇条書きとか図表だとかが出て来る文章は苦手です。
自分が書く場合でも僅かに箇条書きにして書いたことはありましたが、図示して書いたことはほとんどありません。
書き手は、分かりやすくするためにそのように書くのだろうけど、私には返って分かりにくい場合が多いのです。
又、それは多く、先のように文章の流れを止めてしまうことにもつながります。 
流れるような文章を、別のものに置換させて、考えなければならない。メンドクサ!
これはどうも、私に固有の精神宇宙の状態に起因しているようなのです。
そこには、常に意識の流れみたいなものがあって、例えば何かの思想ならそれが、その流れに乗ったものだったり、溶け込んだりすれば、それが共感、共鳴といったものを生み出すのでしょう?
私の精神宇宙には、一つ何々とか、箇条書きにされたものも、グラフ、表のようなものは見えない、見えてこないのです。それは、全く現世的な形式に適応されるものであり、上手く変換出来ないのです。
そう、数式というものが正にそうしたものですね。私は根本的にそういうものは、理解出来ない頭の構造になっているのでしょう。
もっとも、形が全く無ければ、認識すること自体出来ないものではありますが...そういうものは、川から桃が流れて来たように、動き、流れと伴ったもの、その中にあるものじゃないのですか?
それと切り離された数式とか図表だけがあるなんて...そういう雲も星も私は一度も見たことないですよ!、そういうものは黒板の上とかにしか存在しないのですよ!
私だけか?...
(分からなかったら、テキトーに流してもらっていいですよ!)



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