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Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

お爺さん世代の戯言

2022年10月13日 20時10分33秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 本日は雨模様。気温も低く、昨晩0時過ぎの18. 3℃が最高気温であったようだ。神奈川大学の講座の往復はさいわいにも雨に合わずに済んだが、現在は本降りが長く続いている。

 床屋政談ならぬ居酒屋政談をひとつ。

 先日友人と一献傾けているときに、別荘をもったり自宅の敷地に物置のような自分だけの別室を作れるような金が手に入ったらどんな名をつけるか」というような他愛のない話になった。20歳前後の学生時代の時によく、そんな他愛のない「仮定の話」に興じたときのような感じで話をした。
 友人の「最近時代劇のような単純な勧善懲悪話でないと頭にはいらない」という冗談から始まった。そのときに水戸黄門や、海老沢泰久の「無用案隠居修行」のようなドラマぐらいがちょうどいい、というのが話のとっかかりであった。

 友人は「無用庵」ではなく「無傷庵」がいい、と言っていた。70数歳までどうやら無傷で過ごしてきたし、社会に背を向けて生きて来たけど、無傷でここまで来たことに価値がある、という。わからないではなかった。かれの60年近い職場での奮闘は十分知っているつもりである。彼が、左翼の政治党派に属したもののその方針と格闘し、裏切られた50数年前の苦労も知っている。
 しかし、私はからかい半分、本気半分に「俺なら別荘とは言わず、狭い敷地が手に入れば3畳分の物置に簡易ベッドを持ち込み「有傷窟」とでも窓ガラスに書きつけたい」と酔いで眠い目をこすりながら応じた。
 「18歳から53年以上、無傷ではなく、満身創痍で闇雲とでもいうように社会や職場で、自分の考えとのギャップに戸惑いながら自分を保ってきた自負がある。また自称左翼の政治党派の牛耳る労働組合の党派的思考と格闘し続けても、自分を見失わずに生きて来た。無傷ではなかったが、傷をたくさん受けながらでも生きて来た。その傷に意義がある」と私は酔っぱらいながらも応じていた。

 酔いが醒めてしまえば、「無傷」の自負も悪くないし、「有傷」でもいいのだが、酔うとどちらかに決めないと終わらない年寄りの話を1時間ほども続けてしまった。

 若い世代から見れば、60年代に青年時代を体験したオジサンたちの戯言らしい。きっとその体験を昇華し普遍化しきれていない世代に対する、若い世代からの冷笑を今受けていると思っている。
 自分の体験を絶対視しないで、普遍化することはとても難しい。このごろそんなことばかりを考えている。



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