禅を中心としながらも、枠に囚われない自由な視点からやさしく霊性の道を説いておられる、立花大敬先生は、特に幕末の時代に相次いで生まれた、黒住、金光、天理などの教派神道の諸教にも深い共感を寄せておられるところに私は興味深いものを感じています。
何故か、明治に生まれ、その教派の分類には外れていますが、明らかにその法統を継承していると思われる大本教のことはあまり取り上げられていないようです。
大敬先生の愛読書の一つは、金光教の教祖、金光大神こと川手文治郎師の伝記だそうですが、大本教は、金光教の一支部から分かれたもので、ご存知、その「金神」という神観も受け継いでいるのです。
先生は、この一連の神道教派の流れを日本的霊性のルネッサンスとし、私と同じように、鈴木大拙師が唱えた、鎌倉仏教だけが日本的霊性の発露では無いのだ、と捉えているようです。
私はその流れに又「日本的メシアニズム」の顕れを観ておりまして、そこでは、神は祀られてばかりでなく、顕現し、啓示して来る...親しく人間と関わり、交わり、あたかも聖書の世界で、旧約から新約に見られるメシアニズムのように、“救済神“という側面を強く表し、その救済の法途として経倫、神仕組みを打ち出すのです。
それは、大本の出口王仁三郎師の登場により、ハッキリとその性格が表れ、頂点に達したと言えるでしょう。
先の金光大神の伝記で金神は「氏子あっての神、神あっての氏子であるぞ」と文治(教祖)に親しく告げています。
この言葉など、19、20世紀ロシアの哲学者、ソロヴィヨフやベルジャーエフらが説えた、そのキリスト.メシア待望と結びついた、“神人思想“と全く相通ずるものが感じられます。
「人間に神が必要であるように、神も人間を必要としている」「神の国の成就は、神人の協調に拠る」(ベルジャーエフ)
いつも言っているように、独り人間が存在すること、実存することにおいても、それは自己を超えた、神的なもの無しにはあり得ないでしょう。それはそう在らしめるものがあるということなのです。
そういう響きを通して、私はそのように神が臨み、切々と“望んで“おられるのを感じずにおれません。
私において、神と一つになることは、私の“神の国の実現“に他ならないのです。
一人一人のそれが、我々の神の国の実現につながるのは言うまでもありません。
わが国においては、その幕末から明治にかけて派生した、一連の神道の流れは、救済神待望と同時に神人が相依り、相成す時代の到来を告げる、日本的神人思想の発現だった、と言えるでしょう。
それは、金光大神に告げた金神の啓示の言葉である、それまで“祟り神“として恐れられていた神が実は人間と切り離されないものであるようにも、直接つながるものであることに端的に示されています。
その点、大本開祖、出口なお刀自の“艮の金神“のお筆先の言葉には、“人民三分になるぞよ、どんなむごいことが出体してもしれんぞよ...」と裁きの神の側面も多々感じられますが、別の面でそれは神人の「持ちつ持たれつの世」の到来を告げるものであり、出口聖師に顕れ、働いた救世主神に和合したように、型は示されているのです。
神人協調の神の国の成就には、一人一人が恐れることなく、神と親しく、向き合うことから始まるのでしょう…。
何故か、明治に生まれ、その教派の分類には外れていますが、明らかにその法統を継承していると思われる大本教のことはあまり取り上げられていないようです。
大敬先生の愛読書の一つは、金光教の教祖、金光大神こと川手文治郎師の伝記だそうですが、大本教は、金光教の一支部から分かれたもので、ご存知、その「金神」という神観も受け継いでいるのです。
先生は、この一連の神道教派の流れを日本的霊性のルネッサンスとし、私と同じように、鈴木大拙師が唱えた、鎌倉仏教だけが日本的霊性の発露では無いのだ、と捉えているようです。
私はその流れに又「日本的メシアニズム」の顕れを観ておりまして、そこでは、神は祀られてばかりでなく、顕現し、啓示して来る...親しく人間と関わり、交わり、あたかも聖書の世界で、旧約から新約に見られるメシアニズムのように、“救済神“という側面を強く表し、その救済の法途として経倫、神仕組みを打ち出すのです。
それは、大本の出口王仁三郎師の登場により、ハッキリとその性格が表れ、頂点に達したと言えるでしょう。
先の金光大神の伝記で金神は「氏子あっての神、神あっての氏子であるぞ」と文治(教祖)に親しく告げています。
この言葉など、19、20世紀ロシアの哲学者、ソロヴィヨフやベルジャーエフらが説えた、そのキリスト.メシア待望と結びついた、“神人思想“と全く相通ずるものが感じられます。
「人間に神が必要であるように、神も人間を必要としている」「神の国の成就は、神人の協調に拠る」(ベルジャーエフ)
いつも言っているように、独り人間が存在すること、実存することにおいても、それは自己を超えた、神的なもの無しにはあり得ないでしょう。それはそう在らしめるものがあるということなのです。
そういう響きを通して、私はそのように神が臨み、切々と“望んで“おられるのを感じずにおれません。
私において、神と一つになることは、私の“神の国の実現“に他ならないのです。
一人一人のそれが、我々の神の国の実現につながるのは言うまでもありません。
わが国においては、その幕末から明治にかけて派生した、一連の神道の流れは、救済神待望と同時に神人が相依り、相成す時代の到来を告げる、日本的神人思想の発現だった、と言えるでしょう。
それは、金光大神に告げた金神の啓示の言葉である、それまで“祟り神“として恐れられていた神が実は人間と切り離されないものであるようにも、直接つながるものであることに端的に示されています。
その点、大本開祖、出口なお刀自の“艮の金神“のお筆先の言葉には、“人民三分になるぞよ、どんなむごいことが出体してもしれんぞよ...」と裁きの神の側面も多々感じられますが、別の面でそれは神人の「持ちつ持たれつの世」の到来を告げるものであり、出口聖師に顕れ、働いた救世主神に和合したように、型は示されているのです。
神人協調の神の国の成就には、一人一人が恐れることなく、神と親しく、向き合うことから始まるのでしょう…。