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◆マルコ・ポーロが克明に記した イスラム世界「アサシン=暗殺教団」の恐ろし過ぎる実態

2019-11-01 04:20:19 | Weblog


暗殺者を養成したとされるアラムート城(右手前の岩山の上)


11~13世紀のイスラム世界には、他の国々の為政者や政治家、高官を震え上がらせた暗殺教団が存在した。「アサシン」である。
アサシンとは本来、ヨーロッパ人がイスラム教シーア派・イスマーイール派の一派であるニザール派を指した名称であった。しかし、今ではアサシンといえば「暗殺者」というイメージだ。

*影響力のある人物を、次々に暗殺  
アサシンを創ったのは、ニシャプールの大学で学問を修めた神学者ハッサン・ビン・サバーフで、本来、アサシンではなく「アッダワ・アルジャディータ(新しい教義)」と名乗っていた。イスラム教はスンニ派とシーア派に大別され、多数はスンニ派である。しかも11世紀当時、スンニ派のセルジューク朝が西アジアのイスラム世界の実権を握っており、増々シーア派は劣勢となった。 そのシーア派の王朝は、909年に北アフリカに成立したファーティマ朝が、勢力拡大を狙っていた。そうした情勢下でシーア派の勢力を拡大する策として、ハッサンが結成したのが暗殺教団だったのだ。数では劣るが、スンニ派の有力者など、影響力のある人間を暗殺することで、存在意義を示そうとしたのである。暗殺教団の犠牲者の中には、セルジューク朝の宰相ニザーム・ムルクやスンニ派の要職者などが数多く記録されている。

*暗殺教団が、若者を勧誘した際の魔の手段  
暗殺者には常に死のリスクが伴う。暗殺に成功しても、ターゲットの護衛によってその場で殺される場合が多かった。にも関わらず、何故教団の団員は危険な任務を行なっていたのだろうか?
マルコ・ポーロが記した「東方見聞録」には、アサシンに関する記事が次の様に出ている。
アサシンの本拠地はカスピ海南岸にあるエリブルズ山中。ここにある砦アラムートを奪い、居住していた。ハッサンは「山の長老」と呼ばれ、ここから指令を出したが、自ら砦を出ることはなかった。 暗殺者の勧誘は、先ず誘拐である。スカウト役が各地に赴いて、屈強で暗殺者の素質がありそうな若者を見つけると、麻薬(ハシシ)を嗅がせて気絶させ、砦まで連れて来る。連れて来ると、様々なご馳走や美女を侍らせて歓待する。もちろん麻薬も盛られ、ここで快楽を貪る時間を過ごす。 そうした生活に慣れた頃、再び村へと戻してやる。だが突然、昔の貧しく退屈な暮らしに戻った若者は困惑する、或いは、既に麻薬がなくては我慢できない体になっているかも知れない。そんな時、勧誘者が現われ暗殺教団に入り、山の長老の指令に従って、暗殺を成功させれば、また豪勢な暮らしに戻れると囁くのだ。

*人々を戦慄させた派手な暗殺方法  
アサシンの殺害方法は、短剣を使うのが特徴だ。これは、ターゲットを確実に殺す為に、極力接近して行なう殺害方法として有効だからだ。そして教団の恐ろしさを世に示す為でもあった。
暗殺というと、人知れず密やかに遂行されるイメージがあるが、アサシンの場合、その存在を誇示する為に、敢えて人々が集まる場所やモスクなどで行なうことが多かった。スンニ派の有力者たちは、何時、何処からアサシンに襲われるか分からない為怯え、ボディーガードを随行させていたという。アサシンの噂は、西アジアのみならずヨーロッパにも広まっていた。 ハッサンは1124年、90歳で亡くなったが、その後もこの教団は150年もの間、存続した。しかしながら、1256年、フラグ(モンゴルの将軍でイル・ハン国の建国者)率いるモンゴル軍の侵攻によって砦は陥落し、8代目の山の長老だったフールシャーは殺され、教団は壊滅してしまった。 マルコ・ポーロの記述には脚色部分もあるといわれるが、要人たちを恐怖に陥れた暗殺教団の伝説はミステリアスな響きと共に今に伝えられている。


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