道というものは、なまぐさい咀嚼運動を持っているものに思われた。歩き初めて、自分の足で降り立ってみた朝の栄町の往還道の上には、酔っ払いたちの嘔吐や、犬や馬や牛などの排泄物が、たったいま生きものたちの体内にあったようなおもむきで横たわっていたし、鼠やみみずや、かぶと虫や蝶や蝉たちの死骸が、陽の光の中にも草の蔭にもおかれていないことはなかった。草の蔭にはまだ生きている他の虫や蟻たちが、地の下に巣を営みながら地表に湧き出していて、道というものは、そのふところにさまざまの生命を生き死にさせ、牛馬たちの曳く車や、人力車や車力や、はては自動車のたぐいまで往き来させていた。それはほとんど脅威といってよかった。足をおろすにも息をのむ思いでわたしは歩いていたが、道というものは大地と生きものたちの営みの、目にみえる条痕でもあった。‥道というものを、あんまり先へ先へとつくってゆくと、出来上がったその道が、鎌首をもたげて動き出すのではあるまいか。その鎌首が、深夜、道の作り手のわたしのうちを望み見て、ご先祖さまからの山や地を、ぱっくり呑んでしまう光景は、おそろしいのである。
「椿の海の記」(石牟礼道子)の第七章の冒頭を写してみた。文字通り「道」というものにこのように、死と生の境界を読み取る感性というものはとても異様にも思える。しかし道にアスファルト舗装が施されず、土がむき出しの時代が当たり前だったとき、確かに生と死が同居・混在していた。蟻が虫の死骸を運び、鼠の死骸が腐敗して土にもどり、みみずが顔を出し、道ばたの土の柔らかいところから蝉がその最後の生を迎えるにあたり木によじ登るために顔を出してきた。生を生み、死を処理し、その循環を見せてくれる場所でもあった。庭がどこか取り澄ましている場所であり、死をいつの間にか草むらに隠してしまうのにくらべ、道はそれを隠すことなくそのままに展示していた。
同時に道は夜になれば、さまざまなものが、魑魅魍魎が行き来する場所でもあり、畏怖するものの行き交う場所でもあったと思われる。幼い子どもの視点によって記されたこの段落は、近世と近代とを結ぶ回路としても、この世とあの世との通路としても捉えられようとしている。
ほそい旧道はもう完全に裏通りになってしまっていたが、家の浦から田んぼの畔を通ってこのさびしい道に出ると、海の方へゆきたくなってくる。‥なぜかこのお堂のあたりに出ると、すっくりとしたわびしさに襲われる。お堂はもう、村のはずれ、田んぼのはずれ、野のはずれにあたっていて、そこらの風景はなにかしら、境界とか、さかいとかいうような気配をつくりなしていた。なにをへだてる境かは判然としないけれど、松の枝にもお堂の縁の下にも、さびしい風がひろびろと渡ってゆくのである。人と、人との間に無常の風が吹くように、景色と景色との間にも無常の境というものが、この世にはしつらえられているのかもしれなかった。
私はこの石牟礼道子の文章を読んだとき、すぐさま白川静の「おそらく異族の首を携えて外に通じる道を進むこと‥。外界通ずる道は、外族やその邪悪なる霊に接触するところであるから、徐道のための儀礼は厳重を極めるものであった。‥外部との境界である門にも、呪禁としての敵酋の首を埋めることが多かった」(白川静、「字統」の「道」の項)として生の象徴である首に関係する「道」の解説や「漢字百話」などの叙述を思い出した。
石牟礼道子と白川静には対談もあり(「回思九十年」ほか)、これもまた読んでいて刺激になる。まだまだ飛躍させていろいろと思いを巡らすことはできるが、取りあえずは妄想はこの辺で終えておきたい。
こんな妄想をくり返しながら読み進めると、なかなか読み終わることが出来ない。しかし読み終わるのがもったいない、という気持ちの方が強い。
道に関するお話、とても興味を持ちました。
昭和後半生まれの私ですが、土が見える道や田畑、空き地、沼地、小川が通学路に多かった東京の郊外、千葉、その後オランダで、小学校時代を過ごしました。
土からミミズが出てきて、晴天が続くと干からびて死んでいたこともよくありました。
それとなぜかは不明ですが、蛙や蛇、猫が道路で車にひかれて死んでいることも多々ありました。
その死骸が徐々に風化していくのを通学途中、目の片隅で見つつ、ひかれた瞬間、痛くなかったんだろうか、と考えて、夜になったらその死骸が動くような気がして、怖くなったこともありました。
子供には、生き物の無惨な姿は、気持ち悪くもありました。数週間、数ヵ月すれば、その死骸が雨や風で跡形も無くなれば、忘れていくという残酷さも持ち合わせているのですが。
道があれば、どこかで人間と会えるだろうという、安心感もあります。
探検も兼ねて、森林を数名の子供で歩いた時は、道らしいものはなく、途中で、気味悪くなりました。
入った場所へきちんと戻れるのか、途中で不安になり、みんな駆け足で、引き返したのを思いだします。道の存在は、道のない森林と違い、安心にもつながるのですね。
長々失礼しました。
ブログに目をとおしていただきありがとうございます。
わたしと同じような体験を記憶されておられますね。嬉しいです。
石牟礼道子の文章は、いろいろなことを想像させてくれます。
若い時にはなかなか感じ取れなかったと思います。
また訪れてください。