Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

謡曲「定家」

2017年05月04日 22時47分08秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 ふと謡曲の「定家」を思い出した。特に根拠はないのだが‥。あらすじは次のようなもの。

 北国から京へ着いた旅の僧が、都千本辺りでにわかに時雨に遭う。雨宿りをしていると一人の若い女があらわれ、「ここは歌人藤原定家が建てた時雨の亭(ちん)である」と僧に教える。女は定家の歌を詠み、僧を式子内親王の墓に案内する。
賀茂の斎院だった内親王は、定家と人目を忍ぶ深い契りを結ぶが、
世の知られることとなり、逢うことが出来なくなったまま亡くなる。それ以来定家の執心が、葛となって内親王の墓にまとわりつき、内親王の魂もまた絡まれてしまったと女は僧に語り、自分こそが式子内親王であることを告げる。そしてこの苦から救ってほしいと僧に告げ失せる。
その夜、僧が読経して弔うと、内親王の霊が墓の中から現れ、法の力によって苦が和らいだことを伝え、報恩のためと舞を舞う。やがてもとの墓の中にもどるのだが、再び定家葛にまといつかれて姿を消す。


 私がはるか昔、初めて謡曲に目をとおしたのが、金春禅竹作といわれる「定家」(清朝日本古典集成)である。以来横浜能楽堂をはじめ幾度か能を見る機会があったが、残念ながらこの「定家」はまだ演目として鑑賞したことがない。
 式子(しょくし/しきし)内親王と定家の関係はあくまでも伝説上の話であって、史実ではないがそれでもかなり早い時期からこれは伝説として成立していたらしい。
 謡曲「定家」と当然にも式子内親王の「玉の緒よ絶えなば絶えね長らえば忍ぶることの弱りもぞする」を下敷きにしている。
 私はこの謡曲に出てくる「執着」そのものに惹かれる。読経の功徳で地獄の責苦から一刻逃れても、その執着にすぐにまた「定家葛」にまといつかれ、式子内親王は成仏することはない。読経の功徳であっても解放されることはないという、「蛇淫の妄執」からの解脱の難しさを表現している。
 現代に生きる私などは、墓に絡んでいるのは定家の妄執の比喩なのだから、シテとして登場するのは式子内親王の精ではなく、定家の精でなければならないのではないか、あるいは女性は成仏できないという女性蔑視だ、と頭を過るのだが、それはそれとして、私は結末がとても気に入っている。

 露と消えても つたなや蔦の葉の かづらぎの神姿 恥づかしやよしなや 夜の契りの 夢の中にと ありつる所 かへるは葛の葉の もとのごとく 這ひ纏はるや 定家葛 這ひ纏はるや 定家葛の はかなくも 形は埋づもれて 失せにけり
(はかなく露と消えた後も 見苦しいこと 蔦葛に巻きつかれた かの葛城の神のような姿 恥ずかしいこと つまらないこと 夜の間の夢の中でお目にかかるだけである と言って 墓石の所に帰ってゆくと もとのように 這いまつわるのは 定家葛の葉であって はなないことにも 墓石の形は埋もれて見えなくなってしまった)

 どこか、現代的な脚本にでもありそうな結末に思える。三島由紀夫に「近代能楽集」という謡曲に素材を得た短編集がある。「邯鄲」「綾の鼓」「卒塔婆小町」「葵上」「班女」「道成寺」「熊野(ゆや)」「弱法師(よろぼし)」の8曲がおさめられている。「定家」を三島ならどのように再構成したのであろうか、と考えたりもした。三島にとっては惹かれるもののなかった曲だったのだろう。そこら辺の理由は思い浮かべることが出来ない。
 しかし私にとっては最初に目にした謡曲ということで、今でも時々思い出すことがある。


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