パウル・クレーの絵には、これ見よがしの色彩の氾濫も、他を押しのける形態の自己主張も後景にあるように感じられる。
何かの目的を持って形態を表すのではなく、遠慮がちな描線の結果として何かの形態とも言うべき形象が現れたような絵ではないだろうか。形態と同じく色彩も何か遠慮深げにグラデーションをもって鑑賞者の前に現れてくる。それとなく現れてくると言ってもいいかもしれない。
絵画である以上、形態と色彩は切り離せない、また絵画の基本ではあろうが、いづれもそんなことは二の次のような顔をして鑑賞者の前に現れるのである。
この絵も形態が結果として「蛾」となっただけで、作者の意図したものはそうではなかったのかもしれない。そして青のくすんだグラデーションの中に形態は隠れてしまっている。6本の下向きの矢印も、「蛾」に刺さっている矢羽、その存在は控えめである。かといって色彩が前面に出て自己主張しているわけでもない。しかし心落ち着く絵画であることに変わりはない。
白の色彩の二つの焦点によって辛うじて「蛾」の頭部と尾部の矢印が浮かび上がっている。
矢印は下向きだが、グラデーションによる色彩の方向性は上と下、等価であって安定している。
この安定が私にとってはとても心惹かれる原因なのかもしれない。私にとっては見飽きない絵画である。
何かの目的を持って形態を表すのではなく、遠慮がちな描線の結果として何かの形態とも言うべき形象が現れたような絵ではないだろうか。形態と同じく色彩も何か遠慮深げにグラデーションをもって鑑賞者の前に現れてくる。それとなく現れてくると言ってもいいかもしれない。
絵画である以上、形態と色彩は切り離せない、また絵画の基本ではあろうが、いづれもそんなことは二の次のような顔をして鑑賞者の前に現れるのである。
この絵も形態が結果として「蛾」となっただけで、作者の意図したものはそうではなかったのかもしれない。そして青のくすんだグラデーションの中に形態は隠れてしまっている。6本の下向きの矢印も、「蛾」に刺さっている矢羽、その存在は控えめである。かといって色彩が前面に出て自己主張しているわけでもない。しかし心落ち着く絵画であることに変わりはない。
白の色彩の二つの焦点によって辛うじて「蛾」の頭部と尾部の矢印が浮かび上がっている。
矢印は下向きだが、グラデーションによる色彩の方向性は上と下、等価であって安定している。
この安定が私にとってはとても心惹かれる原因なのかもしれない。私にとっては見飽きない絵画である。