Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「図書3月号」から その2

2022年03月04日 22時36分08秒 | 読書

 本日は「図書3月号」を読み終えた。

・「失われた時」とは何か      塚本昌則
「時がどうしようもなく失われていくと感じるのは、語り手にとって現在も過去も、欠落をかかえた、不完全な時のあり方だからである。とりわけ語り手にとって、「現在」という時のあり方こそ「失われた時」である。‥それは現在が、不十分な形でしか、物事を感じ取ることができない時間でからた。」
「よみがえった過去は、現在の感覚に関わる何か、何ひとつ変わらない生活に幻滅を感じていた語り手を、その日常とは権限的に異なる、未知の領域に接近させる何かとして描かれている。‥かつて目の前に世界の感触を感じることで、語り手はそれまで知らなかった幸福への予感を抱くのだが、この幸福感がどこから来るのかがわからない。この小説は、「失われた時」を惜しむあまり、忘れていた過去の現在といま近くしている世界の現在という、二つの異なった時代の現在がぶつかるときに生じる、まるで時の流れの外に出たような、異次元の時間のあり方を探す物語なのである。」
「過行くものへの限りない哀惜の念が、語り手をその探求に押し出す原動力となっている。「失われた時」を惜しむ心こそ、時間の外に広がるもうひとつの現実への入口なのだ。」
  この論考は私などが「過去」を語る時とは到底すれ違うことのない地平にいるようだ。過去とはこんなにも頼りなく「失われた時」なのだろうか。私に過去の時間が不意に浮かび上がって頭の中に衝撃を受けたようになるとき、「幸福」だの「不幸」だのという尺度はない。
 私にとっては過去も現在も精一杯に満たされており、しかもいづれもが悔恨と屈辱と腐臭に満ち満ちている。現在も一瞬ののちにはそうなるのだ、という一瞬をひたすら積み重ねて来るのである。
 過去のとらえ方が、プルーストとは違うのか、筆者とは違うのか、「失われた時を求めて」を呼んでも読もうとも思わないで生きて来た私にはわからない。このような把握の仕方の読書は私にはどうも苦手だ。

・旧正月の李箱の手紙        斎藤真理子
「人は逃げる、迅く逃げて永遠に生き過去を愛撫しかこからして再びその過去に生きる、童心よ、童心よ、満たされることはない永遠の童心よ」(李箱)
 この詩の一節の「過去」の把握に親近感が強い。

・三月、春は翼に乗って       円満字二郎

・光の夕              岡村幸宣
「他者の体験は自分のものにできないが、当事者という意識は誰でも持ち得るのかもしれない。結局自分がどれだけ共振できたかっていうことなんだよね。芸術の良さも、そこだよね。(安藤榮作)」

・戦後の零落            四方田犬彦

 以上今月号からは、16編中11編で終了。



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