人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

壁の向こう側

2016-09-28 13:29:01 | 独語
世界は大きく変わり始めた、という…
随分前から言われているようだが…
一体、何がどう変わっている、というのだろう…
何でも出来る、なんでも許される、と言わんばかりの無差別テロ、人間なるものの解体を思わせるバラバラ殺人の横行、核の恐怖、環境破壊…
どこを向いても、破滅に向かっているようにしか思えないではないか!
そこからもたげてくるものといったら、絶望感、空虚感、閉塞感といったものばかりじゃないだろうか…
それでも…
古来から現在へ、そして未来へと続く人間の英知、人類の進歩と調和が何とかしてくれるのだろうか?
今日のこの状況をもたらしたものこそは、この楽観、ノーテンキさじゃないだろうか?
そう、我々は救いようのないノーテンキな病に侵されている!
諸々の問題は、ずっと変わることの無い日常に埋没している自分とは直接関係が無い…
どっかの人間、直に接したことの無い人類が何とかしてくれる…
あるいは…何とかしてくれるのは、ずっと変わることないこの世界を守ってくれる、
と、熱心に信じてはいるが、見たことも触れたことも無い、神や高次の存在なのか…
”心を善なるものに入れ替えるのです…悪しき思いは悔い改め、捨て去る事です…善なる神を信じ続ける事です。”
誰かそうして思った通りになった試しなどあるだろうか?
状況はますます絶望的になってくるばかりだというのに…
このノーテンキな言葉も、どっかの誰かに向けられたものじゃないだろうか?
いつもあっちを向きながら、自分自身のことは知らない!
そっちは闇に包まれていて見ることが出来ない、いや見ようともしていない…
これが…大問題ではないだろうか!
世界の…人類の…抽象的な問題が有るんじゃない
自分の問題…自分自身の現実を知らない、という根本的無知…
何にも分かっちゃいないのだ!
絶望、空虚、閉塞…全てを覆う闇…これが現実
この動かし難い現実の壁の前には、あるいは破滅しかないのかもしれない…
だが、この現実を自分のこととして受け入れた時、壁の向こうに新たな現実が開かれる!
そして示されるだろう…世界に何が起きているのか…何を見させているのか…
我々はずっとずっとこの新たな、生ける現実~現実そのものが生きているのだ!~を知らなかった!
生きる上で真っ先に知らなければならなかったもの…これ無くして自分も世界も成り立たないもの…
信じるより先に現前しているもの…
このもの無くして、やっていけるという世界をイヤというほど見せられているのではないか!
”オカシイ…我々の世界はこんなはずじゃない…”と人は言う
それは有るべきはずの世界の裏返しなのだ!
絶望の中から聞こえてこないだろうか…”あなたはあなたに真向き合え!”という声なき声…
思われた世界が終わらなければ、あなたと私の、我々の世界は開かれない…
絶望、空虚、閉塞…崩壊の序曲の聞こえる壁の向こう側から、新たな創造がはじける音が聞こえる…









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パトス、思惟、人格

2016-09-26 13:56:32 | 哲学・思想
「神の知的愛は感情的な情熱の刻印を帯びている。…根源から発する光は、主体的、人格的にあらわれる」(ベルジャーエフ)

私がN.ベルジャーエフやユダヤ系哲学者M・ブーバー、A・J・ヘッシェルら(手島先生が又彼らに共感したのは実によく分かる気がします)に惹かれるのは、彼らの思想に濃密なパトス(熱情)が感じられるからです。という事は、眠りこけているような私の中にもそれに共感するパトスが有る、という事ですね。少なくとも火種は未だ消えていないようです。
(”燃えない人生など一体何が人生か!”…といっても…”さあ、立ち上がれ!”なんて言いませんよ、おツカレさんでした!)
この感情というものですが、それは通常何かそれが引き出される対象なりに反応して怒りなり、悲しみなり、笑いなりとして生じてくるものです。それが自分の中から出てくる、という事は誰でも当たり前のように感じていると思います。
私はシャイな性格もあって、人前でこういう感情を露にすることはめったにないのですが、忘れた頃に豹変したりします! (別に人前に限った訳じゃないですが)そうなると、人前だろうと何だろうとはばからなくなります。それが、あの現臨に捉われるような事態になったら、皮一枚つながっている理性も完全に崩壊しかねなくなると思います。
私はこれを多く鬱積した感情の解放だとばかりに捉えていたのですが…そもそもそうした事態というものからして、根源的なパトスにハタラキかけられて起こるものだという気がします。このパトスが貯まっている感情を刺激するという事です。それは又愛というものと結びついています。
このパトスを前にしては、如何な眠りこけた魂も、”さあ、立ち上がろう”としなくたって、”立ち上がざるを得ない”というものです。
それは、通常思われているような感情の発露では無く、チッポケな自己の意念を超えたところからの上よりの熱情だからです。
一方、多くの哲学思想では、思惟というものは、感情の影響を受けたり、それに左右されるものじゃない、とそれから超然とされるべきものとされています。
この思惟というものも又、アレコレの抽象的思弁とは違う、頭からヒネリ出したものでない、ふと上から降りてくるような叡智みたいなものにこそ、真の出どころが有るのではないですか…
これは私が上よりの観照、すべてを見通す目と言っているものと関連が有るようです。
というよりも、より根源にあるものは、それぞれが別在するというより、連繋しているとみるべきなのです。
(以前に「新しい啓蒙主義」という記事で書いたように、近代ヨーロッパで生まれた哲学思想の源として、多く神秘主義なるカテゴリーで語られるこの根源的光に根差した哲学が地下水の如く伝えられてきたのです)
この意味で思惟も先のパトスと分かち難く、自己を超えてハタラクと言っていいでしょう。
多くの哲学思想に巣くっている概念認識、抽象的思弁には感じられない、どこを切っても血が流れるような、生きてハタラク思念、燃えるような生の高揚感…これらはその根源的、哲学的パトスから来るものなのでしょう。
これら通常思われたものでない、根源的パトス、思惟というものの経験は、人生のある契機において誰にでも知られているものではありませんか?
それは客観的な対象に向かい合うことなく、それ自体で立ち上ってくるものです。対象が無いという事は、思われたものを超えてリアルなものが現臨している、という事です。
ベルジャーエフが常に熱く語っていた人格というもの…それは全く他のものには置き換えられない独一無二のもの、他の誰でも無い具体的に実存しているものを差しています。この見たまま、思われたままの人格なぞ、多くのスピ界隈では多分、ガラクタみたいに思われているかも知れません。
何しろ、そこにはマインドだの感情だの、忌まわしき、捨て去るべき悪しき同居人が居座り続けていますから…。
しかし…光眩いエンライトメントも、高遠なる神秘的奥義も、この悪しき同居人を抜きにしてはたどり着けないでしょう。
如何に問題だらけだろうと、彼こそはその目差している世界への水先案内人であり、根源的光の種を宿している者には違いないのです。
見たままの、表れた人格は、神的人格の写しであり、神的力、光は本なるものから末なるものへと、表されるのです。通り道は閉ざさなければ自然と流れます。思念も感情も固め、滞らせないことが肝要です。
ここから離れた如何なる精神的、霊的な道も宙に浮いた、抽象的観念の中を漂い続けるか、消えてゆくしかありません。
思惟、感情、人格…それらは本来、天から与えられているもの…否定し去ることなど出来ないものです。真の主体者が地上的現実に顕れるための材料なのです…。









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人生は悲しいですか?

2016-09-25 13:47:58 | 雑感
「我に語るなかれ、悲しげな詩篇にて、
人生はただ一つの虚しい夢なりと。
なぜなら眠っている魂は死んでいる、
そして、物事はただ思われている通りではないからだ。」
(H・W・ロングフェロー・人生の詩篇)

一昨年の九月、このブログのオープニングに引用したのは、19世紀の米国の詩人、ロングフェローのこの詩でしたが、実のところ…私はこの詩人の熱心な読者でもなんでもないのでした。
手島郁郎先生の著書「人生の詩篇」(キリスト聖書塾刊)で取り上げてなかったら、全く存在すら知らなかったかも分かりません。
(同書で同じく取り上げられている、英詩人R・ブラウニングは感動して読んだ事が有りますが…)
この詩を取り上げたのは、全くのたまたまと言ってもよく、その時同書を読んでいて、このフレーズが当ブログの基調としてキャッチされたからに他ならないのでした。
ただ、この詩から垣間見えるロングフェローの人生観というものが、私の共感を呼ぶのかと言うと、いささか微妙なものが有ります。
ここで高らかに謳われているのは、積極的、楽観的な人生賛歌なのです。だから何だか意味深げな?冒頭のみを紹介していて、いかにも修造さん好みの「闘争条理の英雄であれ!」「されば、立ち上がって行動しようではないか!」といったテンションが上がった調子で続く後の部分には全く触れていないのです。だって私はちっともアクティブでも楽観的でも無い人間なのですから(笑)
ただ「眠っている魂は…」の部分は、読みようによっては、魂の目覚めについて語っているようにも取れますが、まあ、虚無的な人生観へのプロテストと観た方がよさそうです。
このように深い意味も無く、使わせていただいたこの詩の一節ですが、私は今更ながら驚いています。
当時は、今の悟り系スピ界隈に取り巻いている「私はいない」「この世は幻想」「私がある、人生というものがある、という思いが苦しみをつくりだす」といった、虚無的な人生観についてさして意識してなかったのですが、私は記事を書きながら、この傾向にはどうしても頷けない違和感を覚えるようになっていったのです。そして人生というものをもっともっと掘り下げてみたい、という気持ちに駆られていったのです。
悟り系の人は人生というものが、望まれざるもの、呪われたもの、消されるべきものである、という事を前提にして語り、人々を死神のようにブキミに誘導しているようです。
人生って、そんなに悲しいですか?
生まれてこなかった方がよかったですか?
私は一向にテンションは上がらない、眠りこけているのかもしれない、仕事?やる気無し、金無し、将来の夢…さあ…
だけど…人生、世界、私自身も…否定し去ってしまう道理など微塵も無いです!
そりゃあ、見かけは悲しげだったり、不機嫌だったりするのだろうけど、テンション低いなりに、人生は楽しいですよ。立っても、立ち上がれなくっても…
”行動せよ!”ってか…熱いですねえ…というか正直ウザイわい!…突っ立っているだけで、いや何にもしなくたって幸福でいられることなんざ、行動的人生の伝道師にゃ、分かるまい!
この人生は否定し去るものでも、自己の意志、力などをひたすら肯定するようなものでもないでしょう。私の人生は私が始めた訳じゃないからです。
ただ、自己自身、人生の否定はその依って来る源、大本をも否定してしまう事につながります。
これが本当に悲しむべき事じゃありませんか!
仮に悟り系スピに触れて、何らかの喜び、気付きを得たとしたら、その縁というものは、この世に生を受けたから、という大前提があったからではないですか?
又、それまでの人生が如何に苦しみに満ちたものであったとしても、その経験無くしては喜びも気付きにも巡り合えないのではないですか?
そして…私の人生は、それだけであるなら私の思われた通りでは無い…それは、計り知れない私の全人生のほんの部分的な表れに過ぎないのです。

と…なんだかんだ呟いているうちに、腹が減ったので、外に出てみたらウロコ雲が空一面に…いよいよ秋ですね…。














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世の初めからの望み

2016-09-22 12:51:16 | 詩的文章
みんな生きている…みんなつながっている…
どこを向いても、有機体…天国体…
いいや、僕はこれを向こうに置いて観ているんじゃない!
僕は僕のままで、この有機体そのものなのだ!
疑う事も、否定することも出来ない…
これが僕が生まれてからずっと求めてやまないものだったのか!
これが僕が行き着く先だったのか!
それなのに…

僕には、どうしても、どうしても…全き何かでない、あるものが有る…
僕の意識そのものには、全きものであっても、
僕にはこのというヤツが有る
コイツがどうも頷いてくれないのだ!
コイツが何か疼くように何かを訴えているようだ…

”お前は忘れたのか!私がお前と共にある、ということを!”

身…デキソコナイの有機体
ああ…僕は何てヤッカイな運命共同体を背負ってしまったのだろう…
僕にはこのヤッカイな促しがにわかに迫ってきた
僕は又、あのプラスチック製の世界に戻らなければならないのだろうか
僕はそのまま我が主にゆだねた
全て主の御心のままに…
すると…
返ってきたものは、まるで主客がさかさまになったようなものだった…

”子よ!…我が望みは、お前が望んだとおりのものだ…
お前が本当に望むのなら、お前の肉身の世界に戻りなさい!
お前の半身は、その世界があのようになっていないことに、どうしても満足出来ないのだろう…
憶えておきなさい…お前の望みは私の望みなのだ!
子よ!…お前は私を忘れはしないだろうね
お前の身に”私の記憶”を植えこんでおいた…
身が疼く度に私を思い出すがいい
そして…覚えておきなさい!
お前は再び私を目の当たりにする!
その時はお前のあらゆる縁の者も共に目の当たりにするだろう…
お前の半身の世界を満たすため…
これが世の初めからの…
私とお前の望みなのだ…。













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冥界の王

2016-09-21 16:51:35 | ガイダンス
私がこのブログで綴ってきたことというのは、もうほとんどが”見えざる導師”との関連でないものは無い、と言っていいくらいのものです。
ハタラキ、現臨、上よりの恩寵、守護の神霊、全てを見通す目、真我…観方、感じ方によって表現を変えていますが、すべてこの関連で述べているものです。
ブログを書く理由として、このサムシングを何とか言い表したいという気持ちが強くあったのですが、思えば随分と勝手な言葉をデッチあげて様々な角度から表現したものです。(笑)
このことで”縁のある方には何がしかの事が伝わればいいなあ…”といつも思っています。
それというのも、このものを抜きにして自分も人生も無い!…自己、人生そのものと言っても過言では無いからです。
と言っても、私にはこの多岐的な観点、理解に通じたサムシングがそも何であるか、について明言しようとは思っていませんし、自分自身持ち合わせていません。それは心象の奥に生きているのです。固定概念で固めては生きてきません。
このものはあらゆる概念を超えていて、捉える術がないものであり、時にこのもの自ら表に顕れて、こちらが捉えられて、初めてアリやかとなるものだからです。
この意味で、このものは”人生の裏側の主”と言えるでしょうか…
そこは決して表側の明るい日の差さない裏側の世界…すなわち冥界。
実際、彼は明るい表側の主役たち、マインドや意志、諸々の身体的力などが引っ込んでしまった暗闇…黄泉の世界から顕れるのです。
それに先立ち、明るい光によって確かな輪郭を与えられていた時間、空間、形体といったものにモヤモヤと雲、シェキナーが立ち込めてきて、一切の境界を無くしてしまうのです。
その叢雲を断ち切るかのように、闇と光とが分けられる…この光とは明るい表通りの光とは全く違う…内側を貫き、浸透する超自然的光です。
そこでは移ろいゆくものは消え去り、生まれ出てくるものが顕れる…浄化が進行しているかのようです…
そして又、失っていた記憶が蘇る…すべてこの喩えようのない甘美な光と共にある…

見えざる導師…それは雲から出てくる…出雲は黄泉の国とも比されますが、何やら冥界の王、素戔嗚尊を連想します。
それはたまたま、私の産土さんが素戔嗚を祀る氷川神社だったから、そのように映るまでなのでしょう。
こういう事というのは、事実はどうであるかなどもとより確かめられないのだから、(誰かのお告げのようなのを信じるのは勝手ですが…)自分の気持ちの赴くまま、仮にそう感じたならそういうことにしておけばいいのです。
有体に言って、この導き主に関して私が強く感じるのは、み霊の親だという事です。親子ということはつながっている、ということです。
血のつながりというより、霊のつながりみたいなものです。
そういう意味では王とその従者と言った他人行儀臭い関係といったものでは有りません。
(これには人によって観方、感じ方というものがありますが…)
あちこちで言い伝えられる神話というものには、多く人々の内的意識が反映されているのでしょう。
あるいは、実際に日本神話でも、そのように冥界の王として、素戔嗚尊や大国主命が描かれたのかもしれません。
と、なると…素戔嗚で言えばヤマタノオロチというのは…大国主で言えば父神の素戔嗚が与えた数々の試練とは…
これは各人が持ち続けている宿業的なものに関連したことでしょう。表向きはバラバラに分かれていて、裏ではつながっている…考えるだけでややこしいOOのような事とか…
ところで、かの冥界の王ですが、”ずっと冥界に留まっているつもりは無い…”という旨の事を私は受けているのです。
これは、私の意識を貫いて顕わになった、ということでその意向は示されているとも言えるのですが…
冥界の裏側の王は、表側の世界をも統べるおつもりなのでしょうか?…






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