Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「奇想の系譜」(辻惟雄)から「狂気の里の仙人たち-曽我蕭白」

2016年03月29日 23時24分35秒 | 読書
 曽我蕭白の作品は私はよくわからない。辻惟雄氏は「私はさきに、彩色「群仙図屏風」の画中に描かれている波に、北斎の「神奈川沖浪裏」の先取りといってよいような要素があるのを指摘した。確かに、蕭白と北斎とは、似通ったタイプの画家といえる。扱う画題に保守的と同時代的の違いはあっても、鉱物質ともいうべき乾いた非常な想像力、鬼面人を驚かす見世物精神、怪奇な表現への偏執、アクの強い卑俗さ、その背景にある民衆的支持、といった点が共通している」と記載している。
 なるほどと思うが、しかし「アクの強い卑俗さ」、「鬼面人を驚かす見世物精神」‥ゆえに私にはどうしても近寄りがたいものがある。鑑賞の眼の前におおきな高い塀が聳えている感じがする。私が中に入ることをあらかじめ拒否しているような気分になる。まだまだ私には曽我蕭白を理解できる力が無い、と諦めている。



 唯一の例外がこの「雲龍図」である。画面中央部が欠けているらしいが、この作品を私は東京国立博物館の数年前の展示で初めて見た記憶がある。その時の驚きは今でも忘れられない。大きな画面から今にもはみ出しそうな龍のユーモラスな顔にたまげた。そして何よりも巨大な画面にもかかわらず、キチンと前もって下書きを念入りにしてから描いたかのような緻密な描き方、白隠の書画のように途中で端折ったり描き切れなかったりという破たんを見せずに念入りに描きこんでいることにすっかり脱帽してしまった。
 そして龍の顔はユーモラスとはいえ「アクの強い卑俗さ」、「鬼面人を驚かす見世物精神」とは無塩の遠くの地平にいると感じた。
 残念ながらこの絵についての論評はこの書ではない。この書の校正の途中にこの作品の情報が辻惟雄氏にもたらされたという。であるので、この作品に対する言及も読者に委ねられてしまっている。まだまだ私はこの作品を語るだけの力量が無いことを告白するしかない。
 しかしこんな迫力のある作品を描けるということだけで、曽我蕭白という絵師の存在の大きさを思い知らされたと思っている。

モーツアルト「弦楽五重奏曲第3番、第4番」

2016年03月29日 12時23分04秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 モーツアルトの弦楽五重奏曲を昨日に続き聴いている。本日は第3番(K.515)と第4番(K.516)。演奏者は同じでメロス四重奏団を核としている。録音は1986年となっており、昨日の第1番、第2番の前年である。
 添付の解説によると第3番は第2楽章と第3楽章については移動があるらしい。モーツアルト存命中の1789年の初版に随っているとのこと。一般的には第2、第3楽章の扱いはこのCDとは逆である。この正否について論じる力は私にはない。
 この2曲はケッヘル番号が並んでいるとおり、1787年モーツアルトが31歳の時、1か月の間隔で作られた兄弟のような作品と云われる。モーツアルトの楽曲史からいえばもっとも充実した頂点の時期でもあり、翌年には交響曲第40番(K.550)と交響曲第41番「ジュピター」(K.551)が作られている。
 楽曲の充実とは別に生活は苦しくなり、借金がかさむ生活を繰り返している。またこの年は父が亡くなっている。

 この前後の年譜をWikipediaで見ると、
1785年(29歳) 弦楽四重奏曲集「ハイドン・セット」
1786年(30歳) オペラ「フィガロの結婚」(K.492)初演
1787年(31歳) 父・レオポルト死去。オペラ「ドン・ジョヴァンニ」(K.527)初演
1788年(32歳)「3大交響曲」を作曲
1789年(33歳) ベルリン旅行
1790年(34歳) オペラ「コジ・ファン・トゥッテ」(K.588)初演
1791年(35歳) オペラ「皇帝ティートの慈悲」(K.621)、オペラ「魔笛」(K.620)初演、
       12月5日ウィーンにて死去

 私もこの2曲は好みである。そしてこの2曲はやはり対で聴きたい。そしてヴィオラの魅力を充分に味わえる。さいわい1枚のCDに入っているので重宝している。

 第3番は交響曲第41番「ジュピター」と比肩される。壮大な気分になれる曲といえる。第1楽章からして明るく軽快な気分になる。このCDの第2楽章ののメヌエットは5度の和音が続いており気分的にも開放的になる。第3楽章アンダンテ(通常は第2楽章)はヴァイオリンとヴィオラの二重奏からはじまる。私にはどうしてこんな美しいメロディーをつくれるのかと思うほどに好きである。後半に進むにしたがい天上の音楽になる。第4楽章は稀有壮大な曲。

 第4番は交響曲第40番と比肩される。この第1楽章は、「疾走する悲しみ」とアンリ・ゲオンが評し、小林秀雄が「モオツアルト」の中で同様に「疾走する悲しみ」と記したこと有名である。冒頭のヴァイオリンの奏でる旋律をヴィオラが同じ旋律を続けるところが気に入っている。第2主題も第1主題同様に重苦しさが伝わってくる。同趣向の主題が続くのは珍しい。第2楽章の方が第1楽章よりは「悲歌」の要素たっぷりである。ト短調というのはモーツアルトならでは設定である。第3楽章は瞑想的である。このような静かな瞑想に私はとても惹かれる。第4楽章はさらに気分的には沈んでいく音楽である。

 いづれの曲も5本の弦楽器のバランスがとてもいいと思う。ヴァイオリンもヴィオラもチェロもそれぞれの音色を堪能できる。
 そして私はこの第3番と第4番は父レオポルト・モーツアルトへのレクイエムだと思って聴いている。第3番は天上の音楽、第4番は追悼歌。