『天皇家の先祖は天界から自分の孫を降臨させたアマテラスと謂われている。しかし、アマテラスよりも前に、実は知られざる別の皇祖神がいたと謂う。』
日本神話によれば、初代天皇と伝えられる神武天皇の先祖は、高天原(天上世界の事で「たかまのはら」とも謂う)から日向(宮崎県)の高千穂の峯に降臨した(天孫降臨)とされる。降臨したのはニニギ(『古事記』では天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命、『日本書紀』では天津彦彦火瓊瓊杵尊)という神で、その祖母にあたるのがアマテラス(『古事記』では天照大御神、『日本書紀』では天照大神)である。
神武天皇から今上天皇まで万世一系であるとする説に従えば、歴代天皇は皆アマテラスの子孫ということになる。
アマテラスは皇祖神(皇室の先祖神)であり、長く国家権力を支えて来た国家神でもある。
また、神話の世界では、弟のスサノオ(『古事記』では建速須佐之男命、『日本書紀』では素戔嗚尊)の乱暴な振舞いに怒って天岩屋に籠ってしまい、世界を暗闇にした(天岩屋神話)太陽神としても知られている。
日本には八百万の神がいると謂われているが、その神々の中でもアマテラスは皇祖神・国家神・太陽神という神格を持つ至高の神(最高神)なのだ。
しかし、ここで一つ素朴な疑問がわく。多くの神々が存在する中で、何故アマテラスという神が皇祖神として長きに渡って崇敬されて来たのだろうか?
そんな疑問に対して、実は、皇祖神は本来、アマテラスではなかったという説が以前から唱えられていたのだ。その根拠は、日本神話を伝える『日本書紀』の記述にあると謂う。例えば、神代下の冒頭には、皇祖タカミムスヒ(高皇産霊尊)が皇孫の二ニギを立てて、葦原中国(地上世界)の君主にしたいと思われた、という記述がある。
これに対して、もう一つの古代の歴史書である『古事記』は、皇祖神としてアマテラスを前面に押し出している。しかし、精読してみると、葦原中国の平定の前にタカミムスヒ(高御産巣日神)とアマテラスの二神が天安河の河原(天安河原)に八百万の神々を召集したことをはじめ、タカミムスヒとアマテラスが共に命令を下した話を記載している。つまり、『日本書紀』も『古事記』もタカミムスヒを皇祖神として伝えているのだ。
タカミムスヒは、天地が初めて開けた(天地開闢)時高天原に現れた三神のうちの一神で、神話ではアマテラスよりも早くに登場する長老のような神である。そこで以前からタカミムスヒこそが本当の最高神であり皇祖神であるという説が唱えられていたが、今ではタカミムスヒの神名は多くの日本人にとって馴染みのないものになっている。それに対して、伊勢神宮の内宮に祀られたアマテラスは今でも多くの日本人が皇祖神であると信じて疑うことはない。
何故皇祖神はタカミムスヒではなくアマテラスになったのか。この謎を解き明かす説として近年、注目されているのが、アマテラスは7世紀末に皇祖神になったという歴史学者の溝口睦子氏の説だ、溝口氏によれば、4世紀までの日本(倭)は多神教的世界であり、唯一絶対の権威を持つ至高神は存在しなかった。政権も緩やかな結び付きの豪族連合の段階だったが、高句麗(古代の朝鮮で勢力を有した国)との闘いに大敗したことで専制的な統一王権への切り替えが図られた。
その主権(ヤマト王権)を支える政治思想として朝鮮半島から導入されたのが、北方系王権神話の系譜を引く天孫降臨神話であり、5~7世紀の日本の皇祖神・国家神はタカミムスヒだった。それに対して、アマテラスは弥生時代からの土着の太陽神であり、7世紀末頃までは地方神に過ぎなかった。その為、古代の支配者層の人々にとっては「タカミムスヒの方が、アマテラスに比べて遥かに格式の高い名前として感じられていた」(溝口睦子著『アマテラスの誕生』岩波新書)と謂う。
そして、「ヤマト王権時代は、タカミムスヒに象徴される北方系の外来文化が、アマテラスに象徴される弥生以来の土着文化の上に被さって『二元構造』を成していた時代(前掲書)であり、神話もまたニ元構造になっていた。
『日本書紀』で示せば、神代主はイザナギ(伊弉諾尊)・イザナミ( 伊弉冉尊)の国生みから始まりオオクニヌシ(大国主神)に終わる巻、神代下はタカミムスヒを主神とする天孫降臨神話を中心とする巻になっている。
ところが、「7世紀末、律令国家の成立に向けて、強引に改革を推し進める天武天皇は、一方で歴史書の編纂を命じて、新しい中央集権国家を支えるイデオロギーとしての、神話の一元化を図った」(前掲書)
その際、天武天皇が決断したのが、タカミムスヒからアマテラスへという皇祖神=国家神の転換だったというのだ。
*知名度が低かったタカミムスヒ
では、何故天武天皇は地方神に過ぎなかったアマテラスを皇祖神=国家神に昇格させたのだろうか。
これまで唱えられて来た説として、壬申の乱(皇位継承権を巡る大海人皇子と大友皇子による内乱)での大海人皇子(後の天武天皇)の勝利に功績があったという神助説がある。
『日本書紀』によれば、挙兵した大海人皇子は朝明郡(三重県三重郡)の迹太川でアマテラスを遥拝したとされる。しかし、溝口氏は「壬申の乱に於ける功績自体、どのようなものであったのか、アマテラスの場合はあまりハッキリしていない」(前掲書)と述べ、それよりも臣・君・伴造・国造などの姓制度との関係を、アマテラスが皇祖神に昇格した理由にあげている。
溝口氏によれば、カミムスヒは広範な一般の人々にはほとんど知られていなかった神であり、且つ「天皇に直属する勢力である連や伴造の氏が、専ら信奉した神であった。その点で、支配者層全体から見てもこの神は、謂わば党派的・派閥的な色彩の強い神であり、特定の氏グループの神であった」(前掲書)
それに対してアマテラスは「主として君系の中の有力氏や、一部の地方豪族が特に信奉した神ではあるが、しかし同時に土着の太陽神として古くから神話を通して列島全体の広範な人々に知られ、支配層の人々にも党派の別なく親しまれていた神だった」(前掲書)と謂う。
つまり、天武天皇は新しい統一国家を建設するにあたって、「派閥の匂いの強いムスヒの神ではなく、全ての人々に古くから馴染みの深いアマテラスを神々の中心に据えることによって人心の一新を図り、新しい国作りに挙国一致で向かう万全の態勢を整えようとしたのではないか」(前掲書)と溝口氏は述べている。
こうして、天武天皇によって皇祖神の転換が行われたが、実は転換は決して急激なものではなかったと謂う。『日本書紀』や『古事記』の記載を見れば分かるように、天武天皇はタカミムスヒを一気に歴史から抹殺しようとはしなかった。暫くの間、ニ神を皇祖神のように扱い徐々にアマテラスを新しい皇祖神として定着させて行くという、この緩やかな転換によって反対する勢力を抑えることができ、皇祖神の転換は成功したのである。
アマテラスとタカミムスヒが神々を召集したとされる天安原(宮崎県高千穂町)
アマテラス
タカミムスヒ
日本史最後の謎 1-1 ベールに包まれた神話と古代王権の謎