『後醍醐天皇によって樹立された建武政権は数年後に崩壊したが、その原因の一つとして所領問題があげられて来た。しかし、近年、新たな見方も唱えられている。』
元弘3(1333)年、得宗の北条高時が自刃し鎌倉幕府が滅ぶと、隠岐島に流されていた後醍醐天皇が京都に戻り、新政権が誕生した。日本史に名高い「建武の新政」である。天皇親政を目指した建武政権は次々と諸政策を発表し、天皇に全ての権限が集中する独裁体制を目指した。
ところが、建武2(1335)年、高時の子・北条時行が挙兵し鎌倉を占拠する(中先代の乱)と、足利尊氏がその鎮定の為に京都から東下した。尊氏は弟・直義と合流して反乱軍を破り鎌倉を奪回したが、帰京しようとしなかった。その後、尊氏は後醍醐の上洛命令も拒否し、建武政権に叛旗を翻した。尊氏のこの行動について南朝の重臣・北畠親房は自著の「神皇正統記」の中で「高氏(尊氏)のぞむ所達せずして、謀叛をおこすよし聞えし」と記し、謀反であると述べている。また、有名な軍記物「太平記」も尊氏を後醍醐に反旗を翻して北朝を盛り立てた人物として描いている。これらの歴史書や軍記物によって尊氏は後世、「逆臣」「国賊」として歴史に名を刻むことになった。 しかし、朝敵となった足利軍は強かった。新田義貞を総大将とする政府の追討軍を竹ノ下の戦いで破り、更に、翌3(1336)年、楠木正成を大将とする政府軍を湊川の戦いで破った。こうして、建武政権は僅か数年で崩壊し、吉野に逃れた後醍醐は南朝を樹立する。後醍醐の南朝と尊氏が擁立した光明天皇の北朝という2つの朝廷が並立する南北朝時代が始まる。
*新政権は当知行安堵を基本方針にしていた
建武政権が崩壊した原因については、尊氏が反旗を翻し後醍醐と決別したことが大きな原因であることは間違いない。 しかし、その尊氏に地方の武士らが従ったことも、建武政権崩壊の原因として看過することはできないだろう。地方の武士らは何故後醍醐ではなく朝敵となった尊氏に従ったのか。その大きな理由として、これまで指摘されて来たのが所領問題だ。 元弘3年6月、帰京した後醍醐は「今次の戦乱(元弘の役)で奪われた所領を旧主に返還し、以後の土地の所有権の変更は後醍醐の自身の裁断によって初めて確認される」という宣旨(天皇の命を伝える文書)を発布した。また、訴訟・申請の裁断は綸旨(天皇の意思を伝達する文書)によるべきことを強調した(綸旨絶対主義)。後醍醐が発布した宣旨は「個別安堵法」(所領個別安堵法、旧領回復令)と呼ばれるが、歴史学者の佐藤進一氏によれば、「実際には遥か昔に失った旧領にまで適用されて、大変な混乱を引き起こした」(佐藤進一著『日本の歴史9 南北朝の動乱』中央公論社)という。 その訳は、「全国的な旧領回復ブームが巻き起こった。こうなると、それまで平穏かつ公然と所領支配を続けて来た人々は、いつ旧領主に所領を奪われるかも知れない。綸旨が絶対である以上、危険を未然に防ぐ道はただ一つ、彼が一歩先に当知行安堵(事実的支配者の確認)の綸旨を獲得することである」(佐藤氏 前掲書)というわけで、安堵の訴人が京都に殺到したのだ。当知行安堵を求めた訴人の多くは、後醍醐の倒幕命令に応じて幕府軍と戦った地方武士らである。彼らが当知行安堵を求めた根拠は、鎌倉幕府3代執権・北条泰時が制定した「御成敗式目」(貞永式目)にある。その第8条は、土地は20年間継続して支配すれば、その土地は実際の支配者の所有に帰すると定め、本領安堵を保障していたからだ。つまり、第8条は御家人の社会では「不動の法」だったのである。しかし、佐藤氏によれば「新政府の法廷がこれを認めた形跡はない」(前掲書)という。「一所懸命」を信条とする武士にとって本領安堵は死活問題であり、それを破棄しようとする新政権には期待できず、後醍醐を見限ったというわけだ。 ところが、近年、個別安堵法については別の見方も唱えられている、福岡大学人文学部教授の森茂暁氏は、元弘3年の宣旨を護良親王が発給した所領関係の令旨(皇太子及び三后の命令・意思などを伝達する文書)の破棄と解し、「『個別安堵法』なるものはおそらく存在しなかった」(森茂暁著『建武政権』講談社学術文庫)と見る。森氏によれば、新政府の樹立後、所領の安堵を求めた全国の地頭・名主クラスの者たちが続々と法廷へ詰めかけたが、「彼らの要請に対して政府は当知行安堵を基本方針として、これを貫いている」とし「建武政権は当初から当知行地安堵の大原則を掲げていた」(前掲書)と述べている。 新政権が当知安堵を基本方針としていたならば、所領問題は政権崩壊の原因とは必ずしも言えなくなる。やはり、建武政権崩壊の原因は尊氏の離反にあったのだろうか。
日本史最後の謎
武士が覇権を握った鎌倉・室町時代の謎 3-5