人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

見えない空間

2023-01-31 09:41:40 | 現臨、ハタラキ
目を閉じれば空間が広がる
その空間は見えない
しかし、見える空間よりもはるかに
よく見える!
見えることは感じること
ずっとずっと見てきた、感じてきた...
見えない空間!
しかし、ずっと気付いていなかった!
何としたことか!
空間とは目で見るものだとばかり思っていた!
空き地?...空いてる場所?
空いてる場所に居ても空間を感じるとは限らない!
見える空間は時に呪縛ともなる!

”見たまま、思うままが私なのではない!”
”私は私を超えたものによって在らしめられる”
”現臨、現存、実存”
すべて見えない空間を物語るもの!
見たまま、思うままの私は
見えない空間の私を離れては在り得ない!
考えている私...
考えていては分からない!
目を閉じて...
目を閉じて、見、感じられたら
目を開いていても感じられる...

見える空間に何かが占拠、支配する
境界で仕切られる
分断される
閉じられる...
閉じた空間はもはや空間ではない!
見えない空間は閉ざされることがない!
何ものにも侵入されることがない!
自由、安らぎがある
開かれてある...
見えない空間に
私は在る!...






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コンクリートだらけのお社

2023-01-29 09:36:06 | 日本的霊性
昨年末、日本橋の水天宮にお参りしたのに続き、先日は芝にある”小さな“宮さん、芝大神宮にお参りしました。
どちらも久し振りなのでしたが、特に行事があった訳でもないのに、混雑も予想される正月の期間は避けていたにも関わらず、参拝の行列が出来ていたのに正直びっくりさせられました。
どちらも過去数度訪れたことがありますが、そういう光景に接した記憶はほとんどありません。
前者は、商店街を成している人気スポットだから不思議でも無さそうですが、後者の”小”神宮なんかは、近くの“大きな”増上寺の影にすっかり隠れている印象だったのですが...
生きづらい、世知辛い世相を反映しているのでしょうか?
しかし、どちらのお社もビジネス街の真っ只中にあるだけあって、その周りはコンクリートで固められてしまって、神社本来の、お土や古い巨木などの自然と通い合う空間というにはほど遠く、あれでは神気、霊気などが通るはずなど無いと感じざるを得ません。
それでも人々は神前に額ずこうとしている!...何を祈ろうとしているのか、どんなお陰があるのか知る由も無いですが...
いや、そんな私は寒いのに一体何をしているのか?
行列に加わっているのですよ!、あったりまえでしょ!
そうしてると、エラそうに、批評家気取りで、傍観者みたいに書いてるのが恥ずかしくなって来そうです。
周りはコンクリートだらけでも神社は神社!..”.一寸足を伸ばせば、本来の神社の持つ地場にも触れられるぞ!”、なんてバカなことを言ってはいけない!
神社の存在とは、その地域特有の歴史、(見にくいものとなっても)風土と共にあるものなのです。それは又、一人一人の精神的歴史風土とも関わるものだと思います。
そして、私はどちらとも参拝を終えて、何か私の内部に通ったような、すがすがしい気分になったのでした。(どちらもこの地域で生まれ育った訳でもないですけどね)
なるほど、そこは本来の神社の在り方からはほど遠く、我々の文明が自然が醸し出す気を覆い、閉じ込めたことを象徴しているように、コンクリートで覆われています。
しかし、祈るということは、外からの気の感応ばかりでなく、我々に本来から与えられている、内的なものが呼び起こされることでもあることを改めて感じさせられたのでした。
このような様態にあっても尚、古来からの風儀は伝えているのです。
こんな時代だからこそ、それは尊く映るのでしょう...。
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何のエニシか知らないけれど...

2023-01-28 09:09:39 | 詩的文章
この冬はとても寒い!
毎年、今頃になると言っている気もするが...
多分、10年に一度なんてもんじゃない!
寒いものは寒い!
“寒くないと思えば寒くない“
なんて、精神力でどうなるもんじゃない!
風邪だってひく時はひく
懐だって寒くなれば寒くなる...
凍えてしまう時は凍えてるしかない!

怒ることは悪いと思ってはいても...
怒りたい時は怒る!
何の“インガ“でそうなるのかは知らないけれど...
それで、何の“ムクイ“があるのかは知らないけれど...
気分が悪いんだから
それでいい訳ないんだから...
もう受けてるんだろうか?
何にしても...
この寒さにゃ勝てない!...

いくら外は寒くても
僕はここに居る!
ここには戻ってこれる!
シベリアや北極のことは知らないけれど...
何の“エニシ”か知らないけれど...
僕はここに居る!
ここに居るということは...
寒くない時は寒くない!
怒らない時は怒らない!
そう思おうとしなくてもそうなる!
そうしようとしなくてもそうなる!
どうしてそうなのかは...

サッパリ分からない!





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超えることは思いがけないこと

2023-01-26 10:05:40 | スピリチュアル
「もし あなたは 私を見つけられないなら
あちこち歩き回るのを止めなさい
もし 私を見つけたいのなら
私を あなたの内に探しなさい」
(アビラの聖女テレサの「詩」/聖母文庫)

精神の道を歩む者なら誰しも悟りや精神的覚醒、超越体験などに関心を持ったことがおありでしょう?
私も御多聞にもれない者なのですが、そういう人たちの気持ちをヘコませてしまうだろうことを言いますと、私は一度もそうした意図をもって、そのようなことになったことは一度も無いのです。
まあ、悟りというのはともかく、神の手に捉えられて、初めて人生の裏側へ踏み込んでしまったことは、全く思いがけないことだったのです。
そして、それがあまりにも至福に満ちた、スッバらしいことだったので、何とか再現出来ないものかと、「スブド」という団体で「ラティハン」と呼ばれる霊的修練と関わったりしたのです。
一寸マンネリ気味になったこともあったにせよ、常にそういう期待はどっかで抱いて、それに臨んでいたのですが、約四年間もの実修の中で一度もそういう契機には恵まれませんでした。
その後、同じような目的で、金井系一郎先生の提唱する「金井メソッド」という瞑想も試みたこともありましたが、やはり同様なのでした。
いずれも、大生命力とかバイブレーションというような、現臨感と相通ずる感覚はあるのですが、それ以上に深く意識に浸透して、あの至福感を伴う日常を超えてしまう感じには至らなかったということです。
ところが...さらに後、キリスト友会(クエーカー)、小池先生亡き後のキリスト召団の集会では、思いがけなく、そういう契機に恵まれました。
これは、あくまで私個人に即したことを書いている訳で、“そうか、それらのキリスト教系の集会へ行けば、そういうことに与れるのか!”、なんて即断したってダメですよ!
“そっちの方がより強度の力が働いているのか?“、なんてそんなことは多分無いでしょう?
言いたいことは、こういうこと...私はそこで、そういう体験を得ることを目的にしていなかったということです。だから期待したってダメなのです!
これは、主我的な思いから離れていたと言ってもいいでしょう。
思いがけないこと...正に思いを超えたところからもたらされたことだったのです。
只々、私の現前に臨んで、私のすべてを捉えるものに打ち任せるしかなかったのです。
おのずと思いから離れて、神のみ手に明け渡される...
そうなってみて、この根源現実を離れて覚醒、超越体験自体を求める在り方は、主我的な思いから発していたことを知らされたのです。
意識がどうしてもそちらに向かない、通らない...つまりは思いから離れられないのです。
我が主から離れて、一体どこに導かれようか?!
我が主を求める...パッと向いてしまう!...それがたとえ主我的な思いからだろうと、それを超えて、主へのゆだねへとおのずと切り替えられてしまうのです。
そして、いつの間にか、その主との一体感は常住のものとなってしまったのです。
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真我と神の道

2023-01-25 09:53:58 | スピリチュアル
「何と幸福なことか 私の愛するお方よ
あなたの側におられるなんて あなたにお目にかかりたくて
私は死にたくてたまらない」(アビラの聖女テレサの「詩」/聖母文庫)

精神の道では、真我の探求、実現などに常に関心が集められているようです。
それは、悟りや覚醒体験と結びつけられている訳ですが、私は数年前からそういう方へは意識が向けられなくなりました。真我という表現もあまり使いたくないのです。
この理由は、そういう方に関心が行くことですぐ主我的な思いがもたげてきて、中々それを払拭することが出来なくなるからです。
“偽りの自分を消し去り、真の自分に目覚めなければならない!、何が真実で幻想かを見極めなければならない!、中途の段階にとどまることなく、究極の境地を目指さなければならない!...“
こういう思いに駆り立てるものは何だと思われますか?、誰がそう思い、為そうとするのですか?
為そうとしている...本当に出来ると思っているのだろうか?、一分でも自分で自分の思いを止められるのだろうか?
私はしばしば神、神的現臨、超越的なものについて言及しています。非二元の見地からは、二元的で中途の段階のように思われるかもしれません。何だっていい!
この大きな理由は、主我的な思いが真我に成りすまし、あのお方の座に取って代わろうとすることの無いようにするためです。
思われた自分とそれを超えたものとの際が示されることなく、“明け渡し“の契機の無い、如何なる真我実現の道もその前途に開かれるはずの、あの光の道は見えて来ないではないか!

いやいや、本当の理由というのは、そんな何かのためとかというところには無いのです!
本当の理由は...
理由何て無い!...理屈じゃありません!...惹かれてやまないものがあるからそうなるだけです!
先のは、どうしても意識が向かないのに対して、おのずから向いてしまうのだからしょうがありません!
何が偽りで、何が真の自分かは知らない!...しかし、“本来の自分“というものなら、このことを通して分かるのです。
それは、神にあって、神と共なる自分に他なりません。
自分から真我実現、悟りの道を志そうにも、そこには何ら確かな裏打ちがある訳でもありません。しかし、神と出会い、共にあることには、ある動かせない運命というものを感じずにおれません!
神(それは本来神と一なる我かもしれません)は、この私に何を望み、どう導かんとしているのでしょうか?
それについては、もう祈り、ゆだねるしかありません!
どう導かれようと、その運命を受け入れるしかありません!
今年に入って、一段とあのお方の迫りが近しくなって来たのは確かなようです!...
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