人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

僕は僕でない

2018-01-30 18:03:39 | 詩的文章
瞑想でもしよう...

しかし...なかなか心が落ち着かない
雑念が次から次へと沸いてくる
ダメだ...落ち着かせなければ ...
心をコントロールしなければ...
しかし...コントロールしようという思いが...
僕をコントロールしている...コントロールされている...
そうなろうとすることで、そうならなくなる...
僕は僕を取り戻そうとして、僕を失っているんだi
呼吸を整えなければ...
呼息を短く、吐息は長く...コントロール...
自然な呼吸...
しかし...自然にしようとコントロールして...
何だか呼吸がギクシャク...不自然なことに...

もう、面倒な瞑想などやめたi

落ち着かないことも、落ち着かせることも
動くことも、静かなことも
乱れたことも、整えることも
イヤなことも、ケッコーなことも
自分であることも、自分でないことも
あんなことも、こんなことも ...
もう、や~めたi
みんな、みんな持ってけi
やろうとしてアクセクしていたものが、みんな"手放し"

そうだ...僕は僕でなくなる...
持って行ってもらえる場があり、御方がおられることは何と有り難いことかi
何と自由なこと、何とラクなことなんだ
僕は僕でない...
僕でないことで、自分でいられる...

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私のジャズの主流

2018-01-28 13:05:59 | 映画・音楽など
私が意識的にジャズに関心を向け始めたのは、大学一年の昭和50年頃だったと思います。
当時の私の音楽鑑賞の主流はロックだったのですが、この頃が「脱線」のターニングポイントだったのは間違いありません。
学究派?必読の音楽雑誌「ミュージック.マガジン」では、やたらとアメリカン.ルーツ音楽が取り上げられ、"レイドバック"だの"レイジー"だのといった、もったりした感覚のロック音楽ももてはやされていました。
そんな折、ふとラジオの深夜放送(パーソナリティは糸井五郎氏)で紹介されたのが、「ジャック.ティーガーデン」という全然知らない人のジャズ音楽なのでした。
何しろ、夜中の寝ぼけた状態だったので、その名を覚えるのが精一杯だったので、曲名は覚えてません。「セントジェームス病院」か「ロッキンチェア」か、おそらく彼の十八番の曲だったのでしょうが、まず私はその唄に完全に魅了されてしまいました。
"これぞ、レイジーi ロック歌手が束になってもこれには敵うまいi"と感じたものです。
この"ジャックT"のことは、オールドジャズのファンなら知らぬ人は居ないでしょう。ジャズ史上を代表するトロンボーン奏者であり、そのユニークな歌唱、人柄共々がレイジーだったのです。
半世紀近い長いキャリアの中で、常にその実力を維持していたという稀有な存在でした。
そして、一旦火が付くと中々押さえられなくなる私は、すぐ"ジャックT"のレコードを求めて、都内の大きめのレコード屋さんへと馳せて行ったのでしたが...しかし、"な、無い..."
二軒、三軒と巡っても見つけることは出来ませんでした。デキシーとかスイングとか古めのジャズのコーナーすら無い店もあるくらいです(あってもホンの片隅程度)。
「油井正一」氏のように、ジャズの通史を語る評論家もおり、相応のレコード.ガイドも出されていましたが、その歴史的音盤は、実際には市場に出回っていなかったのです。
これはロック界に浸透していたルーツ探訪の動きと逆行していたと思います。
又、当時は都内のあちこちにジャズ喫茶というものがあり、その頃新宿のどっかだったかの店におっかなびっくり入った記憶がありますが、タバコの煙で蒸せかえる(私はずっと吸わない)のと、大音量でケタタマシくて「よお、わからんi」という印象しかありません。
多分そこで掛けられていたのは、「ハードバップ」とかだったと思われるますが、それが当時のジャズの主流だったのです。
要するに巷では、ジャズと言えばモダンジャズのことだったのですi (この頃所謂フュージョンが台頭し始め、私は正直その後も定着するとは思っていませんでしたが、今ではジャズの受け入れ方も多様化しているようですが ...)
"ジャズの歴史は戦後しかないのかi 本当のジャズの伝統は完全に"近代"の喧騒の前に追いやられ、埋もれてしまったではないかi"
こうなると、世の中の時流とはかけ離れた私にとってのジャズの指向は決まりました。
"「ダンモ」なんか誰が聴くかi"
私のジャズの主流とは、ずっとニューオーリンズ.スタイルから欧米ではメインストリーム.(ズバリ、主流)と呼ばれる、中間派までのもので、ダンモ(その又主流は、ウエスト.コーストとかあまりケタタマシくないヤツ)は傍流にすぎないのです。(いや、ほんとに世の主流とズレてるな、と改めて思います)
知人にジャズ.フリークが居ましたが、全然話が合いません。「デキシーやスイングには哀感が無い」と決めつける...それらに対する通りいっぺんのイメージしか持っていないのです。
"コイツはデューク.エリントン楽団の「黒と褐色の幻想」(27年録音)とかジミー.ヌーン楽団の「あの娘がくれたブルース」(28年録音)とかを聴いた事がないんだろう、お気の毒に..."
初めてダンモの音盤を聴いたのは、ラテン音楽の「サルサ」と同じでようやく10年前のことです。(ギター奏者「ジョニー.スミス」の「ヴァーモントの月」)
聞き慣れるとサルサもダンモも悪くないです。
私はジャズでもラテンでもロックでも幅広く聴いていますが、考えてみれば、あまりケタタマシくない、心が落ち着く音楽が主流なんでしょう。
コメント (64)
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主に取って代わることは出来ない

2018-01-26 17:03:10 | 覚醒
「如来住とは、如来が主体者に安らうことであり、したがって主体者が如来に安らうことである。如来が主体者に一つに融けて、ただ如来のみに、言い換えれば、形なき命のみに全有される。それゆえに、一切の煩悩は、尽き果て、なすべきことはなされ...絶対空滅となる」
「しかしながら、それは同時に業熟体に根ざしているゆえに、主体者はきわめて危険な陥穽に臨んでいることも確かである。その陥穽とは、底なき業熟体から噴き上げてくる我執のために如来住たることが忘却され、単なる絶対空滅であるという意識である。それは、もはやそこから這い上がることの不可能なほどの危険きわまるものである」
(玉城康四郎「道元.下」春秋社刊)

「ただ悟りたいだけなら、それはエゴからのものであって魂からのものではない。自分自身を探し求めるとき、もはや悟りという言葉はどうでもよくなる」
(アジス.クリストフ「ヒューマン.ブッダー魂の探求者へー」アルテ刊)

私はこれまで何度となく、精神的目覚めというものは、仏教的には如来、キリスト教的には聖霊、私的には見えざる導師、何らかのガイダンス...というもの、その導きと共にあるものであることを言ってきました。
これはいくら強調しても、し過ぎることはないくらいです。
自覚意識の有る無しに関わらず、そうしたことに赴かそうとすること自体がそういうものなのです。
そうした形なき命が意識に芽生え、やがて内奥に浸透し、全心身にあたかも別の生き物のように住するようになるのです。
この内なる導きの主体とは端的に、親しく表せば"我が主"です。
目覚めの契機、時機、如何なる有り様で、といった魂の道のことは我が主に委ねられていると言ってもいいでしょう。
それは全くこちらの思議の及ばない消息なのです。
このチッポケな私は、決して魂の親である、我が主より先に勝手に独り歩きなど出来ません。
主に取って代わることは出来ないのです。
この主のお在さない、恩寵の導きの無い、意識の変容の事態というものの片鱗も私は何度も書いているように知っています。
そこには愛も平安も無く、ただ意識が奈落の底に消えて無くなってしまうような恐怖だけがあり、主が私に臨んだということは、そもそもがその苦境からの解放されるという契機だったのです。
スピ界に蔓延している、主の恩寵無くしてどうともならないにも関わらず、"完全覚醒"だとか、"究極の..."だとか、優越感をくすぐるきらびやかな言葉に幻惑されて、思われた自分をより高めようとする風潮を見るにつけ、私は表層にある思いを一先ず脇に置き、自分の魂が本当に求めているものは何か、自分の土台に導きの主体というものはあるのか、ということを問うてみる必要を痛切に感じています。
魂の求めるものと恩寵のハタラキというのは分けられないものですから。
自我意識の拡張に基づく、覚醒への企てはその発露を覆い、歪めてしまうものでしょう。
主が臨むこと、主の望みとは、自分の思い、計らいを超えて内なるものとつながることを求めずに止まないものが有るか、どうかということでしょう。
この事が蔑ろにされるならば、まさに主客転倒と言うべきでしょう...。

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名は体を表す

2018-01-24 00:03:25 | 祈りと瞑想
私は特にクリスチャンという訳でも、キリスト.イエスに帰依していた訳でもないのですが、その為かかつてキリスト教関係の集まりで「イエスの御名を通して...」と唱えて祈ることに抵抗を感じていました。どうも心に無いようなことをしているようで...
しかし、各宗教では「アッラー」、「阿弥陀仏」など神や聖者の名を唱えて祈るという在り方も結構あるものです。
最近になってやっと、この"御名を通して"とか"御名にあって"(こちらの方が私には伝わるものがあります)と祈ることの意味が分かってきたようです。
例えば、ある異性を好きになったとして、その焦がれる思いというのはその名を知ることによってより自分に具体的に、リアルにその存在が示されるものではないでしょうか?
どうしたって、"OOちゃんi"と呼びたいのですi どっかのネエちゃんではないのですi 然るに...「君の名は」
私はよく"現臨に捉えられる"、と、神的ハタラキによる意識がシフトするような事態について述べていますが、現臨だのハタラキだと言っても抽象的でよく分かりませんね。
あちらから捉えられることは時にはあっても、こちらからは具体的に中々捉えられないのです。
それでも私はそのものにある名を付したりはしてません。
それは、その具体的に私の意識に浸透してくる事態を身に覚えているからです。
身に覚えていることで、身体レベルで呼び起こされてくるのです。
その事自体には御名を唱えるとか、御姿を臆念するという術に頼らなくとも、うまく表現出来ませんが"身に覚えあるもの"に意識が向かう、あることでそうなるのです。
"現臨"や"ハタラキ"自体は姿も形もありません。通常思われているような人格というものは私には感じられません。
しかし...そのものがここに現存するという経験は、ある面でそれ自体人格的なものと言えるでしょう。
人格的というのは、この具体性、アリアリとしたリアルな実感というものから導かれるのです。これはおそらくそのハタラキの光が真我的なものを映し出すことから来るのかも知れません。
それは抽象的な原理でもなく、切れば血がドクドク流れ、心臓の鼓動が命というものを強く感じさせる、身体的具体性を帯びたものです。
そして他の誰かでないあなたと私に関わることなのです。
キリスト教において先のハタラキについて「聖霊」と言い、仏教では「ダンマ」と言ったりしていますが、いつしかそのことをそれぞれキリスト.イエスや阿弥陀如来、弥勒仏、ビルシャナ仏...と固有の名で呼び習わすことになったのは、その具体的、人格的な出会いに即さんとする意識の表れと見るべきでしょう。
その名にはそれぞれ、ある曰く言い難い神秘的実相を言葉に象徴して表しているもので、人それぞれの固有の名がその唯一無二の人格的特性を表している如くです。
霊的、実存的出会いというものは、全身全心全霊的なもので傍観的意識の有り様を許さないものがあるのです。
究極の愛に落ちるようなものと言うべきか ...
これは一面的な空々漠々とした、宇宙とか全体に溶け去るといった表現からは伝わってきません。
それはしかし、そうした内実に根差したものあってのものであり、ただその名を唱えていたらいいというものでないのは言うまでもありません。
言葉で表すということも、そのリアルな実存的交わりに則してこそ、名実共に生きたものとなるでしょう。
私の場合、特別ある名を唱えるということはありませんが、(見えざる)導師といったものを想起することで、より具体的に生きたものを覚えているのです。





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覚えていたらいい

2018-01-22 15:06:53 | 求道、探究
"あ、又怒りの感情を出してしまった。
又、Hなことを想像してしまった。ネエちゃんを見るたびにこんなだi
あの教え、この教えに違うことに心が傾いているが、これでいいのだろうか?
混んがらがってしまった...まだ迷っているんだ...
いつまでもこんな低次元に居てはいけないんだ...高次元に居なければならないんだから..."

私は一頃このように、"こうしなければ、こうでなければ、何が正しい、間違い、かにが善い、悪い..."という、神経質なまでに窮屈な思いに囚われていました。
結構真面目だったのです。
こういう精神状態にあって、少しも心に平安、安心というものがもたらされることなどありません。
精神的な道を求める、求道というのは、そもそもそういうものに預からんとするものなのじゃないですか?
思い出したようにそんな気分になれるのは、その思いの縛りから解放されている時だったのです。
何のための求道、何らかの宗教的帰依だか分かりゃしません。
道を求め、帰依していたら心が軽くなり、諸々のトラワレから解放され、迷い、障りというものが無くなって来なければオカシイのです。
そうすると、"あ、迷ってしまったi"と又変なループにハマったりして...
迷ったっていいじゃありませんかi
怒ったって、スケベだって...
自分をどうにかしようとしなくても、どうにかなるものを覚えていたらいいのです。
"ただ、一つその諸々の思いの底に、表の自分がどうなってても、こうなってても変わらないものが息づいている"
思いの壁の狭間ー通気孔ーを通して、そういうものが思い出され、感じられたらいいのです。
(これを"常に気付いていなければならない..."なんて出来そうにない思いがもたげてたら、悟ったつもりの人になろうとしているのです)
"何故、自分は精神的な道に駆り立てられるのか? 何故 自分の中に神仏に惹き付けて止まないものがあるのか?" ということに思いを到せば、その心の底に息づいている、なにがしかのものに気付き、つながることも出来るでしょう。
精神的な道とは、自分の思い、力だけでどうこうする、どうこうなるものじゃないのです。
自分の思い、力で何とかしたい向きは、狭い思いの中で、高次元世界、悟りの境地を目指せばいいだけです。そこに平安、安心があるか、どうかは知りません。
本当に求められるべきものは、その平安をもたらすもの、そのものであるはずなのです。
そのもの無くして愛も平和も悟りも無いのです。
そのものが自己に明らかになるにつれて、この内実に覚めてくることでしょう。
問題だらけの現世では、諸々の思いに囚われてしまうこともありますが、一瞬そのものに意識が向けば、アレヨという間に雲が晴れるように、思いの風穴から息吹が吹き込み、トラワレから自由になります。
私に示された道とは、そのものを明らかに、否そのものの方が私に顕になるということをいよいよ覚えさせられています。



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