人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

火種を消してはならない

2017-05-30 18:50:04 | 求道、探究
精神的道では、何十年も信仰、修行、探究をし続けているにも関わらず、一向に”これだ!”と、確信出来るものに突き当たらない…という人も多いことと思われます。
いつも書いていることですが、私は、いつも”信仰のための信仰”や”修行のための…”、探究のための…”に明け暮れている人というのを沢山見てきましたし、自分自身も知らず知らず、そうなってしまう事も有るのです。
そして、感ずることは、一体何のための信仰、修行、探究なのか、ということです。
悟りたいため?…苦境から脱したいため?、幸福になりたいため?、本当の自分を見つけるため?
”これだ!”という確信とは、これらのことを満たすことなんでしょうか?
で、望んだとおりにならなければ、それらをやめてしまう人も多いようです。
やめられるという事は、何も始まってなかったということでしょう。
あなたの中で何かが始まったら、何かに捉えられてしまったら、やめられなくなるはずです。
捨てようとしても、捨てられなくなる…
中には、やめると”よからぬことが起きる”、という恐れからやめられない人もいるでしょうけど…信じている神があなたに何かをしてくるんでしょうか?…それは良いことなのか、悪いことなのか?
もし、本当にそういうことがあるなら…
絶対にあなたはそれまでのあなたではいられなくなるはずです!
同じことを飽きもせず、繰り返してなど居られなくなるはずです!
”人生とは、世界とはこういうもんだ!”という信念が根底から覆ります。
そもそも望んでいることがこういう事と結びついていないのなら、信仰も、修行も、探究も全て無意味でしょう。
ホントにホントに人生の大いなる無駄というべきです!
”分かっているよ、神を見出す、つながるために信仰とか修行とかがあるんでしょ!”って、言われるかもしれません。
でも、それはどの宗教の神か、何の神か…考えあぐね、あるいは”神とは何ぞや…”って、考え巡らしてやしませんか?
誰が神を見出し、つながろうとしているんですか?
自分自身のことなら、唯一神だろうと、宇宙の最高神、ハイアーセルフ、守護霊守護神だろうと、人がそう言っている抽象的な神など何になるでしょう。
神を求める事ということは、全くもって他人ごとではありません。
自分自身であることと一つのことです。切り離されたものではないのです。
信仰、修行、探究、悟り、幸福、真我実現…自分がこちらに有り、向こうにそれらを見て、対象化して、手に持つことの出来るモノとして捉えていたら、いつまでも一つになることが出来なくなります。
そして…私は多くの人がこの無駄になりかねない道の途上で、肝心なことを見逃しているのを見てきました。
その多くはそもそものその道を歩まされることになる契機にあるようです。
何が、その道に携わろうとさせたのでしょうか?…少なくともその時は、心が動いている筈なのです。一つになるべきものに捉えられているのです。
仮に特定の教師、教えというものが契機、媒介となるものであれ、そこには何らかの自己と神的なものとの共感というものが有るはずです。
共感においてこそ、自己はそのものと一つになるでしょう。自分の中にそのものの火種が無ければ、燃えるような共感は生まれないのです。
人は言うかも知れません。”倦まずたゆまず信仰、修行を続けなければなりません!”と…
だが、他ならぬあなた自身、あなたの神はどうなのか…一つになっているところから離れた、いかなる道も方法も何になるでしょうか…人や世の中におもねって火種を消してはなりません。













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アジス・クリストフー覚醒の道標ー

2017-05-28 18:24:01 | 人生の裏側の図書室
「明け渡しは人が”居なくなる”ことではない。プレゼンスは、明け渡すプロセスに内在する一部なのだ。プレゼンスがなければ、明け渡しは、ただあなたを”スペース・アウト”させてしまう」
「マインドからあなたを解放する唯一の力は、あなた自身のプレゼンスだ」
「見ている者を見るためには、後ろを見なければならない…」
(アジス・クリストフ「ヒューマン・ブッダⅡ・魂の覚醒とは何か」アルテ刊)

私は上記の本を5年くらい前に読んでいます。
アジス・クリストフはそれ以前から知っていましたが、私は特別、瞑想実修者である訳でも無く、ただでさえ”ステート・オブ・プレゼンス”とか”Me”とか”Iam”とか特殊用語が頻発するなど、頭で理解しようとしてもしょうがない、と思っていたのか、スルーしてしまっていたようです。
今、読み返してみると…思わず身震いしそうになります!…一体私は何を読んでいたのか…
前にも書いた事ですが,このころはあまり熱心に本を読んでなかったし、自分の気付きなどにも、あまり意識を向けられていなかったのです。
この私の意識の変化は、一重にこのブログを書くことの賜物でしょう(笑)
アジスはその朋友である故フーマンと共に、瞑想という事に留まらず、宗教、哲学などあらゆる精神世界に新機軸をもたらしました。
アジスを知る前は、私自身”真我に目覚める”とか、”エンライトメント”と言われるものは、思考を超えた純粋意識に目覚める事としか捉えていなかったのですが、彼がそのアウェアネスの領域の他に、ハートの領域、ビーイング(在ること〉の領域というものを示したことで、我々はそのことをより広く、深く理解出来るようになったと言えるでしょう。
この三つの領域というのは、厳密に分けられるようなものでなくて、重合したものであるのは言うまでもないでしょう。
あの限りない愛に包まれる感じ、安息感といったものは、確かに純粋意識という味気ない?言葉だけでは伝わりそうにありません。
もっと日常的な事でも、例えば知的理解を受ける事には、その奥で実はある感性が伴っている、ということは誰もが経験していることではないでしょうか? 
ついでに言うと、過去記事
http://blog.goo.ne.jp/sitateru/e/413d7b069d2a7ffcd4a854b5ee6586d5
に書いた事の関連で、スピ界隈では忌み嫌われている?思考、マインドというものには、その奥に根源的な”知性”というものが有る、ということを明言したものに接したのは、私はアジス以前にはほとんど知りません。(ベルジャーエフ、ブーバーなどの宗教哲学では、この事を表現する試みは成されていました)
一面的に”思考を落とせ!”などと言われたりしますが、表の思考を通して内奥の知性につながり、あるいはその知性の方が表に顕れている、という場合もあるのです。この事を蔑ろにすることで明晰性を欠いてしまう事にもなりかねないでしょう。
これは彼が言うプレゼンスというものと関係が有るようです。あまり語意に拘る必要も無いと思われますが、”現前しているもの”ということを言い表しているのでしょう。
それは又、私ーMeというものを強く感じさせるものです。”自己を超えたものでありつつ、自己そのものでもあるもの”というべきか…私は主としてキリスト教で述べられているのを借りて、”現臨”などと言っておりますが…
これが無いと、スペース・アウトに陥ってしまうと言いますが、私がかつて意識が飛びそうになった状態というのが、どうも単なるこの状態だったようです。それが、明晰さ、愛の臨在、私への回帰といった感覚と共に安心を得たこと、そしてなにより明け渡しの場に臨んでいたことなど、アリアリと身に覚えています。こうしたことはこのアジスの言葉に触れていないと気付かなかったでしょう。(これはつい最近のことです)
しかし、私は前述したように瞑想家でも無く、彼に特に私淑していた訳ではありませんでした。ただ、モーリス・ズンデルと同じく、ずっと私の目の前には、そうと知らずに、闇を照らし、導いている灯のようなものが与えられていたように感じてなりません。
アジスの本は、数種アルテから刊行されていますが、彼自身言っているように、ごく少数の真摯な求道者に向けられているもので、大衆向きとは言い難いものですが、どれをとっても非二元でも二元でも、信仰でも修行でも無い、我々の精神の内奥を開示し、道標となるものと言えるでしょう…。








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私という道

2017-05-26 13:05:06 | 求道、探究
私はいつも、”現臨に捉えられる”とか”それを身に覚える”とか言っていますが、読む方は、何とも空々漠々とした、捉えどころのない感じを受ける向きも多いことと思われます。
いつも言葉の限界というのを感じてしまうのですが、私はそんな抽象的な事を言っているつもりなど全くなく、じっつに具体的、リアルに実感していることを書いているのです。
スピ界では、ある気付きを得たとか、エンライト、目覚めに預かった、とか報告されていますが、我々は何の取っ掛かりも、媒介となるべきものも無しに、そういう事になることはまずないでしょう。
確かに何の前触れも無しに突如、そういうものが訪れる、と感じる事も有りますが、それ自体意識する、しないに関わらず、それをもたらす何らかのハタラキが関与していることを物語っているハズなのです。
この界隈でしばしば目に付く言葉…”苦しみから解放されるためには、私という思いを無くせばよい、宇宙に全てをおまかせすればよい…”こういうのは全く空を掴もうという試みに等しいものです。
我々には取っ掛かり、具体的に、直に自己に接続されるものが必要なのです。
道なき道ーこれは私が好んで使う言葉ですがーとはいえ、現実にこの身が預けられ、この足で立ち、歩むことのできる道というのは必要なのです。
私がいつも言っていることというのは、通常言われているものとは、いささかズレているかも知れませんが、この事と離れた事ではないのです。
しっかし…この界隈には、”これが究極のメソッド、教えと…”何とまあ、”捉えられる”で無しに、”トラワレ”そのものといっていいもので溢れかえっていることか!
そういうトラワレに関わったら、願っていた通りのことになるでしょうか?
気付き、自由、目覚め…それはまさにそういう諸々のトラワレから解放されるってことじゃないですか?
前述のように、人は何らかの依拠するものを求めて、そうした特定のメソッド、教えに”捉われる”のでしょう。
例えば、”こうすれば真我に目覚められる”という思惑をもって…
しかしそれは、思われたままの自己が、思われた真我を見つけようとするものじゃないでしょうか?
そして、そのメソッド、教えというのは、この自己が携わり、信奉していくものです。
自己が有って、教えなりメソッドが有る…それが如何に非二元を謳った教えであろうと、この”二元性”はずっとあるのです。二元性自体はあってもいいのですが、イロイロと捉われていたら、中々真我には目覚める事が無いでしょう。
本当の自己というのは、自己の限界内からで無しに、自己を超えたものに出くわさなければ…そこから示されなければ分からないでしょう。
”そんな事言ったって、どこにもそんなものは無い”という人には、思われた自己、人生しかないでしょう。
いくら信仰し、修行したって、あるいは何もしないで空論に興じていても無駄なのです!
自己の限界というのは、自分が生きているという先に、生かされているという事実に気付けば、分からされることです。
ここに祈りというものが生まれてくるのです。私自身は、祈りというもの、祈り心を持たされていたことで、徐々に思いを超えたものに意識が向かわされていったのです。
又、本当に自己の限界に突き当たった人というのは…実は”自己を超えたものが有る”、という事が知らされているハズなのです。
何故、その限界が分かるのか?…そして私が現臨と呼んでいるものの訪れも…ヒタヒタと喜ばしきものと共に自己に迫って来るものが…
この得も言われぬ感じ―これは抽象的な教えなどには置き換えることが出来ません―こそが、具体的な取っ掛かりとなるものです。
ある電撃的な閃光を受けるような体験を通してにせよ、いつの間にかにせよ、自己とこの自己を超えたハタラキとの間に回路のようなもの(これが表と裏の接点)が開かれると、いつも言うように”パッ”と意識が向いて”パッ”と…というようになります。
注意しなければならないことは、それを意念で固めないようとしないことです。そのハタラキは、トラワレから解き放つものなのに、新たに捉われるのは愚かな事です。
そして、その超越的光は自分では分からない、この私たらしめているもの、私の本源というものを指し示すのです。
幾多の教えやメソッドというのは、この”私について、私になるための”の道を示そうとしたのでしょう。
だが、この直接的告示は端的に告げます…”私こそが道である”と…
しかし、この私は何処までも、”真我、私の本源に達した!”とは言えません。
そのものにあってこそ、言えることなのです。
”私という道”を見失わないために…。






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ミスターX

2017-05-25 04:34:10 | 詩的文章
ミスターX…
僕はあなたが誰だか分からない
何処から来たのかも分からない
僕の生まれるずっと前から
生き通し
姿も分からない
あなたは叢雲と共に現れる
姿は見えないけど、分かるんだ
分かるよ!

ヒューヒュー風が吹いてきた
あの空洞から…渦を巻くように
そこから命の息吹が僕を捉え、すべてに浸透する
段々息遣いが伝わってくる
肌触りが感じられる
輪郭が出来てくる
ちゃんと目は見えているか
耳は聞こえているか
生き生きとした表情をしているか
感じているか、考えているか…

分かるよ!…ミスターX!
僕はちゃんとここに居ることが出来るよ!
でも、僕は自分の顔を見たことが無い
ホントに何者だか分からないのはこの僕なんだ
あなたの魔法の眼差しで映し出されるまでは…
僕はその眼に見られて、見ることが出来る
そのハートの愛で感じることが出来る
僕の仮面に命の貌が宿る
Xは十字となる
有るとも無いようなものが
現のものとなる
”私の天地部判”
取っ掛かりの無い、拠り所の無い混沌に
”私という道”が生まれる
あなたのあの声に呼びさまされて
”お前は私だ”
















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裏の無いボクシング雑感

2017-05-22 18:08:59 | 雑記
今日の記事には裏は無いです!…私が書いているんですから…無い…デス!

この土、日は二日でボクシングの世界戦が6回もあって、久しぶりにテレビにかじりついていました。
団体や階級の複数化などから、世界王座としてのレベルを問うムキもあるようですが、その権威は薄れたのはやむを得ないとして、私はここ数年が、もっとも日本ボクシング界を通じて高いレベルにあると感じています。レベル…です。
私が最もボクシングに関心を持っていた70年代中頃は、すでに世界タイトルの複数化の動きは始まっていて、頻繁に日本人ボクサーの世界戦も組まれていました。
ところが、挑戦者ときたらこれといった実績も無いにも関わらず、その資格が疑われるボクサーが実に多かった…当然の如く、結果は惨敗を重ねるばかりという有様でした。この時とはもう格段にレベルが違います。
これは分かり切っています。見りゃ分かります…レベルっていうのは歴然とあるんです。
まず、かつてとは体格が違う…今の強いボクサーのほとんどが、細マッチョで機敏にリズミカルに動ける…身体能力が違います。(新チャンピオンの比嘉は、ずんぐりむっくり体形ですが、あんなにスーッと前進して、リズミカルに動いて強打を見舞うというタイプは、今まで居なかったと思います。これからが楽しみな選手です)
技術面の進歩では、ジャブがよく出る事、特にボディブローを的確に、強く打てるようになったこと(海外ではこれが脅威に感じているかもしれません)が挙げられます。
技術というのは、目標に向かって、日頃のルーティーンを守り、弛まぬ努力、精進によって培うものであるのは言うまでもありません。
この6戦を通じ最も見ごたえがあって、面白かったのは、田中恒成の防衛戦(この試合だけ局違いの夕方のTV放送、多分放映が有った事すら知らない人も多かったでしょう。ちなみに私の予想は田中のKO負け。相手はホントにヤバイから…)田中は正にそれを身に付けていると言えます。
しかし、田中ってあんなにタフで、ハートが強い(何でハートが強いって言うんだろ?ハラじゃないのか?)ボクサーだとは思わなかった…田口良一との試合が実現したら、ハートとハートのぶつかり合い、凄絶なボディの打ち合いは必至だろう…顔では負けているが…
そしてファンの大半の興味は、ここに注がれていたであろうミドル級戦…
序盤、ほとんど村田は手を出さない…イヤーな予感が…
私は歯がゆくなりました。プロでこそ実績は無いけど、村田はかつてのデモ挑戦者じゃないんだから…”やれば出来るのにどうしてジャブを出さない…何でボディで相手の動きを止めにかからない…”そして運命のコール…”勝者は…”イヤーな予感…
結果論ですが、日本ボクシング界の進歩(進歩!)の成果を充分見せられなかった事が敗因になったのでしょうか?
カバーをされても、当たらなくてもパンチを出し続けたら、ポイント・アウト出来るって事初めて知ったけど、久しぶりの疑惑の判定でした。
かつてはたまに骨のある、正規?の挑戦者による”これは明白な判定勝ちだ!”と信じて疑わなかった試合が、疑惑の判定で涙を呑んだこと幾たびあったことでしょう。しかし実際に客観的に見ていてヒドイ判定と思ったのは、日本の選手が有利なホームタウン・デシジョンでした。輪島功一ーオリベイラ第一戦とか…どうしても日本人選手を身びいきしてしまうものですが、多くの場合、実況アナ、解説者の言葉、歓声などで眩惑されるのです。なーにが”これは効いてます!”、だ)
協会の会長からの物言いというのも初めて聞きましたが、敵地に乗り込んででも真の決着をつけて欲しいものです。
このままではファンも威信を賭けていた?フジTVも納得出来ないでしょう。(解説者も勢ぞろいという感じで局を超越していたぞ!)
それにしても近年のボクシングの判定は黒白ハッキリさせる目的で、ラウンドごとにポイント差をつけるようになっています。
しかし、どう見ても伯仲していて決めかねるラウンドというのもある筈です。微妙でどうしても分けられない、分離できない事って…あるでしょ?
この微妙なシステムがこの度の物議を醸しだした要因でしょう…。

しっかし…ボクシングって面白いですねえ…裏側テイストのボクシング観?
んなもん、あってたまるかってんです!…面白くもなんとも無い!…ヘンなうんちく垂れてるのはうっとしいだけです。
私がリングでやるんじゃない…私はただ観照、いや鑑賞しているだけですから…(うー、ノドが渇く…トイレが近い…早く出ろ!…ゴングが鳴るう…)
面白いことに表も裏も無いんです!

ンなワケで…”今度はメンドーサ会長…裏での、アレ頼みましたよ…”



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