大学時代の同窓生が亡くなった旨、ご家族から連絡をつい先ほどもらった。ガンを患っていたという。体調は決して良くはなかったようだが、ガンとは想像できなかった。そしてこんなに早く亡くなるとは思いもしなかった。一緒に入学し、一緒にデモに出て、ノートの貸し借りをし、下宿で幾晩も語り合い、そして一緒にバリケードの中で過ごし、ともに留年させられた忘れられない仲間である。
私の結婚式にも参加してくれた。4年前に行った留年仲間の「同窓会」にも積極的に参加してくれた。
高木純(たかぎあつし)さん、享年67歳、早すぎる死である。立川高校を卒業後、一浪して東北大学理学部化学科に入学。1970年、学生運動激動期の東北大学であった。クラス討論では人の意見をじっくりと聞き、クラスをまとめるのに大きな力を発揮していた。そして1972年学費闘争-バリケード闘争ー封鎖解除反対-試験ボイコット闘争の最前線にいつもいた。
私などと同様、党派とは一線を画し、ノンセクトの独りとして振る舞っていた。
留年-学部進学後、私達が立候補した自治会選挙では選対責任者を引受けてくれた。卒業後は薬品会社に就職、早期に退職、ご自身で事業を起こしていた。仕事が休みの日は、部屋の中で飛ばすヘリコプターなどで楽しんでいる、と言っていた。
人に対して決して強く当たるようなことはされず、そして仲間を大切にし、人を裏切るようなことはない温厚篤実な方であった。
4年前の「同窓会」後、これで亡くなった方は2人。とても悲しい。同窓会に出席した仲間に連絡をしつつ、声が詰まった。
私の結婚式にも参加してくれた。4年前に行った留年仲間の「同窓会」にも積極的に参加してくれた。
高木純(たかぎあつし)さん、享年67歳、早すぎる死である。立川高校を卒業後、一浪して東北大学理学部化学科に入学。1970年、学生運動激動期の東北大学であった。クラス討論では人の意見をじっくりと聞き、クラスをまとめるのに大きな力を発揮していた。そして1972年学費闘争-バリケード闘争ー封鎖解除反対-試験ボイコット闘争の最前線にいつもいた。
私などと同様、党派とは一線を画し、ノンセクトの独りとして振る舞っていた。
留年-学部進学後、私達が立候補した自治会選挙では選対責任者を引受けてくれた。卒業後は薬品会社に就職、早期に退職、ご自身で事業を起こしていた。仕事が休みの日は、部屋の中で飛ばすヘリコプターなどで楽しんでいる、と言っていた。
人に対して決して強く当たるようなことはされず、そして仲間を大切にし、人を裏切るようなことはない温厚篤実な方であった。
4年前の「同窓会」後、これで亡くなった方は2人。とても悲しい。同窓会に出席した仲間に連絡をしつつ、声が詰まった。