これまで読んだことの無かった著者や、久しぶりの著者の場合、読み始めると文章の言い回しや論理や結論に、違和感が生じることがある。その障壁の高さや違和感で読むのをやめてしまったりする場合がある。それでずいぶん読まず嫌い、になってもったいないことをしている作品、著者というものは恥ずかしながらたくさんいる。
しかしその障壁をのり越えてみたい、あるいは違和感はあるものの次の展開を見てみたい、と強く思う場合も多々ある。思想の重み、体験に基づく思考の迫力、文章の力というのが、そういうチャレンジをさせる。そういう気にさせる著者、著作、作品というのは信じられるような気がする。
もうひとつ踏み込むと、優れていると思われる作品と云うのは、自分なりに読んで理解した以上の「何か」もあるはずなのである。その「何か」を予見することで、読んでみたいという気にさせるのだと思う。
読んだ人間にはその場では読み取れない「何か」が潜んでいる。その読み取れなかったものが、時間が経ってあるときふと頭の中で醸し出されるように思い出されることもある。次の著作を読んでいるときに突然に回路がつながるようにひらめいて納得するときもある。
ひとりの読者か読み取れるのは、知識の量ではない。新しい思考回路であったり、思惟の幅であると思う。それは読み取ろうとする人の意欲と思考の幅と、体験の深さに比例する。
わたしにもそのような文章の力とそれを支える思考の力、体験を組み込む力、思想の深み、情念の強さが欲しいと思うが、如何せんそれらがあまりに乏しい。