そのおびただしい数の全著作に比べれば、微々たるものなのでしょうが、ルドルフ.シュタイナーの本は10~20冊くらいか、結構読んでいる方だと思います。
読んでいていつも同じ思いにさせられます。
それは..."ところどころ、共鳴される部分に出くわされるのだけれど、何で土星紀だとか月紀だとか、七つだかの霊的階層を辿る霊的進化の道だとかへ思いが馳せさせられなきゃならないのか..."というものです。
"個的人格を通して現実世界へと顕現しようとする根源的意志なるものがあるらしい...それがキリスト衝動と呼ばれるものなのか?..."
これは個人的に看過出来ないものを感じるのですが、面妖でめくりめくような世界を通らなければ、それに触れることは出来ないのでしょうか?
私はこうした所謂"霊的世界の種々相"というものを頭ごなしに否定するつもりはありません。
でなければそんなに読書意欲など沸いてこないというものでしょう。
さりとて、短絡的にそういうものを信じ込むつもりも勿論ないですが...
精神的、霊的な道に単なる観念事でなしに、真摯に歩もうとするならば、意識の変容を伴う領域に踏み込んでしまうこともあります。
そこには何らかの次元の相異、差違というものもあると私は思います。
それをエーテル界と言おうと、アストラル界と言おうと好きに呼べばいいでしょうが、上に行くほど粗雑なものから段々微細なものになるらしいですが、感情や思考の働きが及び、反映されるような次元というものもあるのでしょう。
このことを理解することで、思考を超えるということの意味が本当に理解出来るかもしれません。
そして異なる次元、階層とされるものは、それ自体相対次元のものであることも...(ここまでは、これは良いとか悪いとか、何が正しくて、間違っているかということを言っている訳ではありません)
シュタイナーなど神智学の教説では、このもっとも重要と思われる相対を超える関門の消息のことが極めて曖昧なのです。
"一体どの階層から他に比べようのない"世界にジャンプ出来るのか? それとも出来ること自体が絶たれてしまうのか?、エーテルとかアストラルとか、低い次元をたゆまぬ修行によって乗り越えなければ、神的な愛や平安に与ることは出来ないのか?、それにはあと何年、あるいは何回転生しなければならないのか?"
もし、こうした霊的階層というものを、コンクリートで区画されたような固定的なものとして捉えてしまうのなら、それはおそらく...間違っていますi
その階層で、最下層とされるのは、この物質的現実世界だそうですが、それではここで生きている人間は誰も目覚めることが出来ず、神的なものに与ることは出来ないでしょう。
"現実に則して"言えば、相対を絶した領域というものは、相対的なものが絶大に支配しているように見えるこの現実世界と相則しており、その根源的ハタラキはあらゆる相対次元を貫いているものではないでしょうか?
その階層らしきものは、おそらく意識の焦点がどこに向けられているか、有り体に言えば、捉えられているかによって、規定されているものではないでしょうか?
従ってとても肝要なことは、意識を固まった、閉じたものにせずに、どこまでも開いた状態にしておくことにあるのです。
これが思いを超えるということにつながってくるのです。
分かっちゃいるけど、そうならないのが、神智学が好きそうな?カルマというものかもしれません。
しかし...こっちの力は及ばなくとも、表れ出ようとする根源的意志というものがハタラキかけているのではないか?
それにゆだねたらいいのではないか...
それをキリスト衝動と呼おうと、元なる神のお出ましと呼おうと何でも構やしないが...
読んでいていつも同じ思いにさせられます。
それは..."ところどころ、共鳴される部分に出くわされるのだけれど、何で土星紀だとか月紀だとか、七つだかの霊的階層を辿る霊的進化の道だとかへ思いが馳せさせられなきゃならないのか..."というものです。
"個的人格を通して現実世界へと顕現しようとする根源的意志なるものがあるらしい...それがキリスト衝動と呼ばれるものなのか?..."
これは個人的に看過出来ないものを感じるのですが、面妖でめくりめくような世界を通らなければ、それに触れることは出来ないのでしょうか?
私はこうした所謂"霊的世界の種々相"というものを頭ごなしに否定するつもりはありません。
でなければそんなに読書意欲など沸いてこないというものでしょう。
さりとて、短絡的にそういうものを信じ込むつもりも勿論ないですが...
精神的、霊的な道に単なる観念事でなしに、真摯に歩もうとするならば、意識の変容を伴う領域に踏み込んでしまうこともあります。
そこには何らかの次元の相異、差違というものもあると私は思います。
それをエーテル界と言おうと、アストラル界と言おうと好きに呼べばいいでしょうが、上に行くほど粗雑なものから段々微細なものになるらしいですが、感情や思考の働きが及び、反映されるような次元というものもあるのでしょう。
このことを理解することで、思考を超えるということの意味が本当に理解出来るかもしれません。
そして異なる次元、階層とされるものは、それ自体相対次元のものであることも...(ここまでは、これは良いとか悪いとか、何が正しくて、間違っているかということを言っている訳ではありません)
シュタイナーなど神智学の教説では、このもっとも重要と思われる相対を超える関門の消息のことが極めて曖昧なのです。
"一体どの階層から他に比べようのない"世界にジャンプ出来るのか? それとも出来ること自体が絶たれてしまうのか?、エーテルとかアストラルとか、低い次元をたゆまぬ修行によって乗り越えなければ、神的な愛や平安に与ることは出来ないのか?、それにはあと何年、あるいは何回転生しなければならないのか?"
もし、こうした霊的階層というものを、コンクリートで区画されたような固定的なものとして捉えてしまうのなら、それはおそらく...間違っていますi
その階層で、最下層とされるのは、この物質的現実世界だそうですが、それではここで生きている人間は誰も目覚めることが出来ず、神的なものに与ることは出来ないでしょう。
"現実に則して"言えば、相対を絶した領域というものは、相対的なものが絶大に支配しているように見えるこの現実世界と相則しており、その根源的ハタラキはあらゆる相対次元を貫いているものではないでしょうか?
その階層らしきものは、おそらく意識の焦点がどこに向けられているか、有り体に言えば、捉えられているかによって、規定されているものではないでしょうか?
従ってとても肝要なことは、意識を固まった、閉じたものにせずに、どこまでも開いた状態にしておくことにあるのです。
これが思いを超えるということにつながってくるのです。
分かっちゃいるけど、そうならないのが、神智学が好きそうな?カルマというものかもしれません。
しかし...こっちの力は及ばなくとも、表れ出ようとする根源的意志というものがハタラキかけているのではないか?
それにゆだねたらいいのではないか...
それをキリスト衝動と呼おうと、元なる神のお出ましと呼おうと何でも構やしないが...