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Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

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◆ロマノフ朝最後の皇帝ニコライ二世一家 繰り返されてきた「生存説」の結末は?

2019-02-11 04:34:22 | Weblog


ニコライ二世一家


四女アナスタシア



1918年7月16日、約300年に渡ってロシアに君臨したロマノフ王朝(1613~1917年)が、その長い歴史を閉じた。1917年のロシア革命で皇帝の座を奪われた皇帝ニコライ二世とその家族が、幽閉先のエカチェリンブルク近郊のイバチェフ館で、レーニンが率いた革命派によって銃殺されたのである。
幽閉されていたのは、ニコライ二世と皇后アレクサンドラ、13歳の皇太子アレクセイ、22歳の長女オリガ、21歳の次女タチアナ、19歳の三女マリア、17歳の四女アナスタシア、そして、主治医ポトキン、侍女デミドワ、コック長ハリトノフ、従者トラップの11人である。

*四女・アナスタシアは生き延びた?
 運命の日、自分たちが銃殺されるとは思いも寄らなかったニコライ二世一家と使用人たちは、狭い小部屋に入るよう命じられた。その後、銃撃隊が部屋に入り、「あなたの親族が、外国の力を借りて革命政府を転覆しようとしている。そこで、あなた方を射殺します」と告げた直後、多数の銃弾が彼らに撃ち込まれたのである。その後、11人の死体は細かく刻まれた上で焼却され、骨には硫酸がかけられ、エカチェリンブルク郊外に埋められたという。しかし、こうした記録は残っているものの、遺骨が埋められた場所を特定する資料は残されていなかった。その結果、一家の遺骨は中々見つからず、いつしか「ニコライ二世一家はドイツに引き渡され、その後、中国に渡った」「秘密のトンネルを使って南海の島に脱出した」といった生存説が流れることになった。
中でも四女のアナスタシアについての生存説が多く、1984年までアメリカで生きていたという実しやかな噂も流れたのである。実際、後に偽物であることが証明されたものの、「自分は皇女アナスタシアだ」と名乗る女性まで現れた。

*一家の遺骨が発見されるもーーー「2体足りない」!
 1985年、一家の遺骨らしきものが発見され、その衝撃的なニュースは世界中で報道された。DNA鑑定を中心に鑑定が進められ、ニコライ二世の一家のものであるという結論が出た。この鑑定では、ニコライ二世が1891年に日本を訪問した際に、滋賀県の大津で警備中の警官に斬りつけられた「大津事件」の際に、ニコライ二世の傷口に当てがった木綿のハンカチが使われた。しかし、この段階でも、まだ謎は残っていた。銃殺されたのは11人のはずなのに、何故か遺骨は9人分しか見つかっていなかったのだ。
では、遺骨が発見されなかった2人とは誰なのか?
この謎については、「アレクセイとアナスタシアだ」「いや、アレクセイとマリアだ」という論争が起きたが、はっきりしたことは分からなかった。アナスタシアの生存説が長く消えなかったのは、この遺骨の数の問題もあったからだ。
この謎が開明されたのは、2007年7月のことだった。2体の骨片46個が、9体の遺骨が発見された所から80㍍離れた場所で発見されたのだ。2009年3月11日、DNA鑑定によって、この2体の遺骨は、アレクセイとマリアのものであると確認された。90年の時を経て、ニコライ二世一家に纏わる謎が、やっと終焉を迎えたのである。



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