まんまるログ

融通性か?和・洋・中・無国籍・ジャンクとなんでも食べる胃袋と脳みそ。

自己犠牲の罠

2015年05月23日 | 日記
先だってブログで、鬱病の事にちょっと触れたら…見知らぬ女性から電話があった。
とめどなく話がとまらない。
共通の知人に電話番号を聞いたと言う。
話すだけ話すと納得する。

そういう事が多くなっている。

困る。

いい事なのか、悪い事なのか…それとも浅学菲才のこのわたくしめに相談してくれるなんてと涙する事なのか…。
話を聞くだけでもお役にたてまして、恐悦至極に存じますると感じ入る事なのか……。
ふぅぅぅぅっ。
出るはため息ばかり。

それほどに自分の悩みを打ち明けられる相手がいない。
季節は夏に向かっているのに、家族間、夫婦間、そして人間関係が寒く凍えている。
その事だけを強く感じる。
ふぅぅぅぅぅっ。

主人の為に、子供の為に、家族の為に、または他人の為に自分を犠牲にしてきた。
自分が犠牲になるのはいい事だと思っているから。
自己犠牲はいい人がする事だと思っているから。

しかし、自分を犠牲にする事は〝絶対的な不幸〟という前提に立っている事を忘れてはいけない。
自分さえ我慢すれば、自分さえこらえれば、急場がしのげる。
何事も自分を後回しにする。
この考えは悲壮で日本人の情緒に訴える物である。

ただ、依存的な我慢(犠牲)は良い感情とは言えない。
最も大切な事は、良い感情は気分もよくするが、悪い感情は気分を害するという単純な法則である。

自己犠牲が高じると…時がたてばその感情は〝怒り〟に変化する。
〝怒り〟は他人はもちろんだが、自分自身を傷つける。
癒しがたい傷を負うのは、他ならぬ自分である。
その事を忘れてはいけない。
私自身が経験した事でもあるし、今なお経験の途上にある。

  

外に出ると暮れた空…帯状の夕焼け。

空の風景は〝創造主〟である筈の自分を呼び覚ましてくれる。

どんな場所にいても、どんな境遇でも、幸福でも、不幸でも…脱毛症でも、老眼でも。

外の誰でもない自分が、人生の途上で選択した結果が、現在(いま)ここにある。
……という事も。





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