夕食後、「雨月物語」の巻二の「浅茅が宿」、ならびに「浄土思想」から第3章「平安浄土思想から法然へ」を読み終えた。
「浄土思想」(岩田文昭、中公新書)の第3章「平安浄土思想から法然へ」は、「往生要集」の源信と、「選択本願念仏集」の法然を中心に扱う。
「『往生要集』の基本的論調は、観想念仏が優れた行法であり、称名念仏が観想の行ができないの機根の劣ったものに向けられているということにある。」
「六道輪廻に苦しんできた衆生にとり浄土に行くことこそ、もっとも大きな願いが満たされる喜びである。浄土に往生するという願いがかなうか否かは、ここではじめて判明する。それゆえ、臨終来迎のときは決定的に重要になる。・・・とはいえ、臨終に往生が定まるということは、見方をかえれば、臨終になりまで救済が確定しないので不安が伴うことにもなる。」
「源信の思想は11世紀の貴族社会に流布し、その後の日本の浄土思想家を生みだす基盤となった。・・・今日にいたるまでの浄土教のイメージを形づくるのに大きな役割を果たした・・。」
「福音書は歴史的事実ではなく、むしろイエスの言行から救済にあずかった信者が宗教的真実を表現した書であると理解されたのである。」
「従来、歴史研究の視点から、法然伝は法然の歴史的事実をゆがめていると見られがちであった。しかしその視点だけでは不十分で、むしろ法然の言行についての証言の書であるという視点が必要である。浄土思想が生きた仕方で伝わるときは、新たな物語が生まれるのである。」
「遊女でも救われるということではなく、遊女も男も阿弥陀仏の前では平等に救われるという点に法然の力点はあった。」
この指摘は印象に残った。もう少し考えてみたい。
「法然のもとには男女を問わず、さまざまな階層・職業の人が集まってきた。絶対者である阿弥陀仏からみれば男と女、武士と貴族、善人と悪人、知者と愚者との区別はない。いずれも自力で仏道修行をして仏になることは困難だ。仏の前ではあらゆる人は平等であることが法然の思想の革新にある。このような法然の思想が、弟子たちによって新たに展開されていく。」
この指摘は記憶にとどめたうえで、次の展開に期待したい。私の浅い理解ではこの指摘は親鸞以降が相応しいと思っていた。