人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

太陽は何処にも行かない

2017-01-29 11:45:04 | 詩的文章
今年も又、寒暖差が激しいようだ
凍てつく寒さの中では、どうしたって心がホンワカとはいかない
オープンになろうとしたって、体が閉じこもろうとするんだから仕方がない
数日たって、小春日和になれば、放っといても体中の毛穴が開き始める
新芽が出た、猫が戯れる…楽しいな…
このサイクルが日増しに激しくなっているよう…
どうしたって、ずっと落ち込んでいる訳にゃいかないだろう…

8年程前、仕事を解雇同然で辞めて、次の就職先を求めていた時、
ある日は面接が決まっては喜び、次の日は非採用の知らせで気落ちし…
こんなことを二か月くらい繰り返していた…
僕は一体何に喜んで、何に苦しんでいるのだろう…
人事担当の人間に僕の幸、不幸を左右されているのか…
何というショボくれた神サマだろう
”断りを入れる私も辛いんだよ…”と、悩める神サマ…
頭の中には見せかけだけの幸福ばかり
ヌカ喜びなどもう真っ平!

ある午後、ずっと公園で微睡んでいたら
路面も家々も周り中が赤く照らし出されていた
真紅に染まりゆく夕の空…
僕はどうして苦しまなきゃならないのか…
どうして喜びを味わうことが出来ないのか…
空があんなに美しいのに…

空が晴れても、曇っても、雨が降っても…
太陽は何処にも行かない
零下の凍える朝、もうじきそこは日が差すだろう
日が落ちれば、夜は憂鬱だろうか…
僕はしばしの黄昏時の燃えるような昂揚を逃しはしない!
そして…日は又上る…
いや、太陽は一度も沈んだことが無いのだ
変わりゆく天候…一喜一憂する変わりゆく心…
外の太陽も、内なる太陽も何処にも行かない
見えても、見えなくても、ずっとそこ、ここにある
そして…考えたり、案じたりする先に
変わらない恵みの光で僕を包み、心のつぼみを開かせる

明日は又季節外れの暖冬になるとか…








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生きるための私的一元論

2017-01-28 18:33:16 | 覚醒
最近、ネットを見ていてどうも悟り、覚醒、ノンデュアリティなどの言葉の使われ方が錯そうしているように感じています。
これらは感覚的な事に基づいているため、確たる定義など成り立たないものであるのは言うまでもありませんが、このように元々がアヤフヤな土壌の上に、一昨年辺りから悟り系スピなどでにわかに如何にも”これがノンデュアリティ”といった紋切型の言説が流布し初め、その虚無的空気感で実体の定かでない悟り、覚醒のイメージを作り出してしまったように思えます。
私自身は元々非二元だの、二元だののことをほとんど問題にしたことがありません。
ただの感じ方、観方に過ぎない、と思っていましたから。
問題は如何に幸福であるべきか…これを思わない人間など居るだろうか?
悟りというものが有ったとしても、幸福でないものが一体何の意味があるだろうか…そしてそれは当然の如く全くもって現にこうして生きている私にとっての問題だったのです。

何度も触れているように30数年前、突如意識が飛びそうになったことがあるのですが、これは意識の変化に伴う一時的なアンバランス状態と理解していますが、その時思考機能は失い、自分という個的な感覚も無くなり、意志的に何かをしようというものが抜け落ち、事が起きているだけという感じになります。最近のノンデュアリティではおなじみのフレーズですね。こういう事を悟りとか覚醒という風に観る向きもあるようですが…それって”ホンマでっか!”
そこでは苦しみ、悩みというものは感じられませんが、この後実感したような高揚感、幸福感というものも無いのです!
(これはそうした苦境を通っているからこそ実感したのです。”私はここにいる”という意識の発揚と共に…)
ただ自分が奈落の底か虚空に消えて行ってしまうような恐怖感だけが有るのです!
ズルズルとそうした方に引き込まれそうになるのですが、意志的な抵抗が出来ないのです!
ノンデュアリティの教師たちやその信奉者たちが嬉しそうに?語る非二元の境地ってこんなんですか?…ウッソでしょう!
彼らがやたらと話を盛り付ける無条件の愛、至福、調和…そんなものはありません!
如何なる幸福もそれを感じる個人が居ない…そんな世界を求める人間などこの世に居るのでしょうか?ただ苦境から逃れたいだけなのだろうか…喜びも楽しみも無く…全てに絶望した人間の行き着くところ?
永遠の死の世界…
あの人たちは本当にそんな境地に有り、そこを目指しているんでしょうか?
違うでしょ!…そんな人はきっと、薄暗い部屋でずっと何もしないで、ネットで色々メッセージを伝えることも出来ないでしょう。そもそも生きているのか死んでいるのか分からないようなメッセージなど何になるでしょうか?
愛や幸福のおとずれについて語る人というのは、それをもたらすものに触れているからこそ言い表せるのでしょう。
何でこんな分かり切ったことを伝えないのだろう…きっと彼らが説いているのは、非二元を借りた、その実(愛とか幸福とかを織り込んでる)二元的な道なのでしょう?
だからと言って、私はエセでも一元でも二元でも構やしないと思いますけど…
何が真のノンデュアリティなのか分かっても…死の世界のことは生きている世界には全くどうでもいい事ですから!
参考までですが、あくまで私なりの分離の無い、所謂ノンデュアリティについての一つの観方が有ります。
それは特定の教え、教師、方法といった間に何ものも介さない直接性というものです。(何と何の間…というより直接的なハタラキだけが有る、というニュアンスです)あなたは直に愛自体、幸福自体を目の当たりにする!
これによれば、非二元の”教え”や、”メソッド”というのはウソなのです!…教えや方法に置き換えられるものは二義以下のもの、この意味合いではそれが二元的ということです。
そのまんま直接…ということはそれだけ愛そのもの幸福そのものが真っ中心…という事です。
そして肝心な事は私があなたにこの事を伝えることが出来ない…あなたが直接触れ、感じ、味わう事を通じてのみ伝わる、という事です。
こういうものに導かれない悟りも覚醒もホントにどうでもいいのです!…愛自体、幸福自体なる御方との一義的有り様…
これが私的一元論なのです…。













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自己信頼と回心

2017-01-26 14:03:47 | 覚醒
私は、手島郁郎先生や小池辰雄先生との出会いから、キリスト教に伝わる聖霊のバプテスマなるものによって、回心、人生を変えるような意識の変容というものが有る、という事を知らされたのでした。
ところが同じ聖霊を強調する教派でも、欧米直系の所謂カリスマ運動とか、ペンテコステ派などと言われる教派などにはほとんど関心が向くことはありませんでした。
”初代教会に見られた聖霊の命のたぎった福音に立ち返ろう…”似たような事が主張されるが何かが違う…
そうした著書を読んでいても、ダイレクトに惹きつけられていく感じでは無く、何か外側から暗示を掛けられていくようなものが感じられました。
そして、何となく読めてきました。”これは教理を植え付けようとしているのだ”、という事が…
こうした福音集会の中には、インチキもあるそうですが、本当に霊的な力が認められる場合もあり、そこで所謂聖霊体験というものもあるかもわかりません。
これも一種の覚醒体験とも言えるかも知れませんが、そのすべてが私がこのブログで書いているような全託を伴う道に通じるかどうかは疑問です。
何故ならば、教理、教会、権威などから自由でないままで、すべてを放し、託すという事はあり得ないでしょうから…(人は皆何かに依りかかって生きているものですが、程度というものはあれ、偏ることでどこか歪みが生じるものです)
杞憂すべきは、そうしたものに捉われたままであっても、ある霊的な力によって、それ相応の有り様で意識が変容する事も有り得、その捉われている部分が強化され、その分”狂信性”が生み出されることになりかねない、ということです。私はこういう事例のいくつかを知っているのです。
狂信者の特徴としてとにかく自分が信じている対象(神、教えなど)については過度な熱狂を示すものの、信じている主体、つまり自己そのものには意識が向けられない…要するに自己信頼が欠如しているのです。
(この事は勿論様々な道についても言えるものであるのは言うまでもありませんが、ここではキリスト教の関連で述べさせてもらっているのです)
自己信頼というものを欠いては、自身の内側は蔑ろにされ主体性を失ってしまうでしょう。
聖霊というか、恩寵の光が臨むと、自己の内部が照らされ開かれてきます。そこに全幅の信頼が生まれるのです。
そしてそこから思われたままの自分が突破されて、”我ならぬ我”、真我と相見えるのです。
それは全く未知の自分であると同時に、自分が生まれる以前から(ひょっとして二千年前から?)知っている自分なのです!
新約聖書マルコ伝15章に、イエスが十字架に掛けられて最後に叫ぶや、「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」という記事がありますが、これは覆い無しに、あらゆる介在、夾雑物は取り除かれ直接キリストと相見えるようになった、という事を象徴しているのでしょう。それは又内なる神性の回復とも感じられます。
「このダメな、チッポケな自分がそのままキリストと一つにされる…十字架を通して…」これは小池先生が常々語っていたことですが、教理を信じてそうなるんじゃありません。聖霊の直接的な身受、体受(先生の造語)を通じてです。十字架は又全託に通じているのでしょう。
ところで私が恩寵の光、現臨に捉えられる、と言っているものが聖霊体験なのか、どうかは分かりません。小池先生が亡くなってずっと後の集会でそのような事も有りましたが、それでクリスチャンになった訳でも無く、我ならぬ我に出会わされるのです。
前記のカリスマ運動などでは異言や預言など聖霊体験に伴う超自然的な力を求めることを強調したりしますが、その事と真我の目覚めとは何の関係もありません。
キリスト教に限らず真我、自己の本心が開かれることのない、主体性を欠いた宗教的回心というものに何の意味があるでしょうか?…又、自己の無化に向かわない、中途半端な全託はキケンという他ありません。

私はこのように聖霊体験というものが有ると知り、無性に惹きつけられたのですが、反面”自分の意志に反してクリスチャンになったらどうしよう…”などという変な了見もあり、又見た目何かに憑かれている様で”アブナイ…”とも感じていたのです。(後年別の場で自分自身がアブナイようなことになりましたが、何かに憑かれ、操られるという事は無く、前述のような事を実感したのです)
それが、いつの間にか、目の中のそういう覆いは無くなってしまいました。
覆いが無い…夾雑物の無い直接性…それは自己の内と外が信頼で結ばれるもの…ということを覚えるようになったからです。
”十字架と聖霊は切り離されない”(小池先生)ように、自己信頼と宗教的回心も切り離すことが出来ないものでしょう…。



















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敬虔ということ

2017-01-23 16:33:44 | 回想
所謂悟りとか魂の目覚めについて語る人というのは、ほとんどと言っていいほど禅だとか瞑想などに関連したインド、仏教系の道の影響を受けているように感じられます。
私の場合も勿論そうしたものにも触れていますが、より多くキリスト教的なものに影響を受けている点で一寸異色になるのかもしれません。
とにかく最初に私の意識に”恩寵の光を受けて精神が変容する”という事態のことを知らされたのは、キリスト教に伝えられる所謂”聖霊のバプテスマ”のことだったのです! この事を知った頃は他の道ではほとんど聞いたことがありませんでした。(東洋インド系のものというとヨガ瞑想とか修行系のものが多かったようです。私にはただメンドクサそうなだけでした)
と言っても、初めに昭和53年初夏の頃原始福音の「生命の光」誌で手島郁郎先生のコンヴァージョン(宗教的回心、覚醒)の説明に接してもチンプンカンプンだったというのが正直なところでした。
これが、54年春頃、急速に関心を持つようになり、意識がそっちに向けられるようになったのです。
この頃は超宗教結社?道院に定期的に通うようになったのですが、時を同じくして関西の女性霊感者Mさんの縁で、数人の若い人が道院に入ってきました。(私は自身の見えざるルート?に依るものでたまたま時期が重なったのです)
集会でその人たちと会う事が多かったのですが、彼らの間でいつも何か霊的なものが見えたとか、幽体離脱をしたとか、神秘的な事が話題になっていました。(道院の番頭格のNさんは何か言いたそうで、ジッと我慢してる様子でした)
私は…この時分すっかりそうした話には興味を失っていました。というよりいたずらに神秘めいたものに首を突っ込むべきじゃない、我々の日常を超えた意識の内面とか霊的な事は甘く見るもんじゃない…と、当時私が見舞われた意識障害?(これは元はと言えば私の軽はずみの行動が招いた〉のことが脳裏にあってか、その話には一寸距離を置いていたのです。
私がそれまで身に着けていなかったもので、この神秘めいた話に夢中になってしまう空気に感じられないもの…それは敬虔さというものだと思います。
20世紀のドイツの宗教哲学者ルドルフ・オットーはその著「聖なるもの」の中で、宗教的感情の根底にあるものとして戦慄、畏怖、畏敬などの感覚を呼び起こすもののことを”ヌミノーゼ”と呼びましたが、こうした”おののき”と相反する”抗しがたい魅惑”という感覚も伴うものであると述べています。
実にその通りだと思います。これが神的なものを目の当たりにする、ということでしょう。
それは又思われたままの世界が突破される、ということです。
我々はこのものに出くわすまでは、神的なものを思い描くことしか出来ないのです!身が震えない限り、いくら見えないものが見えようとも同じ事です。
分かったつもり、知ったつもりになっていても何も知らない事と同じです。…又知らないという自覚、自我の限界が示されなければ、自己を超えた領域は開かれず、受け入れることが出来ません。
神的なものは、この思われたままの自己とは全く違う!…この現実と彼の世界には決定的な断絶がある…オットーらキリスト教の哲学者、神学者が言うように、神はある意味では超越的な”絶対他者”なのでしょう。(ただそれだけという訳にはならないでしょうけど…)
宗教的回心の道は敬虔ということの分からない者が無暗に近づくものでは無い…当時の私はこの事を身をもって知らされていたのです。
と同時に聖霊というか、神的なものが直接臨むという事態には恐ろしさを覚えると同時に、思いを超えて惹きつけてやまないものがあることも覚え始めたのでした。
それからしばらくして、小冊子を通じて小池辰雄先生と出会った時、ホントに身が震えたこと昨日のように覚えています。
敬虔ということは倫理とかモラルの話(大きなお世話の説教聞いてりゃいいってもんじゃない!)じゃなく、学習して身に付くものでもありません。
(この辺りインド系の道では蔑ろにされている傾向も見受けられます)
あの”おののき〝、”ウマしき誘惑”…分かる人には分かります。これはある感性によって養われるものです。私はキリスト教に特有の教理偏重の色に染まるでもなく、ごくシンプルなキリストによって開眼されたのです。
この事がこれまで安直な思い上がった神サマ気取りの誘惑(これに陥るといよいよもって度し難いことになります)に走らずにしているのでしょう。
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ネコにしがみつかれた!

2017-01-21 16:12:01 | 詩的文章
昨日、寒風吹きすさぶ中、いつもは通らない路地裏でネコに出会った
目と目が合うと…運命というものが過る
ネコは脇目も振らず近づき、頭を差し出すような恰好で…
”撫でてくれニャ”のアッピール
冷たい路上にゴロンしては、
”今度はお腹ニャ”
何という人懐こさだろう…
毛並みが綺麗だから、どっかで飼われているらしい
もし、ノラだとわかったら…どうなることだろう…
僕の理性は崩壊しちまうかもしれない
君は飼い猫…そうだよね!
だから寒いから早くお家へ帰りなさい、僕もそうするから…
そうして、心残りを振り切るように足早にそこを離れようとすると…
僕の足に”がっし”としがみついてくるではないか!
”行かないでくれニャ…離さないニャ…”
ぼ、僕は君の神サマじゃないよ! 平気で君を施設に送るような人間の仲間なんだよ!
なのに、そんなに信頼してくれるのかい、こんな僕を!

神は真っすぐに向かって愛を訴える者を見捨てるだろうか?
人間は平気でこの愛すべき者たちを見捨てる
動物愛護がどうのこうのじゃない
僕はこのネコを通して、あの無垢な愛の片りんに触れているのだ
真っすぐな愛切に応える真っすぐな恵愛…
動物たちは、あの天的な愛の交わりを呼び覚ましてくれるのだ

神がかりならぬ”人がかり”のようなネコ
神になろうとしている身の程知らずの人間が居るけど…
君は人間になろうとしているのか?
そいつあ、よした方がよくないか…君たちには無い地獄だってあるんだよ!
全く人間てヤツは元々の摂理に無い事をおっぱじめて、後始末に窮しちまってる有様だ…
真っすぐ向いていたらいいのに…
天使のようにね…
そ、そうか…もしかして君は人間を通り越して、天使になるのか…
それとも…君たちこそが地上に降りた天使なのか!
僕はいささか身を持ち崩したようだけど…
君は僕にも微かに真っすぐな心が根付いていることを教えてくれた
あの真っすぐな恩愛の前には、しがみつかざるを得ないんだ…
こんな冷え切ったアスファルトにもあの残り火のぬくもりが感じられるのかい…

今度からこの路地裏を通ることにしよう
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