人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

イッちゃったi...

2019-07-30 11:56:12 | 独語
私はある建物内で、行く先を迷って、妙な所に踏み入れてしまったようだ...
薄暗い、誰も居そうにない...いや、隅っこの方で二人しゃがみこんで、何やらひそひそ話をしていた。
一人が振り向いたので、よく見るとそいつは、イケメン俳優"柳楽ユーヤ"に似た知り合いの兄ちゃんだった。
「おい、"ユー"らそんなとこで何してんだ?」
「そっちこそi...驚きましたよi あなたがこんなところに来るなんてi...ここはあなたが来るようなところじゃないですよi」
「じゃ、早く"消える"ことにするよi、で、どっから出たらいいんだい?」
「そう、言われても...もう手遅れかもしれない...あ、足音がする...もう、遅いi...これはかなりヤバイことになりますよi...と、とにかく何が起きても私に任せて下さいi いいですね!」
何だかサッパリ分からないが、私はどうやら切羽詰まった状況に置かれているようだった...と、思う間もなく、そこへやって来た、そのイケメンの"ユー"とは対照的な粗暴そうなヤツが口を開いた。
「おい、そいつは一体何だi 何でここに居るんだよi...我々の秘密が知られた以上、どうなるか分かってるだろうなあ...」と、言うなり、彼はいきなり、背広のポケットから銃を取りだし、私に向けてきたのであるi
すると"ユー"は、すかさず「一寸待って下さい、これは私の手違いなんです。だから、ここは私に任せて下さいi」"え、そういうことなの?"...と、今度は"ユー"が銃口を向けてきたではないかi
誰が引き金を引くにせよ、私はここで殺されるのだi...それにしても、あまりにも急すぎるではないかi 心の準備もしてない、覚悟も出来てない、"何か思い残すことは?"なんて、思い描く暇もなく、事は進められたi...アーメンi
"ぱしゅっi"(消音拳銃か)
"ヤられたi...イッちゃったi"
私は気を失ってしまった...死んだのか? "私はいない、全体しかない"だと、バカを言えi...何にも無いではないかi 一者も意識も無いのだi 当然この間のことは、"まっしろ"なこととて何も言い表すことが出来ない。
しかし、それも一瞬のことで、すぐ意識が"戻ったのである。"私はここに居るんだ!"
彼はうまーく、急所を外して、"非常の掟"を遂行したようだった...。"ヤったなi ユー、全く完璧な演技じゃないかi"
私は彼らが立ち去るまで死んだふりをしながら、意識がハッキリしてくるのを待っていた。
それと共に、私はこの現実世界を根底から覆す、ある"カラクリ"を見抜いたのであるi
"これは夢なんだi"

前にも似た夢を見た記憶があるけど、これは鮮明だった。
私は、実際は死んでないのだが、死と直面したのだ。そして意識を失ってしまったのである。夢の中でそうなってしまったのは初めてだ。(もっとも熟睡中はいつもそうなっているんだろうけど)
あの死界の導師"EO"の本を読んだセイだろうか?...ドストエフスキーが銃殺寸前で助かった時、テンカンに見舞われたらしいが、それはこんな感じだったのだろうか?
考えてみれば、臨死体験談なども含めて、死というのは、生きている人間が色々想像、イメージして、色々なことを言っているに過ぎないのではないか? ここに私が書いていることも含めて...。
天国のことも、地獄のことも、苦しみがあるのかも、幸福なのかも、なーんも無いのかも、本当の事は、死んでみなきゃ分からないのだi
ただ、思ったほどそれはコワくないものなのかもしれない。
そして...今ここに私が在ることは、なんと有り難く、幸福なことではないだろうか...。








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考えている自分はいない

2019-07-28 11:52:07 | 哲学・思想
もし、こうして考えている自分というものが無ければ(それは"思考することが出来ない"ということですが)、苦しみも悩みも何の問題も無くなる...と、フツーに"考えられ"ますね。
死ということも、その恐怖というものも無くなるのです。
そして、その対局にあると"考えられている"、喜びや幸福というものも無くなる...と考えられるようです。
だけど、そういうものに与っている時のことを思い描いてみてください。あれこれと考えているでしょうか?
"我々が幸福に感じるのは、ある媒体がその幸福を感じるツボを刺激して云々...そういう二足歩行生物の法則があるのです"
...って..."頼むから、そういうメンドクサイの黙っていて、引っ込んでいて欲しい..."と感じないでしょうか?
ここまでのことは、難しそうな意識の深み、内奥のことを言っている訳じゃありません。
そうです、考えているあなたなど及びでないのですi
思考せずとも、それは感じられる...これを感じる感性というのは、根本的なもので、我々の本性に根差しているとも言えるでしょう。
この原初的感性というものは、表層の感情とか気分といったものとは違います。
このことは、何かの契機で思考機能を失ってしまった時、ハッキリと示されることなのです。
そこでは通常思われている、幸福感を喚起する媒体、イメージというものは無くとも、元々あるような幸福、平安を感じられるのです。
思われている、個体性(考えている自分)は無くなるかもしれませんが、感じている自分は在るのです。
"ただ在る"...言葉ではそう表すことしか出来ないですが、そこにはどんな言葉を費やしても、言い足り得ないものがそこに凝縮されている感じです。
これを思考を辿って表現しようとすれば、するほどその"現存"からは切り離されてしまうだけでしょう。
これはとりもなおさず、考えている自分は、その現存と一枚に、一如になっていない、ということでしょう。
宗教やスピではどうして、神や真理と一つになることを叫ばれ続けて来たのでしょうか?
それは、そのものと一つになることこそが幸福なことだからではないでしょうか?
どんな真理が説かれようが、どんな法則が立てられようが、それを向こうにおいて、又自己を外において観ている限り、そのものも自己も現存していないのです。
私が現存とか現臨と呼んでいるものは、愛、平安、リアリティそのものであり、自己と切り離されていないものなのです。
もし、宇宙の創造者のような存在が居て、我々は彼等の食用にされることが動かない真理であるのなら、私は喜んで彼等の餌になるまででしょう。
しかし...私は彼等の子であろうとはしないでしょうが..."永遠のなんじ"の子でありたい。
理屈を超えて、自ずから惹き付けられてしまうとは、そういうことなのです。

と、まあ私が勝手にこうして連々と書いているようなことも、"それはあなたの如何にも思考を超えたような装いをして、あなたの日頃の心的性向が反映された、一つの見解にすぎないのでしょう?"と、感じている向きもおられるかもしれません。ごもっともなことです。
いつも言うように、あなたの真実はあなたが直接知るしかありません。"どっかの誰かがこう言っている"とかイイカゲンなところで手打ちになどしないで...
こう、意識されるだけで、何だか楽しくなってきやしませんか?...
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廃墟のブッダたち

2019-07-27 12:00:04 | 人生の裏側の図書室
最近、伝説のスピ教師EOこと、故鈴木崩残氏の著書が復刊されているので読んでみました。
「廃墟のブッダたちー銀河の果ての原始経典ー」(まんだらけ出版)
(何かその周辺で、EO氏の"遺物のオークション"とか、訳の分からんことが取り沙汰されているみたいですが、このことと絡めているのかしら? 夏本番になることだし、頭がオカシクなりそうなことは、漫画の世界だけにしてもらいたいですi)
私は、95年夏、確かオウムのA教祖が逮捕されて間もなく、この本の続編だったか、読んだことがあったのですが、途中でやめてしまった記憶があります。
一連のオウムの報道により、何か世の中全体が、灰色の空虚な空気に包まれていたことなどが相俟ってか、暗ーい気分にさせられたことなどもありましたが、今度読んでみて思い出したのは、一寸著者の決めつけたような表現が所々で鼻についたということだったようです。
著者は、92年に大悟に与ったと言います。
全く思いがけず「それが起きてしまった」のです。
「そして、誰が死ぬ苦しみと生きる苦しみを生み出しているのか。
それは、私の観念だった。思考だった。
...
その時、どんな思考もないままで...
全く苦しんでいない何かがそこにいた。
それが、
"これ"(巻頭にある注によれば、"私たちの個体性を超えた、本性そのものを表現するもの"とのこと)だった。」
これには実に魂が揺さぶられそうになります。思考を超えた意識次元の消息がアリアリと伝わってきます。
そこに考えている自己はいない...当然のことながら「ただ在る」、「残るものは意識と"ただの存在性"だけだった」のです。
しかし..."ただ在る"だけというのは、本当にそれだけで片付けられてしまうことなのでしょうか?...と、このように私が感想を持つのは、思考のフィルターを通して言っているのですよi
そして、著者はここから唐突に「我々人類は、我々より高次の創造者(神?)たちの食用にすぎないのである」と、例の虚無的世界観へと読者を誘導して行くのです。
何でも我々が苦しむほど彼等の格好の餌になるらしいです。我々のすべての苦難の意味はそのためなのか?
著者がそうした情報を得たという、エイリアン?の棲息領域に踏み入れたという描写自体がそうなのですが、これは、著者が「ただ在る」という状態から、"思い描くことが出来る"地点、そうしている自分が居て、エイリアンの存在が認識出来て、上記したようなことが、「地球の二足生物の基本的性質の法則である」と認識出来る地点に、"着地して"そう述べているのです。
(私は"彼ら"と、自分を外において言い表せる宇宙の創造者のことなど知らないし、知りたくもありません。そういう食物連鎖みたいなことは、自然界のある面のことしか知りませんi)
ここには、多分に著者の日常の心的性向が反映されていると考えていいでしょう。
あなたも私も「ただ在る」としか言い様の無い世界に導かれるかもしれません。しかし、そこからこの現世に着地した時、そこから何を感じる、何を思うかはあなた次第なのです。
おそらくEO氏も、自説に容易く迎合したがる群れ、信者を作ることなど望んで無かったハズです。
しかし、上記のことに言及せずにおれない、パッションもあったのでしょう。
お気楽なスピ界に風穴を開けるという意図もあったのかもしれません。
しかし、この著は、上記のような、すぐハマりたがる者には、あまりに毒性が強いです。
ここで紹介されている、"死人禅"と称する瞑想法(私は、こういう意念を用いた方法は全く受付けませんi)のことども、取り扱い注意の一書です。






















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自然に感じること

2019-07-24 11:53:50 | 求道、探究
読者には、私が書いていることは、"掴みどころがなくて分からんi"という方も多かろうと思います。
特定の教えとかメソッドとかについては何も提示されません。
"んー"...どうしても、そういうことは書く気にはならないのですね。
ということは、私はそういうことに意識が向かわないということです。多分、そういうことに囚われたくないからでしょう。
そんなことより、私は神的なものに意識が向いちゃうんです。
"神とか何とかって、そんな抽象的なものは捉えどころないじゃないかi"と言うなかれ...
私には具体的なことなんです。(といって、神がどういうものかは分かりませんが)、それに"捉えられたこと"があるからです。
全身心に感じられたことなので、こんな具体的なことは無いのです。
そんなことになって、何かの教えとかメソッドとかに、ことさら依拠する必要などあるでしょうか?(だからと言って、私はそういうものを否定するつもりはありません。縁とか機根というのはそれぞれですから...まあ、そういうものを求めている向きには、ネットを探せば他にゴマンとあることでしょう)
私がいつも"意識を向ける"とか言っているのは、こういうことなのです。自然(じねん)に向かうということ。
何か気張って"意識を向けよう、向けよう"とすることでは全然ありません。
で、こんな感じで愛する神的なもの(何でもいいのですが)に意識が向いたら、何だか楽しく、喜ばしい感じになってきた...
このことは、私には求道の初期の頃からずっと感じられてきたことなのですが、長いこと自覚はされていませんでした。
ここで、"ふと"そうなったことに意識的になってみる...すると自覚される...何だか分からないが、見えないメカニズムみたいなのがハタラクことが分かってきます。
自然に感じられることは、当たり前過ぎて気が付かないものなんです。
何か喜ばしいものを感じたら、やっぱりそういう方に心が自然に赴くものです。
そうしてどんどんその喜びの世界が広くなり、深められて行くのです。そういう縁が勝手に開かれたりもします。
私が"見えない導き"と言っているものはこういうものです。
別に神様が"ああしろ、こうしろ"と指図する訳じゃありませんよ。
"ああしてはイカンi"というのも無い訳ですが、私にとって"イカンもの"には意識が向かわないのです。自然に。
そこに喜ばしいことや、平安というものが感じられないからです。カルト宗教とか本当に"アカンもの"だと悪寒がするとかあって、"こりゃあ、何かの守護かなあ"と感じることもあります。
ここで書いているのは、"じねんに"、喜ばしいことが感じられる、というのがミソなのです。
道を歩む上では、"自然"にでないものに赴くことが多々あるものです。
純粋な喜びでなく、欲得や見栄とかが絡んでいたり、よく吟味してる訳でも無いのに、知人に奨められて従っただけとか、あるいは、"神は自分の罪を裁く恐ろしいものだ"という、自分が直接感じた訳でも無いのに、人が言っていることに囚われるとか...
喜ばしいことというのは、ハートから来るということは、それまでやはり自覚されてませんでしたが、ブログを書いていて自然に感じられたことです。
別に特定の教えやメソッドなど、トラワレの元になるような何ものかに従うのでもなし、こんな簡単なことは無いと思うんですがねえ...世の中トラワレで一杯なんでしょうか?
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フランケンシュタインの覚醒(後)

2019-07-22 12:36:21 | 創作
"怪物はまだ生きている"
少し前、村中に広まったこの噂も、怪人イゴールの刑死によって、なりを潜めていた。
でも...この誰一人知らない、この秘密の空間で私は、込み上げてくる高揚感を押さえきれずに何度も叫んだi
「It'Alive!(生きているぞi)」
その復活劇のあらましは多くは触れまい...ただ何故父フランケンシュタインは、わざわざあの火の池地獄のような硫黄の沼の辺りに、城の地下通路から続く、この秘密の実験室を設えたのかが分かった。それは硫黄の生命力再生の効能にあったのだ。
怪物が仮死状態のまま、長期間生命を保っていられたことも、地下霊安室に眠る父の遺骸、ことに頭部の状態が良好だったのもこの理由による。硫黄から抽出した"再生エキス"と、落雷による電気ショックとが怪物を長い眠りから目覚ましたのだ。
そして、ゆっくり目を開けた怪物...ではない父に、頼むi "ンガア"などと咆哮しないでくれiと、 祈るような気持ちでこう尋ねてみた。
「あなたは誰ですか?」すると...私は、返ってきた言葉に安堵感と当惑とが交錯した気分になった。
「私は誰でもない...」
すかさず私は尋ねる「あなたはビクター.フランケンシュタインではありませんか?」
「いいや、古いビクターは死んだのだ...私は新しく"誰でもない私"として甦ったのだi」(おぞましい怪物に怯える皆さん、お聞きになりましたかな? 今、私の目の前に居る人物は、神の使徒のごとき言葉を発しておられるのですぞi)
私は尚も食い下がって、"本当の私"を思い出してもらうべく何度も尋ねた...「あなたは誰か?」しかし、何度試みても無駄であった。
これは、記憶喪失か何かだろうと思って、具体的に刺激を与えるようなことを話してみた。「あなたは様々な遺体から各パーツをつなぎ合わせて人造人間を創造した、偉大な科学者なのですよ...」すると、どうも記憶は失われていないということは分かった。
「確かに、私は、この一コの私から成っているのではない。この私は多くの同じようないくつもの"私"が相交わって成っている一つの有機体なのだ。この直感は全く間違ってはいなかった。しかし、それはツギハギなどではなかったのだ。各々の私は各々個を有しているのだ。これにより私は新しい、個にしてすべてである有機体として生きることが出来るのだ。もし、一つの中心、脳中枢があり、それ以外の各パーツがツギハギのままなら、独裁的権力の支配による、世にもおぞましい怪物の世界が現出されることになるだろう...」
私はその説教をただ、口をアングリさせて聞いているしかなかった。何で、一個のことに過ぎないようなことが、人類の未来に関わるようなことに飛躍するのか分からなかったが、どうやら父は長い眠りの間に、科学万能主義者から形而上学者か予言者に転向してしまったらしい。いや、ひょっとすると、ペストよりも恐ろしいという、あの"非二元病"に感染してしまったのかもしれない。
しかし、一瞬ではあったが、私は願ってもいなかった言葉を彼から聞かされた。「子よi」
ついに私のことを"子"と呼んでくれたのだ。だが...喜んだのは束の間、その子は"どの子"だか分からなかったのである。
「私の長年の研究は、"死んでみて"間違いだということが分かったのだよ。人生のことも、宇宙、世界のことも"頭だけ"では分からないのだ。これからの普遍性に目覚めてからの人生は、これまでの悪行の罪滅ぼしとして、頭脳、科学偏重がもたらす歪みへの警鐘に努めるつもりだ」
そして、こうした有り難い父の説法を聞いていて、私はとても現実的な重大な問題があることに気が付いた。
「あなたの志は素晴らしいが、それは無理でしょう。よしんばあなたの言葉に耳を傾ける人間は居ても、あなたに身近に接した人の多くはきっと逃げてしまうでしょう。何故ならば、これがあなたの姿なのだから...」そう言って私は鏡を彼に見せた。これが取り返しのつかない事態を招くとは...当然思ったのだが、今の父は怪物ならぬ超人だったので、そんなことなど意に介さないとも感じたのだ。しかし、鏡が再び現世意識へと彼を呼び戻してしまったようだった...。
超人は、ただの"人の子"だったのか...全身を震わせながら慟哭して叫んだi
「お、お前は、何てことをしてくれたんだi もう、終わりだ、私も、人類も...」
「ゆ、許してくれよi、父さんi そんなにショックを受けるとは、思わなかったんだよお...父さんからは、生命再生術や脳外科のことは教わったけど、整形のことは、教わってこなかったんだよお...」
「いいや、そんなことじゃ済まないんだi 私がこうして個にして全なる有機体で居られるのはあと僅かだ。やがてツギハギだらけの怪物に心身は犯されてしまうだろう。又世にもおぞましい怪物になってしまうんだ...ああ、ダメだ意識が、意識があ..."I' ll not be back!"(私は二度と戻らないi)」
このターミネーターみたいな言葉を最後に残して、父は自らあの煮えたぎる火の池地獄に身を投げてしまったのである。
父は火と硫黄の中へと沈んでいった...
ここに我々親子二代に渡る偉大な研究は完全に途絶えてしまったのである。
それは、けっしてこの世に出てはならない運命だったのだろう...

附記
今、私の書斎でこれを書いているが、傍らで私の息子ピーター、つまりフランケンシュタイン三世がターザンごっこをして遊んでいる...。
彼に「将来は何になりたい?」と訊いてみた。すると、幼児とは思えないような答えが返ってきた。
「"あいとしんりのでんどうし"になるんだ。いつも夢の中で巨人が色々教えてくれるんだよi」
ーウオルフ.フランケンシュタインー

(終)
❬これは、米映画「フランケンシュタイン復活(39年)」を下敷きに大幅に改作したものです❭




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